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「すべての夜を思いだす」ということ

すべての夜を思いだす、とはどういうことなのだろう?
あるいはそんなことは可能なのだろうか?

この映画のタイトルを目にしてだれもがまず思うだろう。まして、多摩ニュータウンという狭くはないが決して、「すべて」とは言い難い場所を舞台としている映画のタイトルなのだから。しかし、ぼくらは時々、すべての夜を思い出したような、そういうきぶんになってしまう。それもまたたしかなことだと思う。


ニュータウンと関わりのある表現だと、まず思い浮かぶのはtofubeatsの諸作だろう。tofubeatsは活動の初期、dj newtownと名乗っていた。tofubeats名義で活動するようになっても、彼の音楽やMVにはニュータウンや高速道路のような人工的で無機質なイメージが頻出する。例えば「RUN」や「CITY2CITY」のMVでは、そういった“冷たい”景色が映し出される。

https://youtu.be/OOHq92yELeQ?si=hhCfJfJeYjArlwj3


あるいはラッパーのTohjiも、そういった“ニュータウン性”に自覚的な表現を打ち出していた。ヒップホップのカルチャーにおいてラッパーはそれぞれの故郷をリプリゼント(レペゼン)する。ニュータウン育ちのTohjiは特定の街ではなく、ショッピングモールのような景色こそじぶんの故郷であると考えて、自らのクルーをMall Boyzと名づけた。その名前もまた、冷たく、どこか底のない印象を与える。


そういうように、ニュータウンというのは冷たくて無機質なものとして描かれがちだった。しかし、清原惟の映画『すべての夜を思いだす』で描き出されるニュータウンは、どこかあっけらかんとしてとぼけているような明るさに満ちている。ゆったりとした長回しや明るい画面が、全体的に春の午後のようなムードをこの作品に与えている。この映画において、ニュータウンは人工的に開発された空虚さを伴った空間ではなく、人々の生活が根づいた街として描かれている。それがこの映画のユニークな点だと思う。ニュータウンはもはや空虚で冷たい場所ではなく、そこに暮らす人々にとっての帰る場所になりえている。そのことを描いてみせたことは、ひじょうに2020年代的だ。

だからこそ、この映画では“記憶”が重要なモチーフになる(あるいは、それを思いだすこと)。この街に暮らした人々のホームビデオが次々に流れるシークエンスは、この映画だからこそ本当に感動的であり、そのホームビデオをVHSからデジタルに変換している写真屋のバックヤードで交わされる会話が観客の心を強く打つ。

主人公の一人である早苗は、恋人である店員とともにその映像を眺めている。早苗はそこに映った捨て猫に対して、「小学生のとき見つけた子に似てる」という。早苗はその猫を飼いたがっていた、しかし、家族との話し合っているうちにその猫は姿を消してしまったのだ、とも。恋人は早苗の言葉を受けて、こう答える。

「その猫と暮らした早苗さんもどこかにいると思うんだよな」。

その瞬間、ぼくたちの夜が歪みだす。夜が裂けて、ありえたかもしれない夜が、かつてあったかもしれない夜が見えだす。まるで、すべての夜を思いだしているような、そんなきぶんになってしまう。

それはこの映画だけで起こることではない。ぼくたちは時々、見知らぬ人々の人生の一部を目にして、そこにじぶんのありえたかもしれない姿を重ねてしまう。あるいは、まったくの他人に起こった出来事をじぶんごとのように感じてしまう。それは何か?もちろんそれは、「映画」である。


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