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悪魔祓いと私の考え(アンネリーゼ事件の深掘り)

悪魔祓いを題材にした映画は、数多くある。

『エクソシスト』、『エミリー・ローズ』、『ザ・ライト』、『教皇(ヴァチカン)のエクソシスト』、エンタメ要素 (?) が強くなるが『コンスタンティン』……。『シックス・センス』をこのカテゴリーに入れるのは違う気がする。

私的に『コンスタンティン』で最も味わい深いキャラクターはガブリエルだ。少し意地悪な気持ちで見て、ガブの「Father…」は最高。さようならガブ。

今年の映画『教皇(ヴァチカン)のエクソシスト』は、実在のカトリック司祭ガブリエレ・アモルスの、回想録にもとづいた作品。それをフィクション化したもの。

アモルス神父をラッセル・クロウ氏が演じている。

サムネは、世界初・悪魔祓いの現場を公開したドキュメンタリー『悪魔祓い、聖なる儀式』から。


今回は、キリスト教における悪魔祓いの話。

映画の元になった実際の事件・悪魔祓いの歴史・それらをふまえた私の意見を書いていく。

『エミリー・ローズ』『レクイエム』『アンネリーゼ:エクソシストのテープ』はどれも、1つの実話をもとにした映画である。

【注意】この作品を知らない人へ。気軽には再生しないで。短い予告の中にもかなり怖い描写あり。


元気だった頃のアンネリーゼさん

アンネリーゼ・ミシェルさん(1952~1976年)は、カトリック教会の悪魔祓い儀式=エクソシズムを受けた、ドイツ人女性。

彼女は、科学的に見ると、栄養失調と脱水症状で死亡した。両親と司祭が、過失殺人罪で起訴された。

起訴された4名

前提として。家族も彼女も厳格なカトリック教徒だった。肺炎で入院したことがあるなど、アンネリーゼさんは元から病弱ぎみな人ではあった。

本件に関係ないが。姉妹の1人は幼い頃に先に他界しているため、事件当時は父母と3姉妹の家族だった。

アンネリーゼさんは、16才ではじめて特殊な発作を起こしてから数年間、以下のようなことに悩まされ続けた。

できるだけ簡潔に箇条書きにしてみるが、長くなる。

本人や家族や周囲の主張によると……

・夜中に見えない力でベッドに押さえつけられた。数年間で複数回あった。
・寝室でノックの音が聞こえた。姉妹たちが、自分たちにも聞こえたと。
・「お前を地獄に落とす」という声が聞こえた。
・母親が、マリア像を見る娘の目が真っ黒になったと報告。
・それまでの友人グループとの付き合いをやめ、宗教的熱狂者のグループに惹かれていった。
・聖母マリアの幻視を体験したというバーバラ・ウェイガンド氏の生涯に、興味をもち出した。
・友人らが、彼女は自殺を考えるようになっていたと報告。何かが自分を操作していて自分の意志が効かないと言っていたとも。
・恋人は、あなたから私への愛も私からあなたへの愛も感じられなくなったと告げられたと。
・診察中に医師の顔が悪魔の顔に変わった。
・何かが焼けるような匂いがした。バスに同乗していた人たちも臭かったと同意。
・膝をついて神に祈りすぎて骨折。日に500回くらいレベル。
・十字架の前を通れなくなった、キリストの絵を見れなくなったなど。
・自傷行為。壁に頭を打ちつけたり、自分に噛みついたり、虫を食べたり。
・床に放尿し、それを飲んだ。
・四六時中暴れるようになった。人にも噛みつきなど危害を加えはじめた。
・食事を拒否。
・人の手を借りずに動けなくなった。

弱っていく娘をサポートする母親
とてもやせて衰弱して見えるアンネリーゼさん

以上、だいたい時系列。

今1つだけピック・アップして、考えてみる。たとえば、「何かが焼けるような匂いがした」ことについて。

悪臭の原因は彼女自身か?悪臭がする場所には、直前まで彼女がいたりした。だが、恋人は、彼女の体臭に問題など感じていなかった。恋人なのだから、相手の恥になるようなことを言わなくても当然かも。など


かかりつけ医と神経内科医が、彼女の治療をこころみた。

当時の検査で、脳波には異常が見られなかったが、てんかん性精神病とうつ病と診断された。

抗けいれん薬や抗発作薬が処方された。薬を何年服用しても(本当に服用を続けていたか不明。後で詳しく書く)入院しても、症状は改善しなかった。


本人も家族も、これは悪魔のしわざだ、と思うようになった。カトリック教会に悪魔祓いを依頼。

本人と家族の選択で、悪魔祓いを受け出すと同時に、医者に通うのをやめた。

彼女には、のべ、67回の悪魔祓いが行われた。

シュタングル司教

ヨーゼフ・シュタングル司教が、この悪魔祓いを承認した。しかし、秘密裏に行うように命じた。1957年に、司祭から司教になった人物。

司教(ビショップ)とは、宗教施設内の権威者であり監督者。また、教区の責任者。教義によれば、司教は、キリストによって与えられた完全な神権を有する。司教をもたない宗派もある。

レンツ神父
アルト神父

67回の悪魔祓いを実際に行ったのは、アルノルト・レンツ司祭とエルンスト・アルト司祭。司祭=神父。


自分にとり憑いている複数の悪霊の中には、ヴァレンティン・フライシュマンがいる。そう、アンネリーゼさんは言った。

その昔、素行の悪さを理由に、教会から追い出された神父である。具体的には、飲酒や暴力。

そのおよそ400年後の1974年。アルト神父が、1つのさびれた教会を復旧するために、派遣された。それは、かつて、フライシュマン氏が所属していた教会だった。

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神父は、彼女がその名前を口にし、さらに非常に詳しく彼のことを語り出したため、驚愕した。(フライシュマン氏のことを詳しく調べた)当の神父でさえ、最近知ったばかりの情報だったからだ。

この人物は、アンネリーゼ事件があったからこそ世間に知られるようになっただけで、一般の歴史上の人物ではない。まして、インターネットも存在していなかった頃。知るのはかなり難しい情報だったらしい。(誰かから教わっていた可能性は、無きにしも非ず)

アルト神父は、アンネリーゼさんには悪魔がとり憑いていると、確信していた。この出来事も、彼をそう思うにいたらせた強い要因だったはず。自分に直接関わる話で、特に、怖かっただろうから。

レンツ神父は、アルト神父ほどの確信をもっていなかった。後で詳しく書く。


悪魔祓いの最中。

アンネリーゼさんは、「昨今のワガママな若者や現代の背教的な司祭たちのために、死んでつぐなうこと」について、神父に頻繁に語っていた。

本人の声とは思えない、しゃがれた声で話している間も、「変わりゆく教会」について何度も触れていた。

どうやら、悪魔は、人々の信仰心が薄れることや教会の力が衰退することを案じていた。(笑)

彼女は以前から、教会で祈る人が少なくなった理由は司祭たちが教会通いを時代遅れだと考えているからだーーなどと、保守的な知人と語りあっていたそうだ。他にも、「司祭は結婚すべきではない」「十字架は家庭の名誉ある場所に戻されるべき」など。

彼女の中の悪魔が話す時、ラテン語などが用いられることがあった。彼女は、教会や学校で、それらの言語に触れていた。

レンツ神父がためしに中国語で質問してみると、悪霊(一般によく知られるような悪魔)が、「何か聞きたいことがあるならドイツ語で」と答えた。

西洋の悪魔、きっと日本語も話せない。(笑)

ガーゴイル
雨樋
日本橋の麒麟
所在地が日本橋1ー1ー1の1階。ゲン担ぎ系飲食店。
デートによい。私はリバーサイドのテラス席が好き。
突然のグルメ・ガイド‼️笑
ノートルダム大聖堂

この子たちも、異文化交流できないのかな。


話を元に戻す。

人死にが出ているのだから笑いごとではない。つい、皮肉や余談を書いてしまった。

アンネリーゼさんの最期。

高熱が出た日も、本人が拒否し続けたこともあり、家族は医者を呼ばなかった。その翌朝、自室で死亡しているのが発見された。23歳。死亡時の体重は、わずか30kgだった。

母親が最後の晩に聞いた言葉は、「怖い。ママ、そばにいて」だったという。……かわいそうだ。


医師たちの見解は、悪魔の憑依はなかったというもの。

彼女のような発作を起こす人たちには、前兆として、部分的な発作:異常な匂いを感じるなどが起きるそうだ。症状が進むと、体全体の麻痺や呼吸の麻痺が起きる。それがおさまり急に体がゆるむ時、膀胱もゆるむと。

側頭葉てんかんを患う人たちには、過宗教症・性への関心の大幅な低下・人との接触を避ける傾向が、見られることがあるらしい。

これらは、アンネリーゼさんの症状に、かなりあてはまっていたのではないだろうか。

脳に原因のない/原因不明のてんかんは、存在するとのこと。よって、脳波に異常が見られなかったことも、説明がつかなくはないだろう。

彼女が、処方どおりに薬を服用していなかった可能性も。処方箋が切れる頃、手元にまだ多くの薬が残っていたことが、複数回あった。


神父たちの見解はというと、アルト氏とレンツ氏の間でさえ、異なっていた。

前述したとおり、アルト神父は、悪魔憑きはあったと強く信じていた。彼は、医師のセカンド・オピニオンを求めなかった。

一方、レンツ神父は、聖職者は医療問題で責任をもつべきではないという考えだった。エクソシストたる者、患者に薬をすすめることは慎んでも、治療は医師に任せるべきだと述べた。

1614年のローマ法典の『悪魔祓いの儀式』で、憑依された人々の身体的幸福に対する司祭の責任について、何も触れていない。彼の神父としての認識は、正しかったといえるだろう。

悪魔祓いのセッションを録音したものと、悪魔祓い中に撮影された写真が、複数ある。それらは裁判で使われ、一部公開もされている。

音声記録のリンクは貼らない。別に、聞いたところで……。


彼女は、悪魔との戦いに命を捧げた。それが彼女の妄想であったとしても。少なくとも彼女の気持ちの中では、本当にそういうことだったのだと思う。

他人のために苦しみ自ら犠牲になる。そういった行為は、キリスト教において、大きな
“徳” となり得る。

self-sacrifice  補足説明は必要ないだろう。

いつか『イーゼンハイム祭壇画』の話も書こう。
絵自体も大きいが、このキリストは “大きい” のだ。

アンネリーゼさんの中の悪魔が、もはや彼女から離れたいのだが、離れられないと語ったことまであった。悪魔にとり憑かれたまま自分は犠牲になるのだと、そう、彼女が強く想っていた表れといえるのかもしれない。

“ 悪魔は彼女に引き止められていた。”

これは、彼女の中だけの「真実」ではない。彼女は悪魔との戦いに勇敢に身を捧げ、多くの霊魂を救ったのだと考える人たちは、数多くいる。現在でも、彼女の墓におとずれる人は、少なくない。

アンネリーゼさんの墓
こちらは、ヨーゼフ・シュタングル司教の記念碑?
少し嫌味を言うと。まぁ!立派なつくりだこと。

レンツ神父は、シュタングル司教にあてて手紙を書き、アンネリーゼさんの状態が悪化していることを伝えていた。それに対して、司教からの返答はなかった。と、そう証言している。

司教は、彼女が医療を断ったことを知らなかったと言った。この人はしらを切ったか。

裁判のために、遺体が掘り起こされた。州の検察官は、調査後、彼女の死はその1週間前にでも防ぐことが可能だったとした。

両親の弁護を担当したエーリヒ・シュミット=ライヒナー弁護士は、家族はじゅうぶんに苦しんだため、免罪されるべきであり・拘留されるべきではないと主張した。

検察は、司祭たちには罰金刑のみ求刑・両親には求刑をしなかった。

判決は、過失致死罪として有罪・半年の拘留(後に保留となった)・3年の執行猶予。

悪魔の存在については、その信仰を裁くことはこの裁判の目的ではないと、判断を避けた。これは仕方がない。議題が大きすぎる。

裁判で判決が下された数年後、ドイツの司教たちは、彼女が憑依されていたという主張を撤回した。

アンネリーゼ事件は、1つの見解として、宗教的ヒステリーが精神障害の誤認を起こした悲惨な例であると、認識されている。


悪魔祓いの歴史について。

古代ギリシャ語のダイモン(デーモンの語源)とは、霊や超自然的な力でもあった。すなわち、ダイモンは、善の場合もあれば悪の場合もあった。

キリスト教で「悪を一掃する」という考え方がはじまったのは、紀元頃。

古代ギリシャのダイモンほどではないが、悪の定義は柔軟で、信念体系や状況によって異なる。そのため、悪は、悪魔・霊的な汚れ・単純な誘惑などの形をとる。

悪魔祓いは、キリスト教の成長とともに、育っていった。キリスト教の普及は、異教が、悪の意味あいを帯びていくことも意味していた。追い払う必要のあるもののリストに、非キリスト教も入ったという感じ。

悪が憑依すること。
キリスト教以外に惹かれること。

4世紀までに、洗礼前の状況で、広範囲に使用されるようになった。改宗者やクリスチャン志望者は、洗礼を受ける前に毎朝、簡単な悪魔祓いを受けていた。

12世紀。プロテスタントの宗教改革は、ヴァチカン目線では、“悪魔化した者” が増えたことを意味しただろう。異端審問は、悪魔祓いのような雰囲気を帯び出した。

他にも。たとえば、カタリ派は、善と悪の二元論的な争いを支持した。ある意味、独自性を出すのに、悪魔祓いを利用した形。そういった特徴をもつ宗派では、個人的な祈りも、自己悪魔祓いの様相であったりする。

神学者トマス・アクィナス(1225~1274年)は、悪魔学をはじめて、悪魔祓いを定義した。1400年頃、最初の悪魔祓いの本が出版された。


ハッキリ言う。悪魔祓いは、キリスト教を強化する仕組みの1つでもある。他の宗教の悪魔祓いにも、多かれ少なかれ、そういう側面がある。

キリスト教だけの話ではない。うちだと許されていますから、こういうことができますよという「集客」アイディアは、実にバリエーションに富んでいる。

まぁ、差別化とは、そういうことであるし。

特に多いのは何だと思う。性関係だ。
例)BLが大丈夫。集会でデフォとして乱交。


アンネリーゼさんが、「悪との永続的な戦い」を、いわば立派で褒められるに値する行為だと思いこんだ理由。

気の遠くなるほど長く、根の深い話だ。きっと、今さら直せない。

彼女の、聖母とつながっていることの方が、家族や幼なじみや恋人とつながっていることよりも大事だといわんばかりの、言動の数々。

“ 彼 ” (エド・シーランのことではないよ!)が、大切なこととして人々に伝えたかったことが、どうにも曲解されていた気がしてならない。これは人間の話だ。

宗教的な話に限らず。

今の世の中、「悪」と戦っている人ばかりだ。時々、まるで、悪は悪でいてもらわなきゃ困る・とことん悪であってほしい……と望んでいるようにも見える。


私のオススメの文章を紹介する。リンクと切り抜き画像、両方を貼る。

※この方のブログが消えていることに気づいた。ショックすぎる。こんなにいい文章なのに。スクショをとっておいて本当によかった。

「信仰にはこういう要素があります」私は、この部分が好きだ。

映画『エミリー・ローズ』の本質も、エリン弁護士の最終弁論に集約されている。

このシーンだ。
このキャラクターは実によく戦ったと思う。自分と。

未知のものに対する恐怖は、人類に共通する恐怖である。


ポジティブで〆よう。無理やりではなく、本当に、それがいいと思うから。

これ宗教ソングだったの!?と驚かれるかも。

僕らはなぜいつも泣いているんだ
元に戻さなきゃならない
みんなで作り直さなきゃならない
この星を1つに戻そう
どうして僕らは殺しあいをしているんだ
ハグして愛しあってダンスして恋におちよう

自分のやり方についてくるか?などの歌詞部分も、レニー・クラヴィッツが歌うと、宗教的なモチーフ(キリストの比喩)に聞こえてくる。

「私の心は神のもの」これは彼のタトゥー。彼は、キリストのことを「究極のロック・スター」と呼ぶ。

みんな独自の表現をしていいの。
みんな自分の方法で愛していいの。
あなたはあなただけの神をもってもいいの。

「愛とはそれ自身の果実であり、それ自身の楽しみである。愛するから愛するのであり、愛するために愛するのである」
クレルヴォーの聖ベルナルドゥスはけっこう好きだ。

私は、え!これが宗教ソングなの!?という世界の曲をエピソードも含め、たくさん知っている。また別の機会に。

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