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スケッチ

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仙台でカメラマンを夢見る男性、北多川悠(キタガワユウ)は彼女の江美と二人暮らしをしている。 ある日原因不明の病で北多川は視力を失う。 彼が辿る運命とは。 とある楽曲をベースに紡…
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#オリジナル小説

スケッチ⑯

スケッチ⑯

午前9時25分。

白杖を前に出し、新幹線から駅のホームに降り立った俺は、土地の風土を確認するようにその場で一つ深呼吸をした。
朝の東京。まだ少し冷えた空気が体の中に満ちていく。
仙台からおよそ二時間。
自分にとって久々となる遠出は、思いのほか体にくるものがあった。
俺は電車やバスなどの乗り物に長時間腰掛けているのが苦手だ。
仙台で生活をしていて地下鉄やタクシーに乗る事はあっても乗車時間は数分程度

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スケッチ⑮

「ーーそういうわけで、俺は流浪のギタリストになったわけ」
西野は、その一言をもってバンドメンバーに向けた自分史の説明を終えた。
しゃべりすぎて口が乾いたのだろう。
ほとんど語り終えるのと同時に横からぐびぐびと喉を鳴らす音が耳に届く。
会話に隙が生まれ、西野に習うように俺も手元のジンジャーエールに口をつけた。

営業後のVIVA OLAの店内は冷蔵機や空調の駆動音しか聴こえてこない。
老モーターの微

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スケッチ⑭

スケッチ⑭

二週間後の午後、東堂さんから電話があり、約一ヵ月後に自費での個展開催の目処がたった話を俺は聴かされた。
近いうちに、という話を東堂さんから事前に聴かされていたものの、余りに軽やかなそのスピード感に内心俺はかなり驚いていた。
東京芸術劇場。
東堂さんが口にしたその会場で、二日間に亘る個展の開催を予定しているとのことだった。
その場所の名前すら聴いた事のなかった俺は、東堂さんからご存知ですかと尋ねられ

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スケッチ⑬

スケッチ⑬

夕飯は、江美が作るベトナム料理だった。
一緒の部屋に住んで生活しているものの、仕事の時間帯がお互いに違うせいですれ違いが続き、テーブルを挟んで食事を共にするのは久しぶりな気がしていた。
自分自身でこんな風に物事に対して久しく感じるとき、江美も同じように感じていることが不思議と多い。
きっと、こうした団欒の機会をずっと静かに求めていたのだろう。
買ってきた野菜や肉をキッチンで調理をしながら、リビング

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スケッチ⑫

スケッチ⑫

枕元に投げ出していた携帯電話が、小刻みなバイブレーションと共に弾むようなピアノの音を奏でる。

ハイドンのアレグロ、ヘ長調。
携帯電話に登録している連絡先に俺は個別で音色を設定している。
この楽曲が鳴るという事は、、未登録の電話番号だ。
今は何時だろう。ねっとりとした眠りの余韻が思案を曇らせる。
ぼやけた頭を呼び起こす様に深呼吸で体中に酸素を巡らせる。
汗が染みこんだ昨日からのシャツの湿っぽい感触

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スケッチ⑩

スケッチ⑩

その日の夜、俺は少し早めにVIVA OLAへ行き、珍しく店内のピアノを使ってシューマンのトロイメライを弾きながら東堂さんの到着を待っていた。
静かな店内からは空調の排気音や、テザがカウンターで作業をする音しか聴こえてこない。無観客ながら自宅とはまた違う環境で演奏するのは新鮮な気分だった。
一般的にピアノは一年に一度、調律すればさして問題ないとされているが、このピアノは半年に一回の頻度でメンテナンス

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