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『悪は存在しない』と「カメラを置くこと」について

 濱口竜介の新作『悪は存在しない』をぼくは公開日に観た、Bunkamuraル・シネマ渋谷宮下で観た、しかしル・シネマの予告篇はいつも長い。13時10分上映開始で15時10分終了だったが、本篇は106分だったので14分も予告をやっていたことになる。たまにストーリーがほとんど分かってしまいそう、なくらい長い予告もある。今回は佐藤真という夭折したドキュメンタリー作家の特集上映の予告をやっていて、濱口竜介がコメントを出していた。「佐藤真の映画ではカメラが人物の前に回ることが多い。対立でもなく、対峙でもなく、被写体の前で立ちすくむカメラ。そんな印象を受ける。答えのない過酷な生を、人々の声が和らげる。佐藤真はインタビューすることを恐れない。インタビューの一つ一つが説明に堕することがないのは、人の声自体を「できごと」として捉える感性ゆえだろう。一度お会いしたかった。」というコメントだ、濱口らしい誠実さというか、いささか不恰好な言葉の連なり方、ぼくはそのズレというか、その流暢ではないのと知的な感じが混ざり合っているような文体(?)が、ジャン・ルノワールから受け継いだ「棒読メソッド」とともに濱口竜介の映画の特質、フックになっている、と思うのだけれど、三宅唱もコメントを出していた、こちらはやはり彼の映画にも通底する、対象と適切な距離を取り続けることの誠実さ、とでもいうべき態度が存在している。そのコメントを見てしまったせいなのか、ぼくには『悪は存在しない』は「立ちすくむカメラ」の映画であるように思えた。

 この長野県水挽町という自然豊かな土地にグランピング施設の建設計画が持ちあがることからはじまる映画、それに『悪は存在しない』というタイトルを冠したのだから、それは町側と計画した側、どちらにも何かしらの事情があってどちらが悪という訳ではない、というような話に収斂しそうな予感をプンプンに匂わせておいて、しかも途中まで、そのはっきりとミスリードをさせつつも、この映画は予想だにしないエンディングへとむかうことになる──観客はそれを濱口竜介の「作家宣言」である、と受け取っていいだろう。

 蓮實重彦が朝日新聞の記事に書いているように「エコロジカルな生活」を賛美するかのようなテンションを匂わせつつ、この映画は始まる。薪を割る、湧水を汲む、野草を食べる、主人公の巧のそれらの行動を長回して切り取っていく序盤を、ぼくは《これはまずいな》と思いながら観た、そこから続く、グランピング施設の建設のために行われる住民説明会まで、それは安易な都会/自然という対立構造を作り出しているように見えた、まさか濱口竜介という作家がそんな安易かつ、軽薄で都会から田舎へのオリエンタリズムに満ちた姿勢をとるわけがない、とは思いつつも。

 しかし、思い直してみると、そのシーンの間、カメラはずっと何かためらっているようだった。そう、立ちすくんでいた。薪割りや湧水の採取を捉えた長回しのロングショットは、都会の側から自然を捉えようとすることの身勝手さ、その躊躇が顕れているように見えた、巧が花を学童に迎えに行くシーンはその「ためらい」そのものだ。横移動するカメラは、不自然に静止して一列に並んだ子どもたちを捉える。はじめ奇妙な光景に思えるが、すぐに彼らが「だるまさんが転んだ」に興じていることが提示される。不自然な格好のまま静止した状態。それは都会からやってきて自然を映しとろうと目論む侵略行為へ躊躇する濱口竜介自身だ。そのあと、花がひとりで帰ったことを知らされた巧が車に乗り込んだあと、後部座席に置かれたカメラがリアウィンドウの景色をずっと映していく、その微妙に縦揺れしたショットの不自然さと不恰好さは、この映画中もっとも印象的かつ抜群のショットでありながら、やはり濱口の立ちすくみを表している。

 都会からやってきた芸能事務所の、グランピング施設建設の担当者である高橋と黛、特に高橋はあからさまな悪=侵略者として描かれる。グランピング施設の建設は、コロナで経営不振に陥った芸能事務所が政府からの補助金を得て計画したものであり、最初彼らはいかにも胡散臭い「悪」として描かれる。

 しかし、その後のシークエンスでは彼らもまた、社長やコンサルから強いられてそのような行動をとっている、彼ら自身もその仕事に嫌気が差していることが説明される。自然に対してカメラを置くことにためらう濱口竜介は、明らかに都会からやってきて自然を侵略しようする彼らに肩入れしている。高橋と黛が水挽町にむかう車内の会話のコメディタッチな軽妙さは水挽の人たちの、とくに巧の超然とした態度よりもはるかに親近感が湧くし、何より濱口自身が水挽の人々よりも高橋と黛のふたりの描き方の方が手に負えている(その点で、やはり一部の水挽の人々の描き方には疑問を感じざるを得ない。町内会長の温厚でいかにも「村の賢人」とでも言うべき雰囲気と、グランピング施設の建設にハナから喧嘩腰の血気盛んな町の若者の描き方は、残念ながら都会人の田舎へのオリエンタリズムに満ちた図式化から逃れられていないように見える、高橋と黛に比べると「そこに生きている」ような感じが薄)。是枝裕和、坂元裕二の『怪物』のように、それぞれの立場、それぞれの事情が描かれる。だから「悪は存在しない」というのか、あまりに教科書的な綺麗事ではないか、手ぬるい、そう思う。しかし、もちろんというべきか、この映画はそんな領域には収まらない。

 自然を捉えることのためらいとは、山々や清流、鹿のような動物を撮ることだけではない、それは人間の中にある非社会的な部分を捉えるということでもある。そして、芸術とは往々にしてそういう人間の《自然》を描いてきた。しかし、濱口竜介はそこにためらいつづける、それは往々にして暴力を孕むものだからだ。三宅唱は『夜明けのすべて』の中で、執拗に相手側の背中をなめつづけるカットバックで、他者には決して踏み入れない、踏み入ってはいけない領域があることを誠実に、しかしだからこそ他者同士が築きうる関係について希望的に描いて見せた。それはアイデンティティ・ポリティクスの時代における「正しい在り方」という極めて現代的な問題意識に対する実直な態度だった、それ以上ないほどにモラリストとしての社会的な態度。しかし、濱口竜介は三宅唱とはまったく正反対の態度をとる。それは、アンモラリストとしてじぶん自身が《自然》そのものと同一化してしまうという態度だ。

 物語の終盤、いつものように巧を待ちかねて1人で帰ったはずの花が突然、行方不明になってしまう。町中の人びとが彼女を探すが、なかなか見つからない。ちょうど町を訪れていた高橋と黛も捜索に加わる。夜も更けて来た頃になって、巧と高橋は「鹿の通り道」である原っぱで手負いの鹿と対面する花に出会う。巧から「手負いの鹿」が人を襲うことを聞かされていた高橋は、彼女を鹿から引き離そうと駆け寄るが、巧はなぜか彼を制止しようとする。抵抗する高橋を巧は地面に倒し、首を絞める。その瞬間の巧の雰囲気の変わりようは、この映画中もっとも戦慄するシーンでもある。そして、高橋を気絶させた巧は地面に転がった花に駆け寄る、鹿はもういなくなっている。それから花を抱き抱えた巧は森の中へ消えていく。

 このラストシーンにて、われわれはこれまでとは別人のようになり、残酷さを隠そうともしない巧に驚きを隠せない。今までの朴訥とした至って冷静な人物として描かれていた巧とは正反対に、彼は衝動に満ちた不気味な人物として立ち現れる。その瞬間、濱口竜介はカメラを置くことねのためらいに満ちたじぶんの分身として描かれていた都会からの来訪者(高橋)ではなく、巧に乗り憑る。都会からやってきた、社会化され、自然へのオリエンタリズムに満ちた人物から、自然そのものへと接続された人物へ、濱口は肩入れする対象をいとも簡単に入れ替えてみせる。それは濱口竜介なりの、作家宣言とも捉えられるだろう。じぶんは自然の側に立つということ。三宅唱があくまで社会の中で人間らしくあることを選んだのに対し、濱口竜介はあらゆる衝動と底知れなさをもつアンモラルな自然の作家であると宣言してみせる。巧が森の方へ消えていくのは、その意味で示唆的だ。芸術が司る自然というものへ、社会からカメラをむけるのではなく、自然から自然へとカメラをむけること──濱口竜介は「悪は存在しない」と言い切って、ためらうことなくカメラをむける。ラストシーンの崇高で超然としたショットは恐ろしい。それはふだんの生活の中に覆い隠されている冷たい何かを暴いてみせるようであり、そう在ることを引き受けているからこそ、われわれはそのラストカットに戦慄せざるを得ないのだ。

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