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『王国(あるいはその家について)』について(あるいは相対化と身体について)

最近、ゴダールばかり観ているので、ゴダールの話からはじめてしまうのだが、ゴダールはむちゃくちゃなことばかりやっているせいであまり目につかないが、実は単純かつ圧倒的な「美しいショット」を撮れる映画作家だ──いや、正確にいえば映画作家だった。長篇でいえば2004年の『アワーミュージック』までで、「天国」パートの映像など、恋でもしたみたいにうっとりしてしまう。しかし、2010年の『ゴダール・ソシアリズム』以降になると話は変わってくる。ビデオカメラで撮られた映像はどぎつい色だし、まず何より水平ですらない。しかも、いつものように物語はあるようでないようだし、左右のチャンネルに割りふられた音響は暴力的で、好きで観ているはずなのについつい耳をふさぎたくなってしまう。今までは何が起こっても、ショットが美しくて見られていたのが、そうなると話が変わってくる。10年代のゴダールはそういう意味でもっとも見るのが困難である、と思う。

しかし、ゴダールがそうした気持もなんとなく分かる気がする。美醜という、言ってしまえば相対的でしかないものに振り回されている場合じゃない、そういうふうに思ったんじゃないだろうか。だからといって苦痛な映像を見せられるのはたまったもんじゃないが(しかし、ゴダール好きというのはゴダールと同じくらい面倒くさくて、「これがいいんじゃないか」と思っている)。

草野なつか『王国(あるいはその家について)』について書くはずだったのに、ながながとゴダールの話をしてしまったのは、晩年のゴダールがやりたかったことをこの映画はやろうとしているんじゃないか、と思ったからだ。この映画は周知のとおり、フィクションのパートと本読みのパートで構成されている。と言っても八割方本読みのシーンなのだが。本読みのシーンでは、同じシーンが何度も繰り返される。一度目は、これからどんなセリフが発せられるのだろう?と思いながら観て、二回目はさっきとはどうちがうのだろう、そう思いながら観ていく。四回も五回も繰り返されると観ているこちらはもうどうでも良くなってきている。だからと言って退屈なわけではなくて、テクノを聴いているみたいな心地よさを感じる。

本読みのシーンはフィクションではないからなのだろう、カット割りもなく、カメラは不安定に空間をさまよう。フォーカスが合っていないところさえある。ゆらゆらと不安定に揺れ、はっきり言って見入ってしまうような美しいショットはどこにもない。

さっき、ずっと繰り返しを観ているとテクノを聴いているような心地よさを感じると言ったが、正確に言えばもう少しちがっていて、心地よくはあるのだが、だんだん何か「固い感触」が胸の中にあるような気分になってくる。反復される中で、じぶんの「身体」だけがくっきりしていくような感覚。そうなってくると何回も同じところを観させられて退屈だ、とか、この映画は何を言おうとしているのだろう、みたいな余計なことは頭から消え去る。セリフが発される、立ち上がる、歩きだす、それだけをくっきりと感じる。この映画に美しく計算されたショットがなくてよかった。もし美しいショットが存在していたらぼくたちの身体はかき消されてしまっただろう。相対性がすべてを等価にして、ぼくたちは何を信じることもできなくなってしまっただろう。    

美醜だとか言葉だとか事情だとか、そういった相対的であるがゆえに時に曖昧になってしまうもの──現代はまさにそういう相対化の加速する時代だと思う。すべてが相対化されてしまうがゆえに、人びとが中心を持ちえない時代。そこに『王国』は、身体という圧倒的で揺らぐことのない物質性を投じて見せているように思う。反復される中で強固になってゆく身体が、あらゆる相対性を無効化していく瞬間。ぼくはふと、タル・ベーラの『ヴェルクマイスター・ハーモニー』のラスト・シーンの広場に置き去りになった鯨の、その圧倒的な物質感を思いだす。あの、何のメッセージもメタファーも含んでいない、それがゆえに荘厳さをもったあの鯨を。そしてそれをぼくは何かよすがのように感じた、ということを。

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