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スケッチ⑭

二週間後の午後、東堂さんから電話があり、約一ヵ月後に自費での個展開催の目処がたった話を俺は聴かされた。
近いうちに、という話を東堂さんから事前に聴かされていたものの、余りに軽やかなそのスピード感に内心俺はかなり驚いていた。
東京芸術劇場。
東堂さんが口にしたその会場で、二日間に亘る個展の開催を予定しているとのことだった。
その場所の名前すら聴いた事のなかった俺は、東堂さんからご存知ですかと尋ねられ、慌てて露骨に取り繕うような態度をとってしまった。
豊島区にあるというその場所をインターネットで調べてくれた江美は、近代的デザインの外観に驚嘆に満ちた溜息を漏らしていた。
ガラス張りの巨大な多面体を、江美は一眼レフの内部に組み込まれたペンタプリズムの様だと俺に教えてくれた。(何年か前に流し読みしていたカメラ雑誌で思い出したらしいが、そんな事を江美が覚えていた事がなんだか可笑しかった)
話によれば東京芸術劇場は、東堂さんが使用する巨大な展示ギャラリーは元より、大・中・小の三つに分けられたホールが主体となっている場所らしく、オーケストラやオペラのコンサート、演劇や舞踏などそれぞれの規格に合わせた舞台設置が成されている正に芸術の為と言わんばかりの完璧な空間だった。(江美の話しに大袈裟な脚色が無ければだが。)
食後のハーブティーを飲みながらパソコンのモニターを見ていた江美は、前述の話を幾度も気難しく喉を鳴らしたり、得心したような声を漏らしながら俺に語ってくれた。
隣に座っていた俺は、残念ながらその情景を共有する事はできないが、過剰にも思える江美の所作を耳にする限り、相当にすごい場所らしい事は容易に想像できた。
しかし、何よりもそんな場所で催されるイベントにこの俺が携わる事がまるで夢の様に実感が持てなかった。
規模、期間、費用。なにをとっても自分の身に余る環境だった。
それにしても、、これ程の大きな会場での開催。
どういった手順を踏んだのかは理解に及ばないが、察するに多くの幅広い繋がりがなければ、こういった自由度の高い個展を開催するには容易に到らないだろう。(スケジュールの兼ね合いだってあったはずだ)
東堂さんとは、電話口でこそ気さくに名を呼び合う様な間柄になりつつあったが、改めて俺はカメラマンとしての東堂瞬のすごさを間接的に思い知らされる。
この人のすごさは表面的に見える身近な謙虚さの奥深く、潜在的な部分にひっそりとあるのだろう。
東堂さんの様に元来人間味に満ちた人というのは、手にした巨大な力を悪戯にひけらかしたりはしないのかもしれない。
江美の話を夢中で聴く余り少しだけ冷めてしまったハーブティーを口にする。
今日のハーブティーは俺が自分の手で淹れたものだ。
VIVA OLAの店内の改修工事が入ったその週末の夜、俺と江美は再び二人の時間を過ごす事ができていた。
夕食を終え、お茶でも飲むかという順当な流れに沿って、俺は前回江美に教えてもらったように自分の力でお茶を淹れる事を試みた。
しかし、キッチンで江美に指示された茶葉の量を豪快に誤ってしまい、出来あがったハーブティーは見事な雑味が際立つ出来栄えとなった。
決して美味しいわけではないけれど、自分の力で淹れたこの味は、ある種の記念碑的な初々しさが俺には感じられた。
失敗ながらも、自分にとっての真新しい一歩だ。
そうしたハーブティーの見事な淹れ具合を気にしたのだろう。
テーブルの上には江美が用意したコンディメント類一式が申し合わせたように黙って並べられていた。
美味しく楽しんでほしいという江美の優しさは在り難いが、俺はこのままの味を満喫していたい心持だった。
カップを口にしながら俺は遠い日々を想う。
俺にとって写真や、ピアノは、このハーブティーと同じ様に真っ直ぐで一生懸命な不器用さの延長にあった。
沢山の失敗をしながら一流のカメラマンを目指していた頃、泥臭い地道な挑戦を何度も繰り返し、多くの間違いの中から未来への小さな鍵を見出していた。
過ちを恐れて何もしない事よりも、恥をかいてでも目の前の事に挑む熱意を優先させてきた。
あまり美味しくはないこの紅茶も、今日のような失敗を経た先に上手に淹れることができるのだろう。そう思うだけで今日の出来栄えも悪くないように思えてくる。(キッチンを汚した事は申し訳なかったが)

「ねぇ、、やっぱり味へんじゃない?」
パソコンを操作する手を止めた江美が、横から質問してくる。

「いいんだって。大丈夫。」
早々に砂糖を加えてほしそうな江美の急いた語気を、俺は鷹揚に収めた。
表情は見えないが、俺の言葉に口を尖らせる江美の顔が浮かぶ。

「そういえばさ、東堂さんとの作品って、なにを一緒に作るのとか決まってるの。」
江美が切り替える様に言った。

「それが、まだ分からないんだ。東堂さんに声をかけられた事が嬉しくって俺、二つ返事でオッケーしちゃったけど。」
片手をテーブルに添えながら手にしていたカップを置く。
「でも、たぶん東堂さんの撮った写真に俺のピアノ演奏を添えるような意味合いだと思う。東堂さん、俺に昔の話をしてくれてさ。」

「昔の話?」

「うん。東堂さんがまだカメラマンとして有名になる前のね。色々ないきさつがあってカメラマンとして軌道に乗るまでの話し。」

「ふぅーん。」

「華々しく見えてるのは外野の俺らだけで、本人は複雑で煮え切らない気持ちを抱えてるんだなって思ったよ。」
そこから俺は、二週間前の東堂さんとの電話でのやりとりを江美に話した。
江美は、興味があるのかないのか曖昧な温度の返事を時折返すのみだった。

「――それで、店で俺のピアノを聴いてから、東堂さん情熱を取り戻したって言うか。そんな事を言ってくれたんだ。」
そこまで話し終えた俺は、電話口での東堂さんの称賛の声を思い出し自然と表情が綻ぶ。
江美も一緒に微笑んでくれている様な暖かな視線を隣に感じた。
「どんな作品になるかは分からないけれど、俺は俺のやれることを精一杯やるつもりだよ。」
ゆるんでいた口元をしめながら呟くように俺は言った。
東堂さんに写真を撮る理由を尋ねられた日の事を思い出す。
超絶的な技巧や、年輪のように培われてきた暦の様なものはまるで無いが、目にした物事や頭に描いた情景を、ただ実直に写真やピアノに向けてきた。
それはきっと俺を育んでくれた地元の豊かな自然や四季の風景がもたらしてくれた清水の様な感性であって、あの日々があったからこそ繊細に感じる心をもてたのだと思う。
それは勉強しようと思って出来るようなことじゃない。
自分自身が意思をもって時間を切り取るのではなく、ファインダー越しの被写体が「その瞬間」を伝えてくれる。それを感じとり、俺はシャッターを押す。
レンズを構えるこちら側はあくまで受け身の姿勢で待ち続けるのだ。
重石の様に静かに泰然と在る自然は、こちらから何かを持ちかけることをしなくても煌びやかな命の息吹を刹那的に魅せてくれる事を俺は知っている。
そしてそれは、ピアノにも同じ事が言える。
俺は演奏するにあたり別段なにか特別なことを体現している意識は無い。
仮に東堂さんにピアノを弾くことについて理論的に問われたとしても、俺はただ頭の中に浮かぶ色彩や香りを、なるたけ余計な手を加えずそのままに鍵盤の上に反映させていると答えるだけだ。
例えどれだけ流麗であっても嗜好的な脚色をするような意思は無く、あるのは旧時の中で切り取られた無為な風景だけだ。

しかし、今回の共作で担う演奏にいたってはどうだろう。
<作品>こと芸術というものは常々何かを残したいという造り手の意思の元あるものだ。
東堂さんが思い描く作品とはいったいどんなものなのだろう。
俺自身が自らを投影できる演奏とは、、どんなものだろう。

俺には大切にしたい場所や仲間や、恋人がいる。
明確な意思をもって何かを体現できるとするならば、先日完成したばかりの曲。それが俺の思い当たる唯一の答えだった。
あの晩、神谷からのビデオメッセージを聴いた俺は瀑布の様に溢れ出る衝動を抑えることができず鍵盤に向っていた。
翳ってしまった神谷の辛い日々を浄化できるような、全てを包む柔らかな日差しの様な演奏を、遠く離れたあいつの元まで届けたかった。
しかし、これまでのセオリーである凡庸で手を加えない俺の演奏では、思い描く風景には到底行き着くことが出来なかった。
どれくらいの時間鍵盤に向き合ったかのか分からない。
様々なことが曖昧になりだした頃頭に浮かんできたのは、俺の一眼レフを手にふざける追憶の中の神谷の笑顔だった。
ピアスだらけの耳、金縁のキザな色眼鏡、モップみたいにくしゃくしゃの髪の毛。
寝起きみたいな野暮ったい声で茶化しながら「俺の方が上手く撮れるから」なんて言ってたっけ。
次の瞬間、鍵盤の上にあったのは俺と神谷が過ごした青々としたくだらない日々だった。
あの晩、それからいつ何をどうしたのか記憶が曖昧だ。
全ての気力を出し尽くした俺は気付くとリビングのソファで眠っていた。
あの曲は、俺が神谷へ向けた曲でもあり、俺達をとりまく皆への曲でもあった。
これまでの日々を支えてくれた江美、かつて世話になったバイト先の皆。そして過去の神谷が未来の俺へ繋いでくれたVIVA OLAとの絆。
ほかでもない俺にしか演奏できない曲が誕生していた。
東京芸術劇場。
その場所で、俺は自分の力を、今の等身大をぶつけるんだ。
憧れの東堂さんと、支えてくれた周りの仲間達と共に。

「よしっ、もう一回淹れてみよう。」
冷えたハーブティーを飲み干した俺は、大きな決意を込めた政治家の様な太い声を出す。
片手で膝を勢いよく叩くとソファから立ち上がった。
「ねぇ、悠くんさっき失敗したばっかりじゃん。私淹れるからいいよ。大丈夫だから座ってなよ。」
再び茶葉を撒き散らしてしまうのが不安なのだろう。
勢いづいている俺とは対を成すように江美は気だるく言う。
「・・・江美は俺の秘書なんだから協力してくれよ。」
意図した訳ではないがふざけた言葉を硬い声で俺は言ってしまう。
脳内では既に政治家としての俺が出来上がってしまっていた。
「ヒショ?」
突拍子もない単語を妙に思ったのか江美は部分的に言葉を繰り返した。
発言の意味が理解できなかったのか、(当たり前だが)江美は黙っている。
一呼吸の沈黙の後、目の前の江美が咳払いをして立ち上がる音が聴こえる。
「・・・殿、お供いたします。」
「トノ?」
予想外の単語と江美の役者の様な神妙な声に、俺は思わず吹き出してしまう。
「なんだよそれ、俺は殿じゃなくて総理だよ。総理大臣。」

「これは失敬。総理でしたか。さすがぁ懐のデカイ男は違いますネェ~。総理総理」
茶化すような抑揚のある声で江美が言う。
「あぁーそれあの一発屋芸人のマネだろ。昔流行った。なんだっけ名前。」
「殿。お湯の準備を致しますのでしばしお待ちくだされ。」
質問を無視して再び神妙な声で江美が返した。
「だから俺は総理だってば。あぁ、もういいよ。」
これ以上続ける気が起きず、最初にふざけた俺が折れた。

「えぇーなんでよ。悠くんが殿様なら、私はそれに仕える忍者のつもりだったのに。トノとシノビのコンビ。」
江美はもう少しこのやりとりを続けたいというように、すがるように言った。
「総理だって。。」

「あぁーそうか総理だよね、総理。あっ、もしかして。。秘書ってそういう意味か!なるほど!」
江美は今更理解したように急に大きな声を出して笑い出した。
「もう、今更かよ。」
わざとふざけているのか、それとも本当に気付いていなかったのか。
俺も江美の屈託のない笑い声につられて笑い出す。
年甲斐もなく子供みたいなやりとりをしたのは久々の事だった。
一緒に笑いながら、不思議だなと思う。
目の前はずっと変わらない一面の深い暗闇なのに、そこに蛍火の様に小さな光の粒が徐々に集まり、江美の華やかな笑顔がまるで点描の様に浮かび上がって見えたからだ。
それは、目が見えていた過去の記憶が描き出した風景画みたいだった。どこか懐かしくて、しかし、新鮮だった。
「なんか久しぶりにこういうのやったね。」
笑いすぎて乱れた呼吸を整えながら江美が言う。
「前は江美がよくふざけて俺に仕掛けてきたろ。」
自分からふざけた事が照れくさくなった俺はいい訳するように言った。
ずっと身近にあった何かに邂逅するかのように、俺達は互いの思いを共有してひとしきり笑いあった。
おかわりのハーブティーは結局江美が淹れてくれる事になり、夜はそのままゆっくりと過ぎていった。

自費出版の経費などを考えています。