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為末大さんのnote 中心

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為末大「当事者になるつもりがない人」

為末さんの「体幹について」という記事を読んだ。

すばらしい論考だった。思考の跡が読み取れる。長年、身体を観察してきたものにだけ開かれる世界である。丹田の感覚を詳しくいうために、『聖中心道肥田式強健術』に膨らませていってもいいのだけど、今回は違う話をしたい。

世界観を言葉にできる人というのは少なくて、為末さんの言葉にはちょうどよい芯がある。ブログの「Think」部分を、過去にさかのぼって読んでみ

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なぜ今、この国では努力が報われなくなっているのか

なぜ今、この国では努力が報われなくなっているのか

10年ほど前でしょうか。「努力は報われるとは限らない」ということをつぶやいて炎上をしました。アスリートであるあなたが努力が報われないと言ってしまえば努力する人がいなくなるではないかという声をいただき、私なりには思うところもあったもののそういう意見もごもっともだと納得もしました。当時、私の肌感覚では人々の一定数は努力は報われることを信じていたように思います。

「努力は絶対裏切らない」という池江選手

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なぜ社会は好きなことをやる人を支援するのか

なぜ社会は好きなことをやる人を支援するのか

「リスクを取って好きなことをしても構わないが、自己負担で行うべきだし、自己責任で行うべきだ」という考え方があります。主にアスリートやアーティスト、また自営業者、起業家など、組織に属さない人に言われる事が多い印象です。確かに好きなことをやるのは自分の負担でというのは納得しやすいですが、一方で本当にそれは社会にとって良い形なのでしょうか。

ゴッホ美術館がオランダにあります。ゴッホにはテオという兄弟が

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素直な人とイエスマンは何が違うのか

素直な人とイエスマンは何が違うのか

素直であることと、ただのイエスマンの違いがわからないという質問がありました。
これは確かに微妙なところで、素直さはただの従順さになりえます。また教える側も、実際には相手を従順にさせコントロールする為に素直になれと言っていることもあるかもしれません。では、違いはどこにあるのでしょうか。

私は、素直であるということは行いながら感じているということだとしています。一方ただのイエスマンは無感覚、または感

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素直さと当事者意識

素直さと当事者意識

当事者意識と素直さに関係があるのでは、というご意見があった。確かにイエスマンは、極論するとアイヒマンのように、責任回避のために何も決めず無批判でいるようなイメージがある。一方素直な人間はそこになんらかの意図があるように見える。しかし意図があることと素直さはバランスするのか。

私なりの整理では、

「当事者意識=自分には結果に対し責任がある+自分には影響を与える力がある」

だ。まず、結果に対し責

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死ぬまでにやってみたいこと

死ぬまでにやってみたいこと

昨晩はBrightureの学生さんたちと飲みに行って、色々な話をしてきました。転職を考えている社会人もいれば、就職先に悩んでいる学生さんもおり、またある人は現在の恋人と結婚すべきなのか悩んでいたり......。若い時ってまだ大した経験もないのに、自分の一生に大きな影響を及ぼす重大な決断に色々と迫られるから、なかなか焦るんですよねぇ。僕自身にもかつてそんな時期があったことを鮮明に思い出しました。

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自分にふさわしい生涯の伴侶かどうか見極める方法

自分にふさわしい生涯の伴侶かどうか見極める方法

今現在結婚を考えているけれど、「本当にこの相手でいいのだろうか?」と迷っている人も少なくないのではないでしょうか?

自分にふさわしいパートナーを一体どう見極めれば良いのか。これはなかなか難しい課題です。僕自身もあまりよく分からないままに結婚しました。幸い仲良く四半世紀一緒にやってこれたので、これを機会に振り返って、もしも僕がまだ結婚前だったとしたら、一体どうやって相手を見極めるか、考えてみること

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身体に浸れる人は幸せになれる

身体に浸れる人は幸せになれる

長文ファンの皆様おはようございます。

最近「身体に浸れる人」は幸せな傾向にあるのではないかと考えています。

花が綺麗だ、これが美味しい、動いて楽しい、触れて心地よい。これらを言葉に変換せず、ただただ浸れる人です。人が幸福を感じているまさにその瞬間、なぜ幸せなのかを雄弁に論じることはあまりありません。要するに幸せは身体的なもので、非言語的なのではないかと思います。

「身体に浸る」は簡単なようで

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哲学的であること、考えすぎていること

哲学的であること、考えすぎていること

哲学的であるということと、考えすぎているということの境目はどこにあるのでしょうか。前者は深くなっていきますが、後者はこじれていきます。哲学的であれば何かを理解するために考えますが、考え過ぎていれば悩むために考えます。決めようとせず考え続けることに心地よさを覚えるかどうか。疑問に興奮する人間は哲学的です。

考えすぎている人は疑問が投げかけられた時に浮かない表情をします。疑問に対しおもしろいですねと

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触れてはいけない人

触れてはいけない人

触れてはいけない人がいる。目の前の人間に勝つかどうかが全ての比較の人生を生きている。
自分が他者より劣っていると感じる事が嫌で、他人を褒める事ができない。褒めることはあるが他人を褒められるぐらい余裕がある自分を見せたくて褒めている。
何にでも張り合い、ただそこにいることができない。よく皮肉を言っている。素直になれない。笑った時、少し顔が引きつる。

こういう人は敵か味方しかいない世界を生きている。

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選手村のコンドーム

2000年のシドニーが私の初めてのオリンピックでした。 まず空港に着くとIDを作りそれから選手村に直送し選手村の中に入るときにウェルカムバックを受け取ります。 そのウェルカムバックの中には、お土産品とか、地元の子供達が作ってくれたものとかいろんなものが入っているのですが、そこにコンドームが入っていて驚いたことがあります。

選手同士で顔を見合わせて、無言で下を向いている女子選手や、または「おいおい

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見立てる力はどのように育まれるのか

見立てる力はどのように育まれるのか

長文ファンの皆様おはようございます。

私はクリエイティブと言われる能力は「見立てる力」に支えられていると考えています。何かになぞらえる、そうだとしてみるというものが見立てることだと私は整理しています。

例えばある形の雲を見て「キリンのようだ」と思うのも見立てです。新しいテクノロジーを「まるまるのようなものではないか」とするのも見立てです。

都市部の生活は基本的に誰かが作った人工物に囲まれて生

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子供達が社会で生きていけるようにするには、社会を体験するしかない

子供達が社会で生きていけるようにするには、社会を体験するしかない

長文ファンの皆様おはようございます。

教育の目的は様々ですが、役割の一つに「社会で生きていけるようにすること」があります。

例えば目的を海で泳げることだとします。姿勢の作り方、水のかき方など、実際に泳ぐ際に必要なことを学ぶ機会も必要ですが、どこかのタイミングでは水の中に飛び込んで実際に泳いでみなければなりません。できるとわかるは違うからです。できるためにはやってみるしかありません。

これを教

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楽しむことを邪魔する自分の価値観

楽しむことを邪魔する自分の価値観

立派なものや社会において価値があるものは、人間の価値観の総意が決めていて、価値観がなくなってしまえば意味もなくなる。そのうえで敢えて立派なものを追いかけてもいいし、別にいいやと自由に生きてもいい。

価値観がなければ人間は悩まない。自分はどうしてこうなのかという悩みは、こうであるべきだという価値観があるから成立する。相手はなぜこうなのかという悩みは、人間は普通こうであるべきだという価値観があるから

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