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映画『リコリス・ピザ』と社会化されない君とぼく(あるいは映画における「走る」ことについて)

●最近、映画において「走る」ことの意味について考えている。というのも、今年ものすごく夢中になった『リコリス・ピザ』がやたらと走る映画だったのと、こないだ『犬も食わねどチャーリーは笑う』を観ていた時になぜ自分がリコリス・ピザにグッときたのかの理由がよく分かったからだ。ふたつの映画の映画的な「質」にはたいぶ差があるように思うし、チャーリーに関してはキネマ旬報に載っていた宇野維正の「全篇を通してうっすらとスベり続けている」という評が適切だとも思う。けれど、チャーリーのクライマックスにおける香取慎吾の爆走→岸井ゆきのの職場への乱入は、ぼくがアートというものを信頼しているほとんどただひとつの理由を教えてくれた。そして、その「走る」ことが描き出すものはリコリス・ピザが最高であることの理由そのものでもある。

●いきなり個人的な話になってしまうが、中学生の時ぼくは美術部に所属していた。一年生の時の部長は、髪が腰あたりまである三年生の女子の先輩で、部員みんなから尊敬されていた。二学期が始まってすぐのことだったと思う。部長の髪が肩あたりまでの長さになっていた。どうやら推薦入試か何かの都合で髪を切らなければいけなくなったらしい。そんな話があるか、とぼくは思った。部長に対して特別な思いがあった訳でもないのにすごく悲しくなった。自分には関係ないのに、彼女が髪を伸ばしてきた月日すべてが否定されたような気分になった。今となってみると僕はそこに、イノセントの崩壊を見たのだと思う。伸ばしてきた髪という彼女の「自然」が社会によって切られてしまう。社会に生きているかぎり誰もが社会に組み込まれざるを得ない。それはぼくが初めて身近に感じた人が「大人になる」瞬間だったのだと思う。

●岩井俊二の映画『リリィ・シュシュのすべて』が描いているのも、社会化されていかなければならない年代の少年少女たちだった。社会学者の宮台真司は「「社会」とはコミュニケーション可能なものの全体。「世界」とはありとあらゆるものの全体である」と定義づけた上で、ふたりの主人公を離島での体験を機に「脱社会化」していく星野、「社会」にとどまり続ける蓮見と区別した。ぼくにとって部長の長い髪は「世界」だったのだと思う。それが切られた時、人は「世界」を忘れて「社会」に組み込まれていく。

●社会的なコミュニケーションは人がもともともっていた「世界」を確実に削り取っていく。例えば教室でのコミュニケーションはそのようなものではなかったか。本音を吐くと「病んでいる」とか「厨二病」といったワードに回収されてしまい、その場の空気やノリだけを重要視する言葉だけが選ばれるようになる。そうやってみんなが「世界」について口にしなくなり、次第に「世界」を忘れていってしまう。ぼくはここでそういうコミュニケーションを否定したいのではない。事実ぼくもそういうコミュニケートの仕方をしたり、そういう会話を楽しんだりしている。ただ、その時に顧みられなくなった「世界」というものは確かに存在していることは忘れたくないと思う。

●小説家の保坂和志は小説についてこう記述している。「それは小説とは、“個”が立ち上がるものだということだ。べつな言い方をすれば、社会化されている人間のなかにある社会化されていない部分をいかに言語化するかということで、その社会化されていない部分は、普段の生活ではマイナスになったり、他人から怪訝な顔をされたりするもののことだけれど、小説には絶対に欠かせない」。

●アートの役割は、「社会」に生きる人々の「世界」を担保することだとぼくは思う。社会化されない君とぼくの冷やかされたりイジられたりする部分を全面的に肯定すること。アートはそのために存在している。

●映画における走ることとは、「社会」に生きる人々の「世界」の発露のメタファーであるとぼくは考える。ぼくは自転車にのるのが好きだ。その理由は風が気持ちいいとか色々あるけれど、いちばんはその速さにあると思う。自転車の速さはぼくの自然な感情を「社会」から守ってくれる。「社会」に追いつかれる前に逃げ切れる。だからチャリにのってる時に考えたことは後から思い返すと小っ恥ずかしい。完璧な愛とか世界中の平和をぼくはその時だけは本気で信じられる。すこし筆が滑りすぎているけれど、走ることは社会の中にぼくらの「自然」を発現させることなのだと思う。それはアートの役割と同じだ。

●『犬も食わねどチャーリーは笑う』のクライマックスもまさしく、「社会」の外にあるものを描いていた。後述の『リコリス・ピザ』も繰り返しの映画だが、そういえばこの映画でも香取慎吾と岸井ゆきの演じる夫妻は、「あのビニール袋を捕まえたら幸せになれる」といって二度も走り出す。ふたりが一度取り逃がした幸せをギュッと捕まえるラストシーンは「社会」で生きるために「世界」に触れる瞬間を捉えているといってもいい。周りの人々の怪訝な視線を意に介さず、手を伸ばすふたりの姿は婚姻という社会のシステムやそれに乗っかることの困難さについて描いている映画のラストにおいて、「世界」を捕まえた瞬間を写していると言えるだろう。

●『リコリス・ピザ』でアラナとゲーリーはまちがい続ける。この映画は結局のところ一本道を右往左往しながら進んでいくだけだ。最初惹かれあったふたりが紆余曲折をへて結局くっつく。社会的に見ればどうしようもないふたりだ。社会的に見ればゲイリーはともかくアラナはもっと大人でいることを要請されるはずだ(年齢的な意味において)。でもふたりは湧きあがった感情のままに走り出してしまう。そんなのアリかよ、と観客は思う。何回も違う!となったくせにでもやっぱり!とふたりは何度も来た道をやり直す。しかしそれでもいいんだ、走っている間くらい、スクリーンの前でくらいぼくらはもっとプリミティブな存在でいてもいい、自分のエモーションに忠実であっていい。「社会」の中で生きていかなければいけない君とぼくは、「自然」「世界」を守るために、すごい速さであらゆる邪魔を振り切って走らなければいけないのだ。

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