【短篇小説】ハル、ヨル、メグル
雨は今朝から降り続けていて、屋根から垂れてきた雨水が葉子の頬を伝って地面に落ちていった。
「電車来ないね」
葉子がつぶやく。あまりに小さなつぶやきだったので保は、最初じぶんの気のせいだと思った。
「うん」
ビルのむこうの曇天を眺めながら、何か言わないといけないような気がして
「この電車ってどこまでいくんだろう」
と、問いかけのような独り言のようなことを云う。
「荒川遊園」
「そっか。こどもの頃、行った気がする」
保はあらかわゆうえん、という響きを記憶の中から探してみる。緩やかな子供用のジェットコースターやパステルカラーのコーヒーカップ。思い出す景色はどれも今日のような曇天で、しかも古い記憶特有の霞がかかっている。
「電車きたよ」と葉子が言う。
雨をはじきながら、ヘッドライトが近づいてきた。
車内は暖房が効いていて、ウィンドブレーカーだとすこし暑かった。
葉子に目をやると、彼女は窓の外をじっと眺めている。その彼女の頬やあごのラインに、今までの時間が重なって見えてくるようで、保は安心する。あたまの中でうごめいていた言葉が、解けてしまって、何も言えなくなってしまう。何も言わなくてよくなる。
彼女の肩に頭をあずける。彼女がぴくっと動いた後で、また元の体勢にもどる。
このまま黙っていたいけれど、それだと君は退屈するかしら。保は空っぽのあたまの片隅で考える。ぼくはこのままでいいのだけれど。
何か境い目がとけていくように甘やかな空気の中で、保はいつのまにか眠ってしまう。
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