労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈16〉

 「景気が悪くなると人々がモノを買わなくなって経済が回らなくなる、困ったことだ」と、モノを生産し売る立場にある者たちは口々に嘆く。デフレなどでの不況時には、このような話が巷でさんざんかわされてきたことだろう。しかし当の彼らも「消費者の立場」になれば、やはり同様にモノを買わなくなっているわけだ。
 人々がモノを消費すれば、その分どんどんカネが市場に送り込まれ、それによって世の中=経済が回る。仕組みとしては非常にわかりやすい話ではあるが、と同時にこの仕組みにどこかしら「あやうさ」も感じられてくるところであろう。まるで蛇が自らの尾を食い、生え替わって成長した尾(まさに『再生産』!)をまた自ら食うかのような、この「経済」というシステム。何かといえば訳知りがしゃしゃり出てきて、「成長!成長!」と喧しく煽り立てるが、それも道理というものだ、成長し続けなければ結局いつかは自分で自分自身を食い尽くしてしまうことになるのだから。しかし世の中そうあからさまに言うばかりではあまりに身も蓋もない。そこで真相は巧妙に隠しておき、「経済が大きく成長すれば誰もがみんな腹いっぱい食えるようになるんだぞ」というように、誰もがわかりやすく呑み込みやすいスローガンを強調することになるわけである。
 それにしても、そのように「経済を回さなければ!」とあたかも自分自身が「経済を回している」かのように振る舞う御仁たちの、何とまあ呑気なことか。自分たちはむしろ「回されている側」だということには、全く気がついてもいないのだ。

 「産業資本の画期性は、労働力という商品が生産した商品を、さらに労働者が自らの労働力を再生産するために買うという、オートポイエーシス的なシステムを形成した点にある」(※1)と柄谷行人は言う。そしてそのような経済システムを確立させた、当の「産業資本主義を特徴づけるのは、単に賃労働者が存在するというだけでなく、彼らが消費者ともなるということ」(※2)にあるのであり、ゆえに「産業資本主義が存立するためには、単に賃金によって働く労働者だけではなく、支払われた賃金で自らの作ったものを買い戻す消費者が必要」(※3)となるのだ、と。
 モノを生産し売るためには、それを買い消費する者がいなくてはならない。だからこそこのシステムは、殊に消費者に依存することになる。たしかにそれは「システムとしてあまりにあやうい」のだが、しかしいくらあやうかったとしてもそれに依存せざるをえない、それを「システム自体として維持させていくため」には。システム自体がなくなってしまったら、依存する先すらなくなってしまう。
 一方で「消費者=賃労働者」もまた同様に、このあやういシステムに依存せざるをえない。それは彼らが「商品を完成品として生産することができない」ということにも由来している。
 たとえば服や家を「自力で作る」人も、世の中にはたしかにいることはいる。自分で作った物を自分自身で使用する分には、たとえどんなに縫製がズレていても、あるいは壁に隙間があったとしても、そこは少々我慢をして何とか使用することもできなくはない。
 しかし、それが「商品」ともなればそういうわけにはいかない。商品はあくまでも「他人の使用に満足をもって応えるのでなければならない」のだ。「誰が使用しても同じだけの満足を与えることができるもの」でなければ商品とは言えない。たとえ自分で使用するには十分だと思えたとしても、縫製がズレた服や壁に隙間のある家は、「他人が使用する商品」としてはけっして売れない。逆に言えば「他人に満足を与える服や家」を作ることができるのなら、「自分では使用しきれない」ほど作ってそれを売ることだってできるだろう。

 商品はあくまでも「他人の」使用価値、すなわち一般的な使用価値として市場に登場するものであり、また必ずそうでなければならない。つまり商品は買い手を選ばないし、またけっして選んではならない。どこの誰が買っても使用することができて、その買った相手の「役に立つ」ものとなりうるからこそ、この商品は「売れる」のだし、「売ることができる」のである。
 労働力という商品も、それが「商品である限り」は他のモノと全く同様に、あくまでも他人の使用価値として市場において取り扱われるものであるし、また必ずそうでなければならない。他人に売る、そして他人が使用するという目的が前提しているのでなければ、それに「値段がつく」ということはないし、当然それが「賃金の対象」となることはないのである。

〈つづく〉
 
◎引用・参照
※1 柄谷行人「世界史の構造」
※2 柄谷行人「世界共和国へ」
※3 柄谷行人「世界共和国へ」

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