為末大「当事者になるつもりがない人」

為末さんの「体幹について」という記事を読んだ。

すばらしい論考だった。思考の跡が読み取れる。長年、身体を観察してきたものにだけ開かれる世界である。丹田の感覚を詳しくいうために、『聖中心道肥田式強健術』に膨らませていってもいいのだけど、今回は違う話をしたい。

世界観を言葉にできる人というのは少なくて、為末さんの言葉にはちょうどよい芯がある。ブログの「Think」部分を、過去にさかのぼって読んでみた。途中何度か方針転換をしている。しかし、根本は変わっていない。

私はどんな世界で、どんなふうに生きるか。

このことについて、淡々と迫っていた。自由とは何か。自分とは何か。自分をコントロールするとはどういうことか。他者についてどう考えるか。為末さんの陸上理論からは、思考の粋がそのまま読み取れる。

はっきり言って、ぼくと同じような世界を生きている。すごく楽しみながら読んだ。同じことを、ぼくよりも考えている人がいた。

しかし「当事者になるつもりがない人」という記事を読んだ瞬間、手がとまった。

――ぼくは、自分の人生の当事者になれているか?

文章に問いかけられていた。

当事者になるつもりがない人は愚痴が多い。愚痴の原因をほったらかしているのも、解決できるかどうかも全ては自分にかかっていると思っていないから、愚痴が多い。下手すると自分の人生まで愚痴を言っている人がいる。自分の人生の当事者にすらなっていない人が何かの活動の当事者になれるはずがない。こういう人はこんな自分に誰がしたと思いながら生きている
当事者になるということは起きていることの結果を引き受けるということで、引き受けると決めていれば当然先読みして戦略を考えだす。うまくいかなければ原因を考え改善し、またトライする。なにしろ当事者にとってはそれをやり遂げる人は自分だと思っているから、他の誰でもない自分の頭で考え自分の責任で実行し、結果を自分で受け止める。
難しいのは、自分は当事者意識がなかったということに気づくのは、当事者としてある程度の意識が芽生えた時でしかないということだ。つまり当事者として考えていない人も、自分は当事者意識を持っていると思って生きている。ある日本当の意味で当事者意識を持った時、自分はそう思っていただけで実は当事者になっていなかったと気づく。そういうわけで”だから君は当事者意識がな、、”なんて話して通じるかというと、おそらくそれは難しい。
当事者は目的のために動いているから手段にこだわることはない。
当事者になるつもりがない人と組んでしまうとえらくめんどくさい。だから大人になると当事者になるつもりがある人とない人を見分けられないと、ひどい目にあう。

書けば書くほど、この衝撃は何なのか、どこからくるのかを見定められずにいる。ぼくは、ぼく自身を所有しているか。ぼくは、自分の人生を生きると理解しているか。何かを論評するばかりで、何も価値を示せていない。過去を言い訳にしていないか。微温的な態度で、世界と接していないか。

この正体に向きあわないといけない。

ツイッターを消した。

追記:以下のものは、ぜんぶ同じことを言っている。とても重要なこと。その正体は? わからない。見ないようにしているのだ。見なければいけないのに。





サポート金額よりも、サポートメッセージがありがたいんだと気づきました。 読んでいただいて、ありがとうございました。