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323.励ましの言葉なんていらない、だから、励まさないでほしい!

1.  絶望名人カフカの残した愛の言葉


探し求める者は、見つけることができないが、
探し求めない者は、見出される。(カフカ)


この言葉はね、coucouさんが中学生のときに感動した言葉なんだよ!

「誰も遊んでくれないのなら、自分が楽しめばいい。友だちがいなくとも、寂しさが、不幸が友だちだ。自分は自分でしかない。誰も自分のことを愛してくれなければ自分が自分を勝手に好きになり、愛すればいい。」(カフカ)

 「フランツ・カフカ」Wikipediaより

フランツ・カフカ
・1883年7月3日に生まれ、1924年6月3日に亡くなる。
・出生地に即せば現在のチェコ出身のドイツ語作家。
・プラハのユダヤ人の家庭に生まれ、法律を学んだのち保険局に勤めながら作品を執筆、どこかユーモラスで浮ついたような孤独感と不安の横溢する、夢の世界を想起させるような独特の小説作品を残した。
・その著作は数編の長編小説と多数の短編、日記および恋人などに宛てた膨大な量の手紙から成り、純粋な創作はその少なからぬ点数が未完であることで知られている。
・現在ではジェイムズ・ジョイス、マルセル・プルーストと並び20世紀の文学を代表する作家と見なされている。
                            Wikipediaより


フランツ・カフカは次のような言葉(メモ)を残した。

(1)   青春が幸福なのは、美しいものを見る能力を備えているためです。
 美しいものを見る能力を保っていれば、人は決して老いぬものです。
 
(2)   人が通ったところに、道は出来る。
 
(3)   精神の世界以外には、何も存在しないという事実、
 これがわれわれから希望を奪い取って、われわれに確信を与える。
 
(4) 神はクルミを与えてくださる。
 でも、それを割ってはくださらぬ。
 
(5) 無難なことからではなく、
 正しいことから始めよ。
 
(6) 知性のはじまりの最初の兆候は、
 死にたいと願うことだ。
 
(7) 鳥籠が鳥を探しに出かけていった。
 
(8) 探し求める者は、見つけることができないが、
 探し求めない者は、見出される。
 
(9) 真実のない生というものはありえない。
 真実とは多分、生そのものであろう。
 
(10) ある地点からは、もはや立ち帰ることはできない。
 その地点まで到達しなければならぬ。
 
(11) わたしは自由です。
 だから道に迷ったのです。
 
(12) ただ詩のみが、常に真理へと到る道だ。
 
(13) 悪の最も効果的な誘惑手段の一つは、
 闘争への誘いだ。
 
(14) 人生の意味とは、
 それが終わるということです。
 
(15) あるのは目標だけだ。
 道はない。  
 われわれが道と呼んでいるのは、
 ためらいに他ならない。
 
(16) 人間のあらゆる過ちは、
 すべて焦りから来ている。
 周到さをそうそうに放棄し、
 もっともらしい事柄を、
 もっともらしく仕立ててみせる。
 
(17) 寝て、起き、寝て、起き。
 みじめな人生。
 
(18) 信頼が失われたならば、
 何を語っても意味がない。
 
(19) 自分を傷つけたり、
 刺したりするような本だけを、
 読むべきだと思う。
 
(20) あなたと世の中との戦いなら、
 世の中のほうに賭けなさい。
 
(21) 人間には他のあらゆる罪悪が、
 そこから出てくる二つの主な罪悪がある。 
 すなわち短気と怠惰。
 
(22) 精神は支えであることをやめるときに、
 はじめて自由となる。
 
(23) 真の道は一本の綱の上に通じている。
 その綱は空中に張られているのではなく、
 地面のすぐ上に張ってある。
 渡って歩くためよりは、
 つまずかせるためのものであるらしい。
 
(24) 結婚はしてもしなくても、
 後悔するものである。
 
(25) 愚かさによってのみ、
 彼らは自分に、
 自信を与えることができるのだ。
 
(26) 悪は善のことを知っている。
 しかし善は悪のことを知らない。
 
(27) 書物は、
 我々のうちなる凍った海のための、
 斧なのだ。
 
(28) 執筆しない物書きは、
 狂気を求める怪物です。
 
(29) 恐れをもつことは不幸だ。
 それゆえに、
 勇気をもつことが幸せなのではなく、
 恐れをもたないことが幸せなのだ。
 
(30) なぜ、人間は血のつまった、
 ただの袋ではないのだろうか。

                       ~フランツ・カフカ~

2.いちばんうまくできるのは、倒れたままでいること


 
なかでもcoucouさんの一番好きな言葉に、
「いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです」。

倒れたら無理に起き上らなくてもいい、倒れたままで地べたから空を見上げればいい。彼の言葉はとても悲惨な言葉が多いのだけど、ユーモアがあり、元気が貰える。
誰よりも落ち込み、誰よりも弱音ばかり、彼はノートに自虐や愚痴ばかり書き綴った。でも、これが人間の本当の姿で、成功者の言葉や思想家の言葉、宗教家の言葉よりもcoucouさんの心に響いたんだ。

彼のメモはまさに「絶望名人」だった。
彼は、そのメモに綴る。
 

「将来に絶望した」
「世の中に絶望した」
「自分の身体に絶望した」
「自分の心の弱さに絶望した」
「親に絶望した」
「学校に絶望した」
「仕事に絶望した」
「夢に絶望した」
「結婚に絶望した」
「子供を作ることに絶望した」
「人づきあいに絶望した」
「真実に絶望した」
「食べることに絶望した」
「不眠に絶望した」


「病気に絶望…していない」



 
最期の「病気に絶望…していない!」という言葉に彼の本質があるような気がする。彼は人生の最後に、病気を素直に受け入れ、そのことが絶望ではないと悟ったのかも。
このような彼の言葉にcoucouさんの場合、元気と勇気をもらった。
まさに「自分の不幸は蜜の味」だった。

coucouさんは「絶望の名人」ではなく、「絶望の達人」になろうと思った。そうすれば「絶望」なんて逃げていくのではないかと信じたからさ。

3.励ましの言葉なんていらない

coucouさんはね、子どもの頃から体が弱く、そのためか随分人に励まされてきた。だけど、励まされれば、励まされるほど落ち込んでいった…。

だって、どうしても頑張れないし、みんなのマネなんて到底できない、無理だ、と思っていたからね。
丁度、走れない人に走りなさい、頑張りなさい、やればできるのだから。祈りなさい、お祈りが足らない、心から真剣に祈り続ければ夢はかなうもの。と応援され続けた。

だけど、coucouさんは走れない…。

大人になったcoucouさんはそこでも、
「死ぬ気で頑張ればなんとかなる!」
「努力、努力!」
「人の何倍も頑張ったものが成功するんだ!」
、といわれ変わらず教わり続けていた。

だから、このような励ましが嫌いになっていった…。

みんな、成功者と呼ばれる人たちの言葉を信じ、振り回され、苦しんでいる。何か奇異に感じていた。
それは、成功者が正しいのか?
失敗者は間違いなのか?
努力し続けることが善で、努力ができないものは悪なのか?

長い間、coucouさんは考え続けていた。
でも、答えなどない。

そこで、カフカの言葉と出合った。
彼はなにも成功をしなかった、
いつも失敗ばかりを繰り返し続け人々から笑われていた。

そして平凡なサラリーマンの道を選んだ。
選んだというよりもそれ以外の道がなかった。

彼はその仕事が嫌いだった、嫌で嫌でたまらない。
だけど、食べていかねば生きていけない。

愛した女性もいたが、上手くいかない。
結婚したいと思ったが、なんども失敗し、生涯独身だった。

特に家族とはうまくいかなくて、父親を恨み続けた。
すべては父親のせいで自分が歪んでしまったと信じた。

身体も弱くて、胃が弱い、さらに不眠症を患っていた。

彼は小説で身を立てたくて書き続けたが、
すべて未完のままで終わる。
死ぬまで書き続けたが自分の満足のできる作品をひとつも残せなかった。

こうして、彼は生きている間、作家になりたかったが、夢破れた。

カフカの作品のほとんどは彼の遺言によってすべて焼却された。
だが、彼の日記やメモ書きは残された。

「将来に向って歩くことは、僕にはできません。
将来に向ってつまずくことは、これはできます。
いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。」


(これはいする女性に送ったラブレターの一説だという。もらった女性はどう解釈したのでしょうね)

coucouさんは初めて見たこの作品に心を打たれた…。

そう、将来なんてわからない、見えない。
何もできないかも知れないけれど、何もしないことはできる。
動かないこともできる、という言葉に聞こえた。

そう、頑張んなくてもいい、頑張れなくてもいいんだ、と聞こえた。

そして、カフカは本当に「絶望名人」なのか、という疑いも感じた。
なぜって、暗い話ばかりなのだけれど、ユーモアにも感じるし、明るく感じたcoucouさんだった。

彼は、決して成功者ではない、
だから成功者の言葉よりも重みと真実味を感じたんだ。

「ぼくの弱さ…もっとこういう観点からすれば、実は巨大な力なのだが…」


中学生のcoucouさんは驚いた、
「弱いという、巨大な力」という言葉に!


4.フランツ・カフカの本当の姿

カフカは1883年、プラハのユダヤ人商家の家に長男として生まれた。ユダヤ人としての出自は、カフカのアイデンティティに根深く影響を与えた。

当時のプラハにはドイツ人、チェコ人、ユダヤ人がいた。もともとプラハは中世から続くチェコ人の街だったが、当時は政治的にはドイツ人が中心で、公用語なとはドイツ語が主に使用されていた。
そして、ドイツ人の多くは資本家階級に属し、チェコ人は労働者のほうに属していた。

そのため、ドイツ人とチェコ人の間には少なからず対立があり、通う学校なども分かれていたそうだ。もちろん、差別などもある。その中で、ユダヤ人はどんな立場だったのかと言えば、長年差別されていたユダヤ人だったが、19世紀になると、やがてドイツ人に同化するものも多くいた。(ヒットラーはユダヤ人説はこんなところにもある)

プラハという街のなかでユダヤ人は、ドイツ人からみれも、チェコ人からみても、ドイツ人になりすました別民族であり、ドイツ人とチェコ人の対立関係において微妙な立場だった。

カフカはそんな中の一人だった。

カフカの父は、他のドイツ人と同じように自身の店でチェコ人たちを労働者として雇い入れ、息子にはドイツ人と同じ学校、大学に通わせた。

そのため、カフカは、プラハ出身のユダヤ人なのに、ドイツ語を中心に話し、作品もドイツ語で執筆していた。

カフカにも代表作がある。

このような時代にカフカは馴染めなかった…。
おそらくユダヤ人としての運命を恨み続けていたのかもしれない。

だから無理やり覚えた、母語のドイツ語など、彼にとっては嫌な言葉だったのかもしれない。さらに、明確にユダヤ人の意識と誇りをもっていた父母と、子どもの頃からドイツ社会に生きていた自分との間のギャップも彼は違和感を持ち続けていたかもしれない。



そんなカフカの代表作に『変身』という作品が残されていた。この作品は、主人公グレゴールがある朝目覚めると虫に変身していた、という小説で、衝撃的な冒頭から物語がはじまる。

物語では、変身した主人公と仕事、主人公と家族の関係が描かれ、物語終盤では愛する家族の残酷な一面が暴露されてしまう。
「本当の自分はどこにあるのか?」
「家族とは何だろうか?」
この作品ではカフカのドイツの世界に対する皮肉と、自らの家族への疑問とも読み取れる。


また、後期の代表作として『城という未完の長編小説がある。
主人公Kが、ある日とある城下町にやってきた。
お城からの仕事の依頼できたというKに対して、町の人々はよそ者扱いをし続ける。
だが、肝心の城からも連絡は来ず、こちらから城に出向こうと思ってもなぜか城にはたどり着けない…
カフカはユダヤ人としての誇りを伝えたかったのだろうか?自分の存在感や存在理由、存在意義を唱えたのではないだろうか…。


カフカは生前、わずかな例外を除いてほとんどの作品は世に出なかった。本当はこのドイツでドイツ語で出版をしたくなかったのかもしれない。
カフカの作品が世に伝わるようになったのは、彼の死後、友人のマックス・ブロートが彼の原稿をまとめて全集を出版したのがきっかけだった。

まるで、日本の作家宮沢賢治のように思える。彼も生前作品は公表されず、兄弟が原稿を出版社に持ち込み、世に出た、それに似ている。

カフカも宮沢賢治も当時は作家ではなく、何よりもそれで生活ができなかつたことがわかる。

カフカは大学で法学を専攻していた。

大学卒業後、「労働者傷害保険協会」という半官半民の保険会社に勤め、肉体労働者たちの保険業務を担当していた。
彼は普通のサラリーマンとして生涯を生きた。

だが、サラリーマンとしてカフカはかなり優秀だったため、第一次世界大戦の際には、業務に欠かせない人物であるという会社の申請書によって、徴兵を免除されていた。

また、そのサラリーマン生活の中で、そのほかにも、水泳やボート、乗馬、オートバイ、などスポーツを通じて積極的に体を鍛えていた。人にも優しく、礼儀正しく、随分と人気もあり社交的だったことがうかがえる。

カフカは孤独と失敗の名人だったけれど、本当は明るく、楽しく生きて、最後までその明るさを失わなかった、希望を持ち続けたとcoucouさんは信じている。
彼が世の中を去る、最後の言葉「病気に絶望…していない」にあるような気がしている。

一休さんがこの世を去るときの最後の言葉「死にとうない…」と、わざと弟子たちの耳に入るように人間の死にざま、本当の姿を見せたように、この言葉はこの時代に希望を与えたのと同じに聞こえた。

©NPО japan copyright association 

おやおや、今回も7000文字を超えてしまった…。
だんだんと読者のみんなを疲れさせて、
離れさせてしまっているような気がする、最近のcoucouさんです。

でもねまだ書き足りない~

また、あした~

みなさん、ごきげんよう!


ごめんなさい~


ありがとう~


ここで、止めるね~


いつも、止まらないcoucouさんでした。


うれしき~





5.「さらに詳しくカフカのことを知りたい方へ」

参考文献及びカフカ資料


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

フランツ・カフカ(Franz Kafka, ときにチェコ語: František Kafka, 1883年7月3日 - 1924年6月3日)は、現在のチェコ出身のドイツ語作家。プラハユダヤ人の家庭に生まれ、法律を学んだのち保険局に勤めながら作品を執筆した。どこかユーモラスな孤独感と不安の横溢する、夢の世界を想起させる[1] ような独特の小説作品を残した。その著作は数編の長編小説と多数の短編、日記および恋人などに宛てた膨大な量の手紙から成り、純粋な創作はその少なからぬ点数が未完であることで知られている。

生前は『変身』など数冊の著書がごく限られた範囲で知られるのみだったが、死後中絶された長編『審判』『』『失踪者』を始めとする遺稿が友人マックス・ブロートによって発表されて再発見・再評価をうけ、特に実存主義的見地から注目されたことによって世界的なブームとなった。現在ではジェイムズ・ジョイスマルセル・プルーストと並び20世紀の文学を代表する作家と見なされている[2]

フランツ・カフカ[注釈 3]は、1883年オーストリア=ハンガリー帝国プラハにおいて、高級小間物商を営むヘルマン・カフカ(1852年 - 1931年)とその妻ユーリエ(1856年 – 1934年)との間に生まれた。両親は、ともにユダヤ人である。

父ヘルマン・カフカは、南ボヘミアの寒村ヴォセクの畜殺業者ヤーコプ・カフカの息子であった。チェコ語を母語とし、ユダヤ人向けの初等学校でドイツ語を習得したが、後年になってもドイツ語を完全に操ることはできなかった[5]。彼は、ユダヤ社会で成人の1年後にあたる14歳の時に独り立ちし、田舎の行商をしていたが、20歳の時にオーストリア軍に徴兵され、2年間の兵役を勤めた後、都市プラハに移った。1882年、裕福な醸造業者の娘ユーリエ・レーヴィと結婚し、彼女の財産を元手にして小間物商を始めた[6]

父ヘルマンがチェコ語を母語としていたのに対し[注釈 4]、母方のレーヴィ家はドイツ風の慣習に馴染み、ドイツ語を話す同化ユダヤ人であった。レーヴィ家は、ユダヤ社会の名門であり、祖先には学識の高いラビタルムード学者のほか変人、奇人も多く存在する。カフカは、自分の資質について、父方よりも母方の血に多くを負っていると感じており[8]、日記やメモではもっぱらこの母方の祖先について言及した[9]。母ユーリエ・レーヴィには3人の兄と2人の義弟がおり、長兄アルフレートはスペイン鉄道の支配人となりカフカの最初の就職の手助けをしている(カフカ家では「マドリードの伯父」と呼ばれていた)。上の義弟ジークフリート[注釈 5]は、学識と機知に富む変わり者であり、メーレンの田舎町トリーシュで医者をして生活していた。カフカは、この叔父を気に入り、晩年までしばしば叔父のもとを訪れ滞在している。母方の5人の叔父のうち、この2人を含む3人が独身であった[11]

フランツ・カフカは長男であり、彼が生まれた2年後に次男ゲオルクが、さらに2年後に三男ハインリヒが生まれたが、いずれも幼くして死去している。両親には続いてガブリエル、ヴァリー、オティリーの3人の娘[注釈 6]が生まれた。幼いころは妹3人で固まってしまい、また両親はいつも仕事場にいたためカフカは孤独な幼少期を送ったが、晩年に病にかかってからは三女のオティリー(愛称オットラ)と親しくした。カフカ家には他に料理女や乳母が出入りしており、カフカは主に乳母を通じてチェコ語を覚えた。

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