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「すべての夜を思いだす」ということ
すべての夜を思いだす、とはどういうことなのだろう?
あるいはそんなことは可能なのだろうか?
この映画のタイトルを目にしてだれもがまず思うだろう。まして、多摩ニュータウンという狭くはないが決して、「すべて」とは言い難い場所を舞台としている映画のタイトルなのだから。しかし、ぼくらは時々、すべての夜を思い出したような、そういうきぶんになってしまう。それもまたたしかなことだと思う。
ニュータウンと関わ
『王国(あるいはその家について)』について(あるいは相対化と身体について)
最近、ゴダールばかり観ているので、ゴダールの話からはじめてしまうのだが、ゴダールはむちゃくちゃなことばかりやっているせいであまり目につかないが、実は単純かつ圧倒的な「美しいショット」を撮れる映画作家だ──いや、正確にいえば映画作家だった。長篇でいえば2004年の『アワーミュージック』までで、「天国」パートの映像など、恋でもしたみたいにうっとりしてしまう。しかし、2010年の『ゴダール・ソシアリズム
もっとみる【短篇小説】ハル、ヨル、メグル
雨は今朝から降り続けていて、屋根から垂れてきた雨水が葉子の頬を伝って地面に落ちていった。
「電車来ないね」
葉子がつぶやく。あまりに小さなつぶやきだったので保は、最初じぶんの気のせいだと思った。
「うん」
ビルのむこうの曇天を眺めながら、何か言わないといけないような気がして
「この電車ってどこまでいくんだろう」
と、問いかけのような独り言のようなことを云う。
「荒川遊園」
「そっか。こどもの
映画『リコリス・ピザ』と社会化されない君とぼく(あるいは映画における「走る」ことについて)
●最近、映画において「走る」ことの意味について考えている。というのも、今年ものすごく夢中になった『リコリス・ピザ』がやたらと走る映画だったのと、こないだ『犬も食わねどチャーリーは笑う』を観ていた時になぜ自分がリコリス・ピザにグッときたのかの理由がよく分かったからだ。ふたつの映画の映画的な「質」にはたいぶ差があるように思うし、チャーリーに関してはキネマ旬報に載っていた宇野維正の「全篇を通してうっすら
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