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素直さと当事者意識


当事者意識と素直さに関係があるのでは、というご意見があった。確かにイエスマンは、極論するとアイヒマンのように、責任回避のために何も決めず無批判でいるようなイメージがある。一方素直な人間はそこになんらかの意図があるように見える。しかし意図があることと素直さはバランスするのか。

私なりの整理では、

「当事者意識=自分には結果に対し責任がある+自分には影響を与える力がある」

だ。まず、結果に対し責任を感じていないと当事者になる気を持たない。また、その結果に対し自分は影響を与えられると思えないと人は行動しない。責任と力の両輪で当事者意識が生まれると思っている。

私はコーチをつけずに競技人生を送ったので当事者意識を持たざるを得なかった。コーチがいても当事者意識がある選手はいたが、当事者意識がない選手と見比べると、学びの速度が違っていたように思う。端的に言えば当事者意識がない選手は自分が何をしようとしているかを自分で知らない。

当事者意識を奪うコーチングははっきりしている。教えすぎて、決めすぎることだ。なぜならば自分でこうしたらどうだろうと考え、やってみようと決め、なぜだろうと反省することが当事者意識を育てる。そのプロセスで自分には結果を変える力があると実感する。しかし、言われた通りやるというプロセスは素直さにも近く見える。両者の違いはなんなのか。

素直な人間の持つ大きな特徴は、自分の人生を生きる責任を手放していないということだ。イエスマンは自分の人生を委ねてしまっている。だから結果の責任は命令を出したあの人の責任だと言える状況を望む。素直な人間は言われた通りやってみるが、うまくいかなくてもそれも自分の人生だと思っている。

当事者意識の最も根本は自分の人生の当事者となることだ。自分の人生の当事者となることは誰かのせいにしないことで、過去の感情に引きずられる人は、出来事の責任を他者に求めている。素直な人間が無邪気に見えるのは、過去の感情に引きずられないからで、だから今ここでこだわりなく開くことができる。

人は自分の人生を生きることに耐えきれなくて、イエスマンになり、裏切られることが嫌で素直ではなくなる。故に素直さは持ち合わせている特性ではなく、内省で洗練させていくものだと私は考えている。

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