スケッチ⑮

「ーーそういうわけで、俺は流浪のギタリストになったわけ」
西野は、その一言をもってバンドメンバーに向けた自分史の説明を終えた。
しゃべりすぎて口が乾いたのだろう。
ほとんど語り終えるのと同時に横からぐびぐびと喉を鳴らす音が耳に届く。
会話に隙が生まれ、西野に習うように俺も手元のジンジャーエールに口をつけた。

営業後のVIVA OLAの店内は冷蔵機や空調の駆動音しか聴こえてこない。
老モーターの微弱な振動や、出来立ての氷達がまとまって製氷機内を転がる軽快な音は、この空間を揺蕩う時の流れに寄り添うパーカッションの様に思えた。
夏の終わり、少しだけ秋めいた本当に静かな夜だった。

この日、俺は普段共演しているバンドの面子に声をかけ、自分自身に起こった数奇な出来事の数々を話そうと考えていた。(俺が話しだす前に西野が自分の音楽観を語り出してしまったが。。)
憧れの人、東堂さんと大舞台で共作を披露するなんて話しは、意図せずとも自慢話だと捉えられてしまいそうだが、無論この場を共有する目的は俺が東京に出向く間、店やメンバーに迷惑をかけることへの説明と謝罪のためだ。

カウンター中央のスツールに腰かけた俺を挟むように、ギターの西野とドラムのムロ爺が座り、ベースの小泉さんは退店して不在のテザに代わり、俺たちの前に立ってビールを飲んでいた。
「確かに、西野くんは一つのバンドに所属して活動するようなタイプではないよね。」
聊か鼻息の荒くなった西野をいなす様な声で、ベースの小泉さんが言う。
「でしょでしょ。そうなんですよ。俺みたいなタイプは一個の枠にカチィーって収まってたら絶ェ対ッ、駄目なんすよ。なぁ北多川」
小泉さんの言葉で再び勢いを付けた西野の声が聴こえたと同時に、熱を帯びてのぼせた腕が、蛸のように首に巻きついてきた。
と、隣でスコッチのダブルを嗜んでいたムロ爺が、呆れたように深い溜息をついた。芳醇な香りが微かに漂ってくる。
「西野、お前がやってるのは所謂クラシックじゃねぇか。あまつさえ歌い出せば孤独なブルースや滲みったれたフォークソングばかり。小泉が言ってるのはつまりそういう意味で、最初からお前は一固体のバンド向きじゃないんだ。ドラムも、ベースも、お前のやりたい事にはさして必要ない。元来一人でやるのが性にあってんだよ。」
少々棘のあるムロ爺の言葉に皆しばらく黙った。
静寂の中、ムロ爺に向って不機嫌な顔をする西野と、カウンターの向こうで優しく微笑む小泉さん、してやったり若造。と、スコッチを舐めるムロ爺の顔が浮かんで見える。貯氷庫内に氷が落ちる音が小さく響く。

VIVA OLAで演奏するバンドのメンバーの中で俺たちと西野は一番付き合いが浅い。
ムロ爺と小泉さんの二人は市内で活動するジャズバンドに各々属していて、店のオープン時に書面で申し込んだ俺とは違い、関係者が事前に声をかけて協力を依頼したのだった。市内である程度名の通った音楽家というのは、欠員が出たイベントのサポートや純粋な演奏依頼などを日当の仕事として単発でこなすのが一般的らしい。
開店して暫くの間は俺を含めバンドメンバーはその三名で回していたのだが、ある日突然道場破りの様に店を訪ねて来たギタリストがいた。それが西野だった。
その日は担当者が不在で(というか、経営陣と運営人は切り離されていて、そもそも店には常駐していない)西野はカウンターで作業するテザに向って臆面もない声をあげたらしい。
テザの言葉を借りるなら、「PASSION」に胸を突き動かされたのだそうだ。西野の挙動から伝説のギタリストの霊が憑依しているとも当時は話していた。
いずれにしても、寝耳に水だった俺たちや運営の判断を置き去りにして、西野はその日のセッションに強引に参加を果たしていた。
西野はもともとクラシックギターを専門にやっていたが、人間性と音楽性の間にはかなりの乖離があり、出逢ってすぐの頃は遠慮ない口の利き方やギャンブルが趣味という話から俺の中では粗野で浮ついた印象だった。
俺の場合、昔馴染みの相手を除けば出逢う人々の顔や人相は想像することしかできないが、クラシックギタリストという経歴を聴くまではその声や口ぶりから俺の中でもギャップがあったことは言うまでも無い。
大人になるまでクラシック一辺倒だった西野はコンクールや大会などという場で観衆に形式的な称賛を受ける事は多々あっただろう。しかしそうした需要と供給はあくまで相互欲求の上に成り立っている。さして興味も関心もない人間の前で誇らしげに吠えてみても、酒の席では蔑ろにされることは珍しくない。西野にとってそうした出来事は身に覚えの無い経験だったと同時に、これまでの過去の経験や培った自尊芯を著しく傷つけた出来事でもあった。
熱のある性格上、それから西野は盲目的に(喰い漁るというのが適切かもしれない)他のジャンルに手を付け始めた。
今まで一枚だった手持ちのカードが二枚三枚と増える事に快感を覚えたらしい西野は、路上やライブハウスへ飛び入りでのセッション行脚を繰り返し、ある夜(運悪く)酒を嗜んだ西野は俺たちが到着する前のVIVA OLAへと流れ着いた経緯だった。
目が見えない俺にとって、身構えの無い状態で眼前に吹き付ける酔っ払いの吐息というのはトラウマ級であり、初対面の西野の印象を格段に悪くさせたのもこの初夜の出逢いに他ならない。

ムロ爺に諭された西野が、小さく舌打をする。
何でも思い通りにできると自負する西野に、ムロ爺はいつも懐疑的だ。
「だぁー。もうっ。ムロ爺はねぇ、理屈っぽいんすよ。いいじゃんフォークソング。普段涙なんて見せねぇ男達の内に秘めたる心の哀歌。そう、それは酒で消せない痛み。惚れた女に逃げられて、待てど暮らせど隙間風、あぁ慕情。沈む夕日が眼に滲みる。。」
尻すぼみに叙情的な言葉を口にする西野の声は、キザな芝居がかかっていた。ムロ爺の意見に対する返事には成っていなかったが下手なアクセントを抜いた即興の詩歌は中々の出来だと俺は思った。
何かしらの言葉を求めている様に、俺の肩に回されていた腕に力が込められた。
「うん。西野くんは詩のセンスも抜群だねぇ。いいよ。グッとくる。」
「っしゃぁ、ですよねですよね。俺ってばやっぱ才能あるんすよ。」
小泉さんは単純な西野をからかっているのか、それとも本気で褒めているのか、霞の様な声を投げ続ける。
空になったビール瓶を叩きつける音が聴こえ、西野はカウンターの小泉さんに四本目のおかわりをオーダーした。
まるで自分の子供をあやすような声で、はいはい、と小泉さんは返事をする。

小泉さんこと、小泉政矢さんは粒揃いな俺たちメンバーの中でも年齢に相応した大人らしい人だ。年の近い奥さんと最近保育園に入園した子供もいる。
鯨の様なテザ程ではないが、小泉さんもしっとりとした低い声をしている。
なんというか、いかにもべーシストといった声色だ。
ドラムのムロ爺とは付き合いが長く、小泉さんの言葉についてムロ爺は西野と違ってあまり口を挟まない。
何処か飄々とした小泉さんに関心がないのか、それとも気心が知れた仲だからなのか、その真意は知り得ないが互いに自分のテリトリーを容受し踏み込まない様にしている様な静かな落ち着きが感じられた。


「ところで悠、話ってなんなんだ。皆を集めるなんて珍しい。」
再び西野が口を開く前にムロ爺が声をかけた。
「おや?、、もしかして、、例の彼女さんと、、?」
小泉さんは含みのあるような声色で言った。
「え?!なに結婚すんの?!」
西野が大声を上げた。
話しの主導権を再び握られそうになった俺は、焦って事態を収拾させる。
「ちょっと待ってください!そうじゃないんです。実は俺、来週東京に行く用ができて、少しの間迷惑かけるから、、その、、報告というか。。」
と、途中まで話し出してから俺は気付く。
西野の長い話をつまみに俺以外は全員酒を飲んでいて、度合いは異なるものの皆一様に酔ってしまっている。
こうした上気した雰囲気の中での真面目な雰囲気は今の彼らにとっては酔い醒ましに近い。
先に口走ったような色めき立つ話題で騒ぐことを期待していたのだろう。
なーんだ、つまらん。という空気がカウンターに溢れ出た気がした。
「別に店休むのは構わないだろ。」
ふっと息を吐いて冷え冷えとした声で西野が言う。
「北多川くん、何かあったの?」
言葉足らずを補う様に小泉さんが続けた。
前かがみに腰掛けていた姿勢を正した俺は、小さく咳払いをしてから三人へ向けて事の次第を話した。
救いだったのはムロ爺が東堂さんとの夜を覚えていた事だった。
最初こそ黙って耳を傾けていた西野も、ムロ爺と俺の話を併せて聴いている内に興味が湧いたのだろう。一通り話が終える頃には再び俺の肩に手を回していた。
「すげえなあ。まあ、俺も前からお前のピアノには光るモン感じてたんだよ。アーティスティックていうかなんつーか。なぁ」
西野は唯一の理解者の様に話しながら、肩に回した手を揺らす。
「確かに。僕もこれまである程度ピアニストの方とご一緒してきましたが、北多川くんの演奏には胸に響くものがありましたね。」
小泉さんも話に寄り添うように続けた。
この店で、三人と演奏を共にするようになって大分時間が経つが、俺達メンバーは「バンド」という集合体に対して執着をする事は無かった。
時には今日の様に顔を並べて対話をする事も幾度かはあった。
しかし、実際にそういう日は珍しいケースで、当日の演奏が終わればそれぞれがそれぞれの向かうべき場所へ早々と戻っていくのが殆んどだった。
バンドとして、VIVA OLAで共にした長い長い時間の経過とは裏腹に、どこか縮める事の出来ない精神的距離を感じていた俺には、二人が口にした賛辞は有り難く感じた。そして、それはとてつもなく貴重な瞬間だった。
西野も、小泉さんも、ムロ爺も、自分というマイスペースを巨木の様に確立させているが故、各々に違いがある事を当たり前の様に認知して受け入れ、相手の音楽的表現に踏み込む事をしない。
冗談で茶化す事はあっても、誰かが演奏のスタイルや沁みついた手癖に文句を言う事は無かった。
しかし、そうした状況は相手への意見を手放すという事と同時に、下手に演奏を讃えるという事をも慎むことに繋がっていた。
これは、ある種の尊重とも思えるが、悪い言い方をするならば無関心ともとれるような状態だ。
相手の細かな表情を汲めない俺にとって、そういった事が潜在的に心の距離を感じていた理由なのかもしれない。
心から気遣う気持ちがある時は、相手の肩や腕に手を添え、労いの言葉を伝える。
そうした行為が妙な誤解を生みかねない場合は、声色やその圧、温度や速度から真意を読みとらなくてはならない。
男同士のフランクな付き合いというのは楽でもあるが、実際には圧倒的に相手の想いを読みとりにくい関係性でもあった。
店の客や江美、テザから温かな賞賛や労いの言葉をかけられる事はあっても、メンバーから演奏について何か言われた事はこれまで無かった。
そして、かくいう俺自身も、今初めてそれを、そのことを実感していた。 
月並みな褒め言葉が、メンバーという人間を介しただけで耳にした事の無い新しい音色を享受したようなきらきらしたイメージに変わる。
突然のことに、喜びが溢れ、胸の奥がぎゅっとしめつけられる。
「よかったな。悠。うん。。よかったよかった。」
熟慮した単語を噛み締める様に、二人に遅れてムロ爺が言った。
「皆さん、、ありがとうございます。」
温もりを噛み締めながら、静かに俺は言う。
瞬間、誰もが口を閉ざし、味わう様な沈黙が自然に訪れた。
製氷機内で氷が転がる音が響く。
カウンターにゆっくりとした時間が流れ、それが急に辛気臭く感じられた俺は取り繕うように口を開く。
「まあ、これで何かが急に変わる事はないと思いますし、仙台戻ってきたら報告会というか、また今日の事についてお話させてください。」
そう言ってから俺は手元のグラスに口をつける。中身はほとんど氷しか残っていなかった。
再び短い沈黙の後、空のグラスを下げながら小泉さんが口を開いた。
「北多川くん、君の新しい挑戦。とても嬉しく思います。ちょっと羨ましい様な意地の悪い感情も無いわけではないですが、いずれにしても、微笑ましい日です。」
言葉の後、カウンターの向こうで何かが擦れる音が聴こえる。
次の瞬間、コースターに添えていた俺の手に何か固いものがぶつかった。
小泉さんが新しい飲み物を淹れてくれたのだろう。
咄嗟に俺はその物体に指先を這わせ、形状を図ろうと試みた。
しかし、それはグラスとは明らかに違っていた。
薄い、、小さな板の様な。。

「、、小泉さん、これは。。?」

「そちらを持って行ってください。私がいつも願掛けとして持ち歩いているピックです。」
小泉さんは言った。
「あれ、でも、小泉さん指弾きっすよね。」
西野が不思議そうに言う。
そうなんだ、と。隣で俺は思った。
「私は元々ギタリストだったんですよ。バックトゥメガロドンって、ご存じないですか?」
「メガ、、メガロドン。って。。。あの、えぇ、!マジすか!」
西野が勢いよく席を立って大きな声をあげた。
カウンターに置かれていたビール瓶が転がる音が響き、小泉さんがアッと小さく声を出した。
「なんじゃ、そのマグロなんとかってのは。」
ムロ爺が寝ぼけた様な声で言った。
「ムロ爺、、マグロじゃなくてメガロドン。バ・ク・メ・ガ!超ホットな覆面のインディーズパンクバンドっすよ!え、小泉さんマジすか。あすこでギターやってたんすか。」
やつきばやに次々と言葉を繰り出す西野は相当興奮している様子だったが、俺もムロ爺もそのバンドを耳にした事がなく、残念な事に相反する反応は冷ややかだった。
そんな俺達の落ちついた顔を見て興ざめしたのか、西野は溜め息と舌打ちを一度吐いて再びスツールに腰掛けた。
「まぁ、昔の話ですよ。大昔。」
カウンターに零れたビールを拭いているのだろう。
小泉さんは絞り出すような声で言った。
「そのピックは、バンドが解散する日に使っていたものです。バンドを辞め、ギタリストからベーシストへと道を変えた転換期の、所謂マイルストーンの様なものでして。今でも大事にとってあるんです。大層な縁起物とは決して比べ物にはなりませんが、私にとっては当時の様々な情景や思いが収められたピックです。これは、、新しい事に取り組もうとする今の北多川くんに、これを是非持っていてもらいたいなと今、思ったんです。」
指先でつまんでいたそのピックを、俺は掌に乗せた。
小泉さんの思い出が詰まった小さなピックは、言葉を聴いた後だからなのかなんだか重みを増した様に感じられる。メガロドンのピック。。
「小泉さん、、ありがとうございます。身につけて演奏させてもらいます。」
掌のピックを握りながら俺は小泉さんへ感謝を伝えた。
「北多川ぁ、お前それ絶対無くしたりするなよ。バクメガのホットなギタリストのホットなピックなんだからな。」
恨めしそうに念を押す様な声で西野が言う。
「相席はできんが、わしらは仙台から応援しとるぞ。」
ムロ爺は再び熟慮した様な言葉を話したが、先ほどとは違い妙に間延びした声だった。(スコッチの所為だろう)
「では、北多川くんの挑戦を応援する私達の気持ちをこのピックに込めましょう。ひとつ儀式があるんですが、皆さん強力してくれますよね?」
小泉さんの唐突な質問に、皆揃ってきょとんとした顔をしていたと思う。





自費出版の経費などを考えています。