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カール・アンドレ展・あるいは生活と展示室、その間

 佐倉市のDIC川村美術館でカール・アンドレの個展『彫刻と詩、その間 Between Sculpture and Poetry』を見てきた。カール・アンドレ(1935-2024)はアメリカ生れの彫刻家、詩人。ミニマル・アートを代表する作家のひとりで、今回が日本初の個展らしい。

 アンドレの作品は床に鉄板を並べてみたり、木材を積み上げてみたりといった物質がそのまま剥き出しになっているのが特徴で、だからこそ「ミニマル」と言われる。会場で配られた作品リストの解説によると、アンドレは「場としての彫刻」という概念を考案したという。「場としての刻」とは、「彫刻が置かれる空間に直接作用し、彫刻があることで空間が変化する、彫刻と空間の主従関係が逆転するような概念」のことらしく、そう言われてみるとたしかに、床に敷き詰められた鉄板はそれだけが作品として成立している、というよりもむしろ空間に浸透し、作用するように配置されているように思えてくる。たとえば、鉄板を床に敷き詰めたタイプの作品は、作品の上を歩くことができるようになっている。それは、台座の上に置かれた銅像や彫像を見上げるような形で観る彫刻とはまったくちがう体験だ。鉄板の上を歩きながら、ぼくは足元の作品よりもむしろ空間ばかりを眺めていた。普段、美術作品を観る時は目をやらない壁や梁に目がいった。壁の一部だけうっすら暗い、だとか照明はこんな形をしていたのか、とかこっちのインタラクティヴ性を刺戟してくる。しかも、いわゆる体験型アートに特有のこっちを巻き込んでやろうといううざったい圧がない。自然と、空間に目がいく。


出典:https://bijutsutecho.com/magazine/news/report/28596

 それはおそらく、美術を個々の作品から、生の次元に開いていくという試みなのだ。少し見上げたりしながらありがたがって眺めるような、作品と観客の間に主従関係を強いる作品は、それ自体を日常から隔絶された「イベント」にしてしまう。それ自体は決して悪いことではない。そういった一種の浄化作用は、文化の役割の一つではあるだろう。しかし、結局、芸術は日常の中で忘れ去られてしまう。観客はその感動によって癒され、また元の生活に帰っていく。アンドレが彼の彫刻で行おうとした表現はおそらく、それとはまったく逆のことなのだと思う。むしろ、この展示室で起こった経験が日常の中のあらゆる場面で作用しつづけること、展示室を出たあとも機能しつづける作品。それを作りだすことこそ、彼の意図だったのではないだろうか。鉄板の上に立って空間を観る時、彼の言う通り「彫刻と空間の主従関係が逆転する」。それは小さな発見、みたいなものではない。そこに起こっているのは異化、だ。そうして世界が新たな視点からリライトされていく。それはふだんの展示室でも起こっているはずのものだ。しかし「イベント」性がそれを展示室の中に閉じ込めてしまう。そこでアンドレは、そのイベント性を解き、観客の中でひとつの装置として機能しつづけるアートとして彼の特徴的な彫刻を考案したのではないだろうか。

 だからぼくたちがすべきことは、展示室を出てミュージアムショップにむかうことではなく、ホームセンターに行って鉄板を買ってくる、それを部屋の隅にアンドレがしたように並べてみることなんじゃないだろうか、というのは言いすぎだが、ぼくたちはそういうふうに彼の作品にむきあうべきだし、毎日を生きる時、世界を見る時、その視点の中にはカール・アンドレの彫刻がたしかに息づいているはずだ。

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