オカムー

詩と絵を描いて、自然農も始めました。色々と試みています。

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    路上観察。街にはいたるところにポロックの絵がある。ロスコの絵がある。白髪一雄の絵がある。モンドリアンだって、ある。

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雑考・日記・メモ「真善美のメタメタとしての中村宏イズム」

雑考・日記・メモ「真善美のメタメタとしての中村宏イズム」 芸術は、真善美を志向するアート(技術)である、と言う通念にはさほど魅力を感じない。そして、しかし芸術は、偽悪醜をして真善美に抗するものであるべきだという(カミュ的な)、メタ真善美観にも、どうも私は飽き足らない。芸術が、真善美と偽悪醜に「別たれた事自体」に関心を集約させるスタンスである事こそが、私にとっての尤もな関心ごとである・・・のならば、それに必要なのは、メタメタな認識が必要なのだろう・・・私が偽醜悪について学んだ

    • 雑考・日記・メモ「逆説的協同」

      逆説的協同 1人で為そうとする時に、決して1人では為せない事を強く感じてしまう。 どこまでも独りになろうとする事によって、関係の中に在らざるを得ない事を思い知ってしまう。 コミュニケーションはディスコミュニケーションの中にしか芽生えなという、この逆説。 そして協同とは、実はそういうところから始まるはずである。 2024年2月6日 

      • 雑考・日記・メモ「怪人『ダダ』と『ダダ』」

        「怪人ダダ」が好き。 弱っちいのが良い。 弱っちいのに頑張ってる。 上司に反抗できず、腕力では人間にも劣る。 でも頑張って「人間の標本6体を集める」という上司からの命令を遂行しようと、頑張るのである。無理かもしれない・・・そういう困難がわかっていてもやらねばならない、その悲哀を「怪人ダダ」の転倒シーンに見てしまったのは、果たして私だけだろうか。 美術史での「ダダイムズ」も似たようなものだ。一見先鋭的で攻撃的に見えるが、何のことはない、はったりにすぎない。最初のインパクトのみな

        • 哲学・日記・メモ「老人とこども」

          「老人」と「こども」 「老人」は高齢者ではない。 「老人」は必ずどこかに障害を抱えている、という意味では障害者であるが、障害を必然として受け入れる事によって障害者ではない。 また「老人」は生の中のみに生きるのではなく、死と共に、そこに近しく在るという意味で「こども」である。 そして「老人」は、独りであると同時に、これまで出逢った総ての人々として多である(※)。 つまり「老人」は人であり人間てあり、それ以上に、他の「何か」でもあるのだろう。 「老人」は「高齢者」なのではないの

        雑考・日記・メモ「真善美のメタメタとしての中村宏イズム」

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          哲学・日記・メモ「手塚治虫とブラック・ジャック、ときどきカミュ」

          手塚治虫とブラック・ジャック、ときどきカミュ しばしば手塚漫画の集大成が『火の鳥』として語られるのは残念なことだ。私は『ブラックジャック』にこそそれを認めたい。 「ふたりの黒い医者(51話)」のラストで彼がキリコに投げつける「それでも私は人を治すんだっ!自分が生きるために!」という台詞は、キリコに向けてと言うよりも、手塚治虫が晩年に埋没してしまった思想・・・全体性への同一化へこそ投げられるものではなかったか。 あるいは「ちぢむ!(46話)」の最後のページでの「医者は何の

          哲学・日記・メモ「手塚治虫とブラック・ジャック、ときどきカミュ」

          哲学・日記・メモ「手塚治虫とブラック・ジャック、ときどきカミュ」

          手塚治虫とブラック・ジャック、ときどきカミュ しばしば手塚漫画の集大成が『火の鳥』として語られるのは残念なことだ。私は『ブラックジャック』にこそそれを認めたい。 「ふたりの黒い医者(51話)」のラストで彼がキリコに投げつける「それでも私は人を治すんだっ!自分が生きるために!」という台詞は、キリコに向けてと言うよりも、手塚治虫が晩年に埋没してしまった思想・・・全体性への同一化へこそ投げられるものではなかったか。 あるいは「ちぢむ!(46話)」の最後のページでの「医者は何の

          哲学・日記・メモ「手塚治虫とブラック・ジャック、ときどきカミュ」

          雑考・日記・メモ「カラオケの事」

          カラオケの事 カラオケとは何か? 近史としては「公的な選曲の自由の象徴としてのジュークボックス」があり(何故ジュークボックスが公的なのかと言えば、レコードと異なる「喫茶とと言う公的場」を想定しているから)、前史として、これに歌う能動性が加味された「歌声喫茶」につながり、さらに「選曲と歌う能動性」がMIXされた「カラオケ」に進化する。 ここまでが90年代。 以降はボッチカラオケや歌唱上達としてのカラオケ活用も含まれて「カラオケ文化」が成熟していく・・・「カラオケ文化論」。カラ

          雑考・日記・メモ「カラオケの事」

          哲学・日記・メモ「アートや哲学は教育に導入できるのか」

          アートや哲学は教育に導入できるのか アートとは、目の前の「もの」に憑かれながらに「何ものかを成す」技術だ。絵なんて描きたくない。でも描かずにはいられない。制作なんて楽しくはないのに止める事が出来ない・・・そのように「もの」に憑かれながらも、「我を失わずに何ものかを成す技術」がアートなのだとしたら、アートとは決して楽しいものではないのだろう。 哲学も同じかもしれない。 哲学をせずにはいられない者は、いる。彼は問いを発し考え続ける。それが自分や誰か、社会にとって役に立つこと

          哲学・日記・メモ「アートや哲学は教育に導入できるのか」

          哲学・日記・メモ「音楽と絵画『タブローは自己批判しない』」

          音楽と絵画「タブローは自己批判しない」 音楽は本質を志向する、と言うよりも本質を志向すること自体が音楽なのではないか。 それは属性をそぎ落とし原初へと遡及して、最後は音そのものも消失してしまうだろう。そこにかろうじて残るものがあるとすれば世界の始まりの「ゆらぎ」、もしくは「インフレーション」のような「はたらき」そのものである・・・とでも言えばよいのだろうか。 対して絵画は、そのような音楽の本質志向とは真逆に具体的な属性をどこまでも纏い続ける。 例えば・・・生命と言う属性を纏

          哲学・日記・メモ「音楽と絵画『タブローは自己批判しない』」

          哲学・日記・メモ「音楽的なるものと絵画的なるものについて」

          「音楽的なるものと絵画的なるものについて」 音楽の本質が、世界の開闢に向かう根源的志向であるのだとしたら、その過程で切り捨てられていく非本質な属性とは、具体的な言葉・歌詞の、まさにその具体性なのではないだろうか(この具体性・属性を「内容」とするならば本質は「形式」となる)。 音楽の本質は「旋律」にあるのだろう。 しかし・・・ある曲を聴くとき、私は歌詞を抜きにしてその曲に魅かれる事はない。 「歌詞」は本質から疎外されるこの世界の「不条理」そのものをまさに語っている。私が魅

          哲学・日記・メモ「音楽的なるものと絵画的なるものについて」

          哲学・日記・メモ「かえらなかった時計屋さん」

          「かえらなかった時計屋さん」 https://www.youtube.com/watch?v=lPTsudui3kI 「みんなの歌」1978年の楽曲です。私が子供の頃に聴いた「みんなの歌」で強く記憶に強く残っている曲です。 今にして振り返ってみれば、この歌詞は東西冷戦を暗示していたのだとも思えます。終盤の「大きなロボット」と「おじいさん」の決闘は、おじいさんがロボットを抱えて飛んで行って「二度と帰ってこなかった」事で幕を閉じます。これは冷戦の二項対立の克服に対する、醒め

          哲学・日記・メモ「かえらなかった時計屋さん」

          哲学・日記・メモ「ハレとケ 年賀状の事」

          「ハレとケ 年賀状の事」 年賀状を書かなくなって久しい。しかし年始の挨拶を全くしないわけではなくて、メールで送信してはいる。これでいいのか?と思う事はあっても、それを20年も続けてきていると、それでいいのかもしれないと、開き直りでは決してない省察の結果として、今では受け入れている私がいる。 と言うのも次のように考えるからである。 ↓ メールでも心づかいが伝わっていれば良いのではないだろうか? 手書きでも走り書きで紋切型であれば残念に思ってしまう、ならば文言が印刷のみであった

          哲学・日記・メモ「ハレとケ 年賀状の事」

          哲学・日記・メモ「スポーツとは何か」

          エクストリームスポーツは自分自身の挑戦を軸にしているから1人称あるいは無人称のスポーツだ。格闘技などは「目の前のあなた」を競技の対象としているから2人称の意味合いが強い。野球やサッカー等は、チームワークが必要であるし、ソーシャルな競技としての認識が強いからに3人称だろう。 スポーツと何か? を問うてみました。 ↓ 「スポーツとは何か」 スポーツとは何か。 頭脳スポーツと言う分類がある。囲碁や将棋。チェスやオセロを思う浮かべればよいと思う。 この頭脳スポーツと言う分類を

          哲学・日記・メモ「スポーツとは何か」

          哲学・日記・メモ「口笛を吹く」

          「口笛を吹く」 時たまに口笛を吹きたくなる。 そんな時は不思議と必ず、車を運転している時なのである。 それは何故だろうと思う。 それは車内に私一人、しかいないからではないか? 誰にも「聞かれない」からである。 しかし本当にそうだろうか。 誰にも聞かれたくなかったら山の中や河川敷でもいいのではないか。 でも口笛を吹くために山に入ったり河川敷に赴くのは面倒だ。何故ならば口笛を吹きたくなる時は、突然に吹きたくなるのだから、その都度山に行ったり河原に行けるわけでもなく、行ったとして

          哲学・日記・メモ「口笛を吹く」

          雑考・日記・メモ「生涯学習の理想としてのユニベルシタス」

          生涯学習の理想としてのユニベルシタス ユニベルスタスは学生ギルド。 それは教師に師事するというより教師を自らの学びの為に雇い、その教授を管理し監督するものでもあった。 そこには学びの自治があり、学問の権威化以前の、学びの共同があり・・・そして何よりもそこには「学びのプリミティブな当事者性」があったのだろう。それはリスキリングに代表されるような社会教育とは、全く非なるものである。

          雑考・日記・メモ「生涯学習の理想としてのユニベルシタス」

          哲学・日記・メモ「音楽的ではない絵画の事」

          音楽的ではない絵画の事 カンディンスキーの絵画は絵画の体裁をした音楽だ。 それは具体的なのチーフを排して、非具体的なリズムを本質として志向している。 だからカンディンスキーの絵画は音楽なのだ。 対して本質を志向しない絵画と言うものもある。 岡本太郎は「芸術はいやったらしくなければならない」とか何とかいったが、そのような絵画こそが絵画なのだと、私も思う(しかし私は岡本太郎は好きではない)。 太郎は「いやったらしい」なんて言っているが、それは抽象の過程で削ぎ落されていく、具体

          哲学・日記・メモ「音楽的ではない絵画の事」