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保坂和志「コーリング」論〜ツイッター的な、あまりにツイッター的な。あるいは拡散する「私」について

 保坂和志の中篇「コーリング」(1994年)は、ひじょうに実験的な形式の小説である。この小説では「東京コーリング人材開発派遣センタア」に勤めている/いた浩二、美緒、恵子のある一日が視点を移動しながら描かれる。ことなる場所にいる人びとの一日を、語り手は半ば強引に横断しながら語っていく。

人に誘われると断わることのできない恵子が杏奈ちゃんのお母さんに言われるままにフィットネス・クラブのプールに行くことになったその時間、浩二は結局つづきを眠らずさっきの夢の美緒のこととそれから「ヒゲパン」と呼んでいた少年野球の監督をしていた男のことを交互に考えていた。(15ページ)

浩二の部屋の七〇年代ポップスのテープはオートリターンで再びA面に戻り「悲しき鉄道員」が鳴りはじめ、美緒の部屋ではディー・ディー・ブリッジウォーターのあとカサンドラ・ウィルソンのテープに替わり(これも浩二が録音した女性ヴォーカルだ)、恵子のいるフィットネス・クラブではさっきからずっと変わらずソロ・ピアノの曲が流れていた。(49ページ)

 このように、視点がフリーキーに移動していくのが、「コーリング」の特徴である。彼らに起こる出来事には何の連関もなく、互いが互いのことを思い浮かべたり思い出したりはするが、再会したり電話をかけたりすることもない。会社を休んで映画に出かけたり、ママ友とプールにいったり、行動だけを見れば「取るに足らない」ことしか起こっていない。この小説は──もちろん他の保坂の小説にも通底することだが──いわゆる物語の起伏に面白みがある小説ではない。むしろ、この小説において主眼が置かれているのは、その人びとの思考の流れである。いや、思考というほど大仰なものでもない。それは、ふと頭を掠める/去来するひらめきや思いつきというような言葉の方が似合うだろう。

十代のせつなさやさびしさは、原因らしい原因も持たないし対象もない。だから他人はつまらないと一蹴するが、原因も対象もないからこそ逆に解消のされようもない。せつなさやさびしさは、それを抱えている当人にはとてもやっかいなものなんだと浩二は思うのだった。(53ページ)

 登場人物たちが日常の中でふと、感じたり思い当たったりしたことが、何か行動の端緒になる訳でも、物語上のカギになるわけでもなく、ただ書き連ねられていく。発表年は一九九四年だが、二〇二四年の読者であるわれわれは、この「コーリング」の登場人物たちの思考とよく似ているものを知っているはずだ。

 それは、そう「ツイッター」である。日常の中でふと考えたことや、何らかの出来事に対して喚起された感情を投稿するツイッターの、もっともプリミティヴな使い方はこの小説とひじょうに似通っている。ためしに前掲の浩二が考えたことを、ツイートふうに書き換えてみよう。

十代のせつなさとかさびしさって理由がないから理解されないし、解決もしないからやっかいなんだよな

 ぼくの書き換えの巧拙はともかく、こうしてみると一気にツイートっぽく見えてこないだろうか。

 もっと言えばこの小説の、浩二、美緒、恵子の三人のパートが何かしらの法則性もなく、混線電話のように切り替わっていく形式はタイムライン的であるとも捉えられる。ツイッターのタイムラインでは、フォローしているアカウントのツイートが、時系列順に新しいものがいちばん上に来るように並べられている。その並びには何の関連性もない。ただ、何分前にツイートしたか、それだけである。しかし、時としてそこに何かしらの共時性が生まれてくることがある。住んでいる場所も年齢もちがうユーザーが同じ話題に触れていたり、タイムラインに並んだツイートにないはずの関連性を読み取ってしまったりする。つまり「コーリング」という小説は、浩二、美緒、恵子という三人の、三つのアカウントだけをフォローしているタイムラインともいえる。

 @浩二というアカウントが、「むかし付き合っていた女の子が夢に出てきた」とツイートしている。ほぼ同時刻には、@恵子が「毎朝、むかしの同僚にそっくりな人とすれちがうんだよね」とツイート。@浩二の「少年野球のノックに行ったら、筋肉痛やばい」というツイートとほぼ同じタイミングで「下の道で、おせっかい焼きの男の子が女の子に「端に寄りなさいって言ってるけど、実際男の子が邪魔になってる」と@美緒がツイートしている。

 この小説は、そのようなタイムライン小説として読み換えることができる。そしてそのツイッター的な思考の在り方──ぼくはそれを【拡散する「私」】と呼んでいるのだが、それは保坂和志の小説における「私」の取り扱われ方と隣接しているように感じる。


 保坂は『小説の自由』の中で、三島由紀夫や柴崎友香の文章を引用しながら小説における「私」について書いている。保坂は三島の文章について、「視界の先に広がっているはずの風景が私の側にどんどんたぐりよせられて(27ページ)」いると指摘する。また、柴崎友香の『青空感傷ツアー』を引用し、「わたしは視線の運動が作り出す空間の中を漂っていて、三島由紀夫のように見えるものを自分の側に引き寄せない。わたしは見る人で、見ることによって窓ガラスに映った自分のことも発見する(63〜64ページ)」という。「小説とはまず、作者や主人公の意見を開陳することではなく、視線の運動、感覚の運動を文字によって作り出すこと(60ページ)」であるともいう。

 それは、つまり「実存的ではない私」ということなのではないかとぼくは思う。実存的とはどういうことかというと、アルベルト・ジャコメッティの彫刻を思い浮かべてみてほしい。対象の本質を見極めようとし、その結果、細く長くなっていった人体の彫刻。そういうある種の求道者性である。ストイックに、あらゆるものを削ぎ落としていく中で残る本質を追い求める姿勢。一方の、保坂的な【拡散する「私」】のイメージとしては、ルシアン・フロイドのポートレイトが最適だ。フロイドのポートレイトは、ジャコメッティと対照的に、対象を見つめ続けることでむしろ、対象が肥大化していく。「私」は削ぎ落とされるどころか、むしろ拡散していくことで周りを取り囲む世界の一部になる。「実存的な私」だけが残るのではなく、「私」があらゆるものとの有機的な関係性の中に配置される。

 保坂が提示したかったのは、ジャコメッティ的な切り詰め、省いていくことで、型抜きのように自己を追求するのではなく、視線と運動の中で拡散していき、世界をとりこむことでふくよかになっていく「私」だったのではないか。その時、ツイッター的な対象との邂逅から生じる運動性を伴う思考は、「コーリング」の方法論と近接していく。

 むろん、現在のツイッター=Xは多くの問題を孕んでいる。陰謀論や差別の温床化、アテンション・エコノミーに最適化されたネット記事やゴシップの氾濫、イーロン・マスクによる買収後にはインプレッション稼ぎを目的としたスパムアカウントで溢れている。そのような現在において、ツイッターについてポジティヴなことを語ることはむずかしい。しかし、「コーリング」における私の在り方とツイッター的な思考の関係には、そのような【拡散する「私」】という新しい「私」の可能性が潜んでいる。


引用:保坂和志「コーリング」 『残響』所収、中公文庫、2001年
   保坂和志『小説の自由』、新潮社、2005年


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