シモーヌの場合は、あまりにもおばかさん。----ヴェイユ素描----〈7〉

「…たまたま不幸の攻撃におそわれ、半分つぶされた虫のように、地面の上でもがき苦しんでいるよりほかに仕方のない人々にとっては、自分たちの身に起こった事柄を言い表わすに足る言葉はありえない。まわりで出会う人たちの中でも、どんなに苦しんだことがあろうと固有の意味の不幸とふれ合ったことが一度もないような人は、かれの不幸がどんなものかにまったく思い及ぶことができない。それは、何かしら特別なものであり、他のものに還元することができないものである。…」(※1)
 「私の苦しみが、お前にわかるものか」というのが、不幸の経験を媒介とした「社会的な関係」の基本形であろう。しかし、むしろそこには「関係というもの自体がない」のではないか。関係として取り結ぶことができるような、何らかの「共通性」そのものが失われているのではないか。だからこそ、「不幸は言葉を持たない」ということになるのではないのか。
「…苦痛は、本当に(中略)生と死との境界線上の経験である。…」(※2)
 人間が感じるところの「苦痛」という感覚について、ある部分ではヴェイユに通ずるような認識を持っているようにも思われるハンナ・アレントは、また、「…肉体的苦痛は(中略)すべてのもののうちで最も私的で、最も伝達しにくいものである。…」(※3)とも言っている。肉体的苦痛に関する経験が「私的」であるということの意味は、それが「…それ以外のすべての経験を消し去ってしまうほどの激しい感覚…」(※4)として、「他ならぬ経験」であり、またそうであるがゆえに、「…苦痛だけが他の対象から完全に独立しており、苦痛にある人だけが本当にただ自分だけを感じる…」(※5)ことになるものなのだということ、つまり人は彼自身の苦痛を伝達すべき相手を「持ちえない場所」で、彼自身として苦痛を覚えているのだということ、ゆえに「…それは、あまりにも主観的で、あまりにも事物と人びとの世界から離れている…」(※6)と見なすことができるのではないか。
 ヴェイユ自身においての「苦痛」もまた、まさしくそのようなものとしてあったのではないだろうか。「私のこの苦しみは、きっと誰にもわからない」という気持ちが、彼女の本心のどこかに「つねにあった」のではなかったか。
(つづく)

◎引用・参照
(※1)ヴェイユ「神への愛と不幸」(神を待ちのぞむ』所収)
(※2)アレント『人間の条件』(志水速雄訳 ちくま学芸文庫)
(※3)アレント『人間の条件』(志水速雄訳 ちくま学芸文庫)
(※4)アレント『人間の条件』(志水速雄訳 ちくま学芸文庫)
(※5)アレント『人間の条件』(志水速雄訳 ちくま学芸文庫)
(※6)アレント『人間の条件』(志水速雄訳 ちくま学芸文庫)

◎参考書籍
シモーヌ・ヴェイユ
『抑圧と自由』(石川湧訳 東京創元社)
『労働と人生についての省察』(黒木義典・田辺保訳 勁草書房)
『神を待ちのぞむ』(田辺保・杉山毅訳 勁草書房)
『重力と恩寵』(田辺保訳 ちくま学芸文庫)
『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』(今村純子編訳 河出文庫)
吉本隆明
『甦るヴェイユ』(JICC出版局)
冨原真弓
『人と思想 ヴェーユ』(清水書院)

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