労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈17〉

 一般によく見られる場面として、家庭内での家事について「これは不払い労働ではないのか?」などと非難されることがある。しかし、ここであえてはっきり言えば、それが「家庭内でのみ」成立している限りは、家事という「仕事」に対して賃金が支払われないというのも、必ずしも不当であったり不自然であったりすることではないだろう。
 再三言ってきた通り、あくまでも賃金が支払われる「仕事」は、基本的にその対象が「他人」であることが条件となる。ゆえにたとえばハウスキーパーの仕事などは、それが「他人に売られている」ものであるからこそ「仕事=商品」として成立しているわけである。たとえそれが家庭内でのものと「同じことをしている」のであってもだ。また逆に考えれば、他人を対象としない単身生活者の「家事労働」については、これもまたたとえ「同じことをしている」のであっても、それを不払い労働だとして世に訴えるような声は、巷のどこでも聞かれることはないだろう。
 ところで上のような不条理で不毛な議論がなぜ生じるのかと言えば、それはひとえに労働と労働力が概念的に混同されているがゆえだというのは言うまでもない。それでもなおここで、家事労働についてその賃金不払いの不当さを問いたいというのならば、そもそもその前段階にある問題、すなわちこの家庭の家計が「労働力を売ること」によって支えられており、それ以外に生活を維持する術を何ら持ちえないことの不条理にこそ、まずはその厳しい目を向けて、それに強く抗議の声を突きつけていかなければならないはずではないだろうか。
 なのにそうするどころか、むしろそのように家庭内の家事を、他人に労働力を売って賃金を得る「一般的な労働」と同一視し続けるというのは、労働という行為それ自体、あるいはその総体を、「賃金の対象」という色眼鏡を通してでなければ見出すことができなくなっている、功利的というよりもはや打算的な感性というものではないか。そしてそれはいかにも短絡的で、いかにも倒錯した観念であるのに他ならないのではないだろうか。そんな打算も倒錯も、ただただ自己の属性の利得に繋がるものなら何でもよいのだというなら、もはやこちらから何を言うこともないし言う気も失せるところであるが。

 繰り返して言うと、商品は「他人に売ること」を目的として生産されるのでなければ、そもそも商品として成立しないし、なおかつ「実際に他人に買われる」ことがないならば、やはりそれを商品として見なすことはできないのである。ゆえにそこには当然、価格が発生することなどけっしてありえない。
 だから、たとえそれがいかに「いいもの」であろうとも、商品として売れないものしか完成させることができないというならば、もちろんそれを売ることもできないし、それを売って得たカネで他の商品を買うこともまた当然できない。もし他で生産され売られている服や家を使いたくなったとしても、こちらに何ら売るものがなければ、そういった「商品」を買うこともできない。ゆえに何ら売ることのできないものしか作れない者は、もはや「消費者」であることすらできないのである。
 また、すでに言っているように賃労働者は、自力で商品を完成品として生産することができない。すなわち賃労働者は、自分自身で独自に使用することのできる生産手段を所有してはいない。乾電池は、それがどのようなものであれ、自力でモノを作り出すなどということはけっしてできないのである。ゆえに賃労働者は、自分自身で独自に、自分自身が消費することのできるものを生産することができない。彼は、「生産されたものを商品として買う」ことでしか、「自分自身で消費するものを手に入れることができない」のである。

 そのように、自分自身ではどのような商品も生産することができない賃労働者なのだが、しかしただ一つ「売ることができる商品」を所有していた。あらためて言うまでもなく、それこそがまさしく彼自身の「労働力」なのである。
 賃労働者が商品を買うためには、彼自身において唯一売ることができる商品である彼自身の労働力を、それを使用することのできるような独自の生産手段を所有する労働力の使用者、すなわち産業資本に売らなければならない。彼の労働力が生産手段の所有者すなわち産業資本に売られ、その生産過程において使用されることによってはじめて生産物が生産される。その生産物がすなわち「商品」であり、その商品を賃労働者が自らの生活の維持のために買う。彼は自らの生活と生存を維持するために、それを買うしかない。だから「その商品は必ず売れるし、必ず消費される」わけだ。そして「必ず消費されるものは、必ず生産することができる」のであり、なおかつ生産されるものでなければ消費することができない、つまり売られているものでなければ買うことができないのだから、買われるものは必ず売ることができる。そのようにして生産と消費の「オートポイエーシスシステム」は、持続的なものとして循環しているというわけである。

〈つづく〉

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