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わたしは心を球にした。折れないどころか、自分を中心に人生が回り始めた。

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心が“折れる”というのは日本人特有の表現らしい。英語ではLoseやBreakを使うのが一般的で、中国語では伤(傷)や碎(砕)という字を充てるようである。

伝説の柔道家、故・三船久蔵氏は言った。
“球は中心を失わないから倒れることはない”

わたしは武道をやっていたのでこの意味がよく分かる。大した経験もないのに力で相手を倒そうとする人が意外と多い。もちろん、うまくはいかないし、自分が発した最大限以上のパワーで跳ね返されれば怪我をする可能性がある。

しかし、相手と球のように一体となれば、安全かつ最小限の力で自分の優位なポジションを取ることが可能になるのである。

心は折れるものと頭で思っていれば、いつかそのとおりに折れてしまう。情報空間と物理空間は連続しているからだ。それぞれ個人が持っている思考の“こわばり”や“偏り”も、そのまま人生という表舞台の“装飾”に必ず表れているのと同じ原理である。

実際、心は折れない。
折れたことがあると思っている人は、頑固すぎる自分の心に屈しているだけだと思う。

あなた自身の「手のひら」をよく見てもらいたい。手のひらで感じたものこそ、事実であり真実である。頭で感じることはそれほど重要ではない。手が柔らかくないかぎり、頭も柔らかくなることはない。物理と情報はつながっているからだ。

そして、手のひらを胸に当ててみてほしい。

手のひらに広がる胸の感触、それは“外から”観た自分である。そして胸で感じるあなたの手のひら、それは“内側から”観た自分である。

人は他者を内側(自分側)から愛し、他者に外側(相手側)から愛される。存在とはその釣り合ったバランスのことであり、それを手のひらで感じながら生きていく。

人の手は宇宙全体をフラクタルに模していると言われる。つまり、我々は宇宙の真理をすでに有しているのである。

手のひらを返すという言葉があるように、大振りで無感覚な生き方は自分や他者に対する愛の放棄である。

一方、優しく包み込むような繊細で微細な手の感覚を持つことは、思考の入るスキがないありのままの自分だけが粒子のように他者に溶け込んでいくという宇宙の摂理に触れることでもある。

生きづらさを感じたり、日々の生活がうまくいかないときほど、まずは自分の心より「手」と向き合うのもありだと思う。

あなたの手。その柔らかさ、温もりは絶対に嘘をつけないはずだから。

そっと手で誰かを包み込んでみよう。誰もいなければあなた自身でも構わない。

その癒しこそ、天があなたに授けた手解(ほど)きであり、自分らしく生きるための術(すべ)なのだ。

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