書く習慣について
こんにちは。近頃は随分と暖かくなって、桜の満開宣言もありました。私はこの時期になると何か新しいことを始めたくなります。
さて、今回は「日記」「ジャーナリング」「書く瞑想」など、様々な呼ばれ方をしている”書く”行為についてまとめたいと思います。というのも、昨今書く行為の重要性が再注目され始めていると感じるからです。
この記事を読んでほしい方
この記事の想定読者層は主に二つです。一つ目は、「日記を続けたいと思いながらなかなか続けられない方」や「現在"書く"という習慣がある方」「シンプルに"書く"のが好きな方」など、書くことに既に興味関心がある方です。本記事では、全体を通して「書く行為」の良さについて筆者の考えを述べていくので、書くモチベーションを上げたい方は全員当てはまるでしょう。
二つ目は、「漠然と何か新しいことを始めたいと考えている方」「もっと自分の納得いく人生を歩みたいが、どうすればいいか分からず悩んでいる方」など、人生の納得感や満足度を上げたい方です。詳しくは後述しますが、書く行為はこういう面で大きな効力を発揮します。
1、はじめに
少し遡って話をしますが、日本では1980年代から「ストレス」という言葉が使われ始め、以来徐々に精神面の健康状態も注目されるようになりました。2011年には厚生労働省が「がん」「脳卒中」「急性心筋梗塞」「糖尿病」の四大疾患に「精神疾患」が加え"五大疾患"と呼ばれるようになり、2020年以降は"繊細さん"として「HSP(Highly Sensitive Person)」という言葉がメディアで多く取り上げられるようになりました。
それまでは無視されていたあらゆる「生きづらさ」が言語化され社会に浸透したことで、「私は生きづらさを抱えています!」と言いやすくなりました。サポートしてくれる体制も整いつつあります。そういう意味では、確実に生きやすい社会になってきていると言えるでしょう。
しかし個人的には「社会がどう変わろうとも、結局は本人次第」という考え方もあると思っています。私たちはこの身一つで生まれてきて、やがてはこの身一つで死んでいきます。いくら信頼し合っている家族でも、代わりにその人の人生を歩むことはできません。助言してもらうことはできても、代わりに悩みを解決してもらうことはできません。自分の人生を背負えるのは自分だけという訳です。
そこで一人の人間としてしっかり生きようとすると、ある程度の"生命力(問題解決能力)"が必要になります。この生命力を自ら鍛えていけるということが「自立」であり、「一人前」の条件であり、「大人」であるとも言えるでしょう。
前置きが長くなりましたが、今回取り上げる"書く行為"は単なる記録というよりも「生命力を鍛えるための一つの手段」として紹介します。紙とペンを用いて自分と向き合い、人生の満足度を上げていく行為です。
ちなみに私自身は、大学ノートに思考を書き出すという行為を10年以上続けており、現在82冊目です。もともと感情をうまく処理できるタイプではありませんでしたが、この習慣のおかげで「どういう環境が苦手か」「どういう時にイライライするか」「どういう人たちと波長が合うのか」など自己理解が深まり、随分と生きやすくなりました。自分の思考を書き出すことで「過去を振り返り、発見し、未来に活かす」ことができます。言わずもがな、人生に対する満足度も向上していきます。
2、「書く行為」にも色々ある
とはいえ、書く行為にも「目的」「書き方」により分類があります。
① 日記
これが一番身近なものではないでしょうか。noteや手帳など、オンライン・オフライン関わらず習慣にしている人は多いかと思います。
日記というのは「一日のまとめや感想」です。そのため、大体の場合は後から読み返しても分かりやすいように「その日あった出来事」「感じたこと」「考えていること」などを丁寧に書くかと思います。下記のようなイメージでしょう。
② ジャーナリング(書く瞑想)
対して、ジャーナリングと呼ばれるものがあります。日本語訳は「書く瞑想」。世にはこれをテーマにした本も出ており、日記とは違う"書く行為"として広まりつつあります。
では、日記とジャーナリングは何が違うのでしょうか?簡潔に言えば、目的が異なります。日記は「日々の記録」として行いますが、ジャーナリング(書く瞑想)は「マインドフルネス(瞑想)」を目的としています。更に換言すれば「日記は書くこと自体が目的で、ジャーナリングは書くことが手段」です。
日記ほどに浸透している概念ではないため、未だ定義が曖昧な部分もあるようですが、私が調べた限りでは「一定時間手を止めずに書き続ける」「文法や文章、文字の誤りなどは気にせずに自由に書く」「気持ちをあるがままに書く」などが主な条件のようです。
記録として成立させるために、ある程度体裁に気をつける必要がある日記に対し、アウトプットすることを最優先させた行為と言えるでしょう。拾い画ですが、次のように文章でない形でも良いようです。「何がなんでも、とにかく書く!」ということですね。
<関連本>
<関連記事>
③ 書思(しょし)
書く行為の三つ目が「書思」ですが、これは私が個人的に提唱しているものです。実は、②で挙げた「ジャーナリング(書く瞑想)」を筆者が知ったのがここ最近のことであり、それ以前は自分の習慣にふさわしい言葉が見つからず、勝手にそう名づけていました(そのため、考え方的に②と③は重複している部分が多いです)。下の画像は、私が実際に書いたものです。
単語からも想像していただきやすいかと思いますが、書思は「思考を書く行為」を意味しており、「人生を豊かにする一つの手段」です。本記事の冒頭でも触れましたが、自分の思考を書き出すことで「過去を振り返り、発見し、未来に活かす」ことができます。結果として、人生の納得感を高めることができます。
日記とは違い「記録」よりも「思考の整理」に重きを置いているため、読みやすい文字で書く必要がなく、私の場合はこのような字になります(速記文字を習得しようと思った時期もありましたが、自己流で書く方が楽だったためやめました・・・)。
よく「書く習慣を身につけたいが、何を書けば良いのかわからない」という相談を受けますが、私はいつも「書くことがわからないのであれば、"何かを書きたいが何から書けば良いのかわからない"と書けばいい」と答えてます。
大体の人は、母国語で思考していると思います。頭の中ではずっと日本語が流れていると思います。視覚、嗅覚、聴覚、味覚、触覚の五感から入ってきた情報を自然と言語化し、「暑い!」と嘆いたり「美味しい!」と感動したりしているはずです。それをそのまま書くのです。例えそれが普段は口にできないような不平不満でも反社会的なことでも、何でも書いちゃうのです。もし、それすらアウトプットすることに抵抗があるのなら「こういうことを書くのも抵抗感がある」と書けば良いのです。それが、自分を受け入れる一歩になります。
<参考記事>
3、結論〜大事なのは目的〜
ここまで書いて元も子もないことを言ってしまうようですが、個人的には「しっかりとした目的意識を持ちながら書くことが大事であり、呼び方など何でもいい」と考えています。私が本記事で伝えたかったのは、ただ一つ「書くことの魅力」です。
人間誰しもがアーティストであり、人生という作品を作り続けています。日記でも、ジャーナリングでも、書思でも、noteでも、その人の生きていた証を文字で残している。それは、その人のコピーであり、作品です。元気な時もあれば、そうでない時もある。晴れがあれば雨もある。雪もあれば雷もある。音楽のように、イントロがあって、AメロBメロがあって、サビがあって、例えそれの順番がバラバラでも、最初っからサビでも、その人なりの一曲が出来上がります。
「私たちは何のために生きているのか」「苦しい中でどうやって生きていけばいいのか」と、人生に正解はないとわかっていながらも問い続けてしまう。そういうことを考えるのは無駄だと言い切る人もいるけれども、大事なことであるような気がする。考えることが好きで、ずーっと正解のないテーマについて考えている。
そういう方々、ぜひ「書いて」みてください。楽しいですよ。
P.S.
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