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雑考・メモ・日記

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雑考・日記・メモ「逆説的協同」

雑考・日記・メモ「逆説的協同」

逆説的協同

1人で為そうとする時に、決して1人では為せない事を強く感じてしまう。
どこまでも独りになろうとする事によって、関係の中に在らざるを得ない事を思い知ってしまう。
コミュニケーションはディスコミュニケーションの中にしか芽生えなという、この逆説。
そして協同とは、実はそういうところから始まるはずである。

2024年2月6日 

雑考・日記・メモ「カラオケの事」

雑考・日記・メモ「カラオケの事」

カラオケの事

カラオケとは何か?
近史としては「公的な選曲の自由の象徴としてのジュークボックス」があり(何故ジュークボックスが公的なのかと言えば、レコードと異なる「喫茶とと言う公的場」を想定しているから)、前史として、これに歌う能動性が加味された「歌声喫茶」につながり、さらに「選曲と歌う能動性」がMIXされた「カラオケ」に進化する。
ここまでが90年代。
以降はボッチカラオケや歌唱上達としてのカ

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哲学・日記・メモ「スポーツとは何か」

哲学・日記・メモ「スポーツとは何か」

エクストリームスポーツは自分自身の挑戦を軸にしているから1人称あるいは無人称のスポーツだ。格闘技などは「目の前のあなた」を競技の対象としているから2人称の意味合いが強い。野球やサッカー等は、チームワークが必要であるし、ソーシャルな競技としての認識が強いからに3人称だろう。
スポーツと何か?
を問うてみました。


「スポーツとは何か」

スポーツとは何か。

頭脳スポーツと言う分類がある。囲碁や

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片山健『えんそく』が示したもの

片山健『えんそく』が示したもの

片山健『えんそく』が示したもの

なんだこりゃ?!

これが第一印象である。
何故って、この絵本はこんな風に始まるのだから。

「えんそくにいきました。あさ早く私たちは学校から富士山に乗りました」

何と!富士山に「登る」のではなくて「乗る」のである。
しかも富士山も乗っている!
何に?
大きな雲に!
そんな大きな「富士雲」に「乗って」子供たちが遠足にいくのだから、「なんだこりゃ?!」なのである。

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対話篇「羽とは何か?」

対話篇「羽とは何か?」

羽とは何か?

半田さん 名梨くん。何を考えこんでるの?
名梨くん あ。半田さん。いいところに来た。みちこ先生からね、また宿題出されちゃったんだよ。今度は「羽」について考えなさい!って。まいったなー。
半田さん とか言いつつ、嬉しそうだね!。それで、どこまで考えたの?
名梨くん 「羽があるから飛ぶ」のかな?それとも「飛ぶ必要があったから羽がある」のかな?って。半田さんはどう思う?
半田さん どう思

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哲学・日記・メモ「あそびを学ぶという事について」

哲学・日記・メモ「あそびを学ぶという事について」

あそびを学ぶという事について

「あそびの学び」の対象が子供であることは多いけれども、子供は放っておいても「あそぶ」のだろう。だから教育において子供の「あそび」の必要を声高に主張する事は、実はフォーマルな教育を補完するという事でしかないのだと思う。

あくまで補完(アンチテーゼとしてのあそびではもはや教育の意味をなさないだろうから)。

しかし、こうも言える。もし対象が子供ではなく老人であったなら

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哲学・日記・メモ「哲学は広められるのか?」

哲学・日記・メモ「哲学は広められるのか?」

哲学は広められるのか?

「考える」とは「問う事」と一組。

そしてこの「考える・問う」には技術が必要。

そして「考える・問う技術」は「調べる技術」や「知識を蓄える記憶の技術」や「知識を状況に適用さる技術」とは異なるだろう。

確かに純粋な「問う・考える」はありえない。必ずどこかで「調べる」と「記憶する」と「適用する」技術と重なっているだろうから。

そう理解したうえでじゃあ純粋な「問う・考える

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雑考・日記・メモ「Horst Jansen の事」

雑考・日記・メモ「Horst Jansen の事」

Horst Jansen の事

ドライフラワーの魅力が解るなら Jansen の絵も解るかも。生でないものが生と等価に混在している、それは、死との共存を良識的な調和(あるいは弁証法的綜合)に求めずに、どこまでもせめぎ合う際どい対立で顕している。

Jansen の絵を見るとき、その変態性だけを見るのでは、絵を見損なっている。

雑考・日記・メモ「Horst Jansen の事」

雑考・日記・メモ「Horst Jansen の事」

Horst Jansen の事

Horst Jansen の魅力には抗えない。と、言いつつも、もしも Jansen 当人が身近にいたならば決して関わらない類の、彼はコミュニティとソーシャルを完全に無視した人物なのですが、事作品に関しては別物。Jansen の作品は、コミュニティとソーシャルの、道徳と倫理を、たやすくはみ出していく危うさがある。それは災害のような危うさであり魅力でもある。それを体現

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詩・散文 「幽霊はいるの?(そしてその模範的な回答)」

詩・散文 「幽霊はいるの?(そしてその模範的な回答)」

幽霊はいるの?(そしてその模範的な回答)

♠♥幽霊って本当にいるの?

♥今日テレビでマジックショーをやってたよ。お金が、手を開く度に増えていくのは不思議ね。
♠テレビが映るのも不思議だね。自動車だって。一体どういう仕組みで走ってるんだろう?
♥ほら、飛行機!飛行機雲を出してるよ!飛行機が空を飛ぶのも不思議。飛行機雲も。一体どうしてできるの?

♠例えば・・・あの煙突から立ち昇る煙は雲になる事が

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雑考・日記・メモ「何故 じねん だけが許されるのか」

雑考・日記・メモ「何故 じねん だけが許されるのか」

何故なのか。
東日本大震災に対して怒(いか)らないのは何故なのか。
しかし東日本大震災に対して怒(いか)らない者が、ウクライナへのロシアの侵攻に怒(いか)るのは何故か。
確かに「じねん」か「人為」かの違いは確かにあるけれども、被った悲しみは等しい筈なのだ。何故「じねん」だけが許されるのか。

2022年3月

雑考・日記・メモ「私が殺されたわけ」

雑考・日記・メモ「私が殺されたわけ」

https://www.youtube.com/watch?v=x3R6X_PcDno

私は政治は苦手で出来れば深入りしたくはないのですが、それではいけないという思いもあります。
この曲は私は音楽だとは思っていないしこの歌詞も詩であるとは思いません。
単にこれは「政治的な内容のプロテスト」であると思います。
しかし私は「音楽」や「詩」の超越的な形式性から排除される、このような「内容」を切り捨てた

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テルミンは連続性の音楽?

テルミンは連続性の音楽?

テルミンは連続性の音楽?

「生活」は実務的で実用的な技術で、この技術は「暮らし」を寸断している。しかし「暮らし」は連続的なものである。そして「生活」の技術の断片をいくら集積しても「暮らし」のゲシュタルトには到達しない。だからと言って私は「暮らし」が最も大事なのだ」と言いたいわけではない。そういうものだという事を言いたいのです。
テルミンは電子音楽である。だから断片的で分節的な技術の産物であるのに

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雑考・日記・メモ「生活・暮らし・在り方」

雑考・日記・メモ「生活・暮らし・在り方」

メモの前のメモメモ「生活・暮らし・在り方」

「生活と暮らし」と、「存在論」を分けるべきだ言うと、それは違うという人が多い。しかし存在を問うていくと、生活や暮らしを破綻させる在り方に赴いていき、暫定的にせよそれを「然り!」と答えざるを得ない時がくる。この答えはだから暫定的であるのだけれども、暫定的であってもそれは、生活と暮らしに支障をきたす。だから意識的に「生活と暮らし」と「存在論」を分ける必要が

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