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No.10 ブランク9年デザイナーが「勝てるデザイン」のワークをやってみた。#10 タイムスリップして原体験をさぐれ!

こんばんは!九州でDTPとWEBのデザイナーをしているNenpa_と申します!ブランク9年の私が、デザインとは何たるかのテコ入れに前田高志さん著「勝てるデザイン」の巻末ワーク(ハンパなく身になる…)を全てやってみるという第10回目です。

今までのワークはコチラ。良ければ見てみてくださいね😉
だいぶ後半まできました…✨

#01 色彩センスを身につけろ!
#02 デザインを1000例、集めろ!
#03 マイベストとマイワーストを決めろ!(ベスト編)
#03 マイベストとマイワーストを決めろ!(ワースト編)
#04 デザインの必殺技を10個作れ!
#05 センスがわかる!
#06 造形センスを身につけろ!
#07 無限ヒアリングで本質をつかめ!
#08 うすっぺらい作品から打破せよ!
#09 本当のトレースはこうやれ

さて、今回の「勝てるデザイン」ワークは…

#10タイムスリップして原体験をさぐれ!

  • 親から小さい頃の話を聞く

  • 旧友に話を聞く

  • 幼稚園時代の思い出を書き出していく

  • 小学校時代の思い出を書き出していく

  • 中学校時代の思い出を書き出していく

  • クリエイティブとの接点をNoteに書く

よし、昔を振り返るのは得意です。やっていきましょう!

親の話 私はどんな子だった?

とにかくいい子。あまり騒がず大人しい。弟やペットの世話をよくするし、目立った悪さをしない。ちょっとボンヤリした子ども。幼稚園に行く前は、フワフワのぬいぐるみを沢山集めて、寝る時はいつもぬいぐるみと一緒。お化けを異常に怖がり、大人しくてボーッとしていたため、よそのお母さんから「貸して」「貸して」と引っ張りだこに。時々よそのご自宅に遊びに行き、まる1日過ごしてお菓子をもらったりなど出張していた。

美短大の同級生の話

近所に住んでる美術短大の同級生に聞いてみました。
えっと、あの頃、どうやったっけ?

そーねー。あの頃、私も結構真面目に教員免許とか取ろうとしてたり、先生のとこに入り浸ったりしてたけど、割と遊んどったよね。みんな。まっちゃんは結構、CGとかMacでデザインしたがってたよね。あの頃まだ手作業の課題とか多かったけど、なんかCGの先生のとこに入り浸ってずっとコツコツ作ってた。やり方とか質問して一人で残ってずっとやりよったよね。院生になればいいのにって思いよった。あと、図書館も好きやったよね。放課後よく行きよったの覚えとる。私はサークル入ってたし一人暮らししてたから皆んなで課題しよったけど、結構、実家から来てる人は少なかったかもね。毎回まっちゃんだけ帰らないかんかったけん、割とすぐ帰るイメージ。後半はもうどっかのデザイン事務所に入って働きよったからなんかもう、勉強だけしてすぐバイト行くみたいなんやったよね。

そーやね。割とガリ勉やったよね。どうしてもMac使いたかったってのもあるよね。その為に入ったし、わからないことだらけやったし。後半、ちょうど行きたかったデザイン事務所で働く機会をいただいたから、働きながら学校行ってた感じやったね。課題も手作業でなかなか乾かんし仕上がらんけんキリのいいとこで自宅でやることも多かったように思う。今から思えばもうちょっとみんなと混ざってワイワイしとけばよかったかも。
あと、写真好きで色々モデルになってもらったりしたよね。

残っとってもただダラダラ遊びよっただけやけん、ほんとくだらんよ。ずっと遊びよった。髪がいろんな色の子とかおったよね。7色とか。
写真好きな子がおったけん、その子と街で撮ったりしよったよね。1眼レフの昔のやけん手で現像する授業とかありよった。手間かかったよねー。今からしたら面白いけど。かなり手間。

学校の前半に少しだけ、ショップの店員のバイトとかしよったけん、お店に遊びにきてくれたこともあったよね。あ!シルクスクリーンの授業とか思い出した!!かなり面白かったよね。好きでこそっと施設を使わしてくださいとか、しよったと思う。Tシャツ好きな人とかもおったような気がするね。今から思うと夢のような設備やったなぁ。昔は気づけなかったの、残念。学校終わったあとさ、みんなでよく溜まっとったやん?あれなにしよったっけ?サークル結局入ってないけんわからんけど…(一緒にいるとどこまでも話が長くなるので、この辺で終わります)

幼稚園時代のかすかな想い出

幼稚園の頃から夢見がちでぼんやりさん。
集団行動が苦手で、園庭で遊んでいて「集合〜」と声がかかってもいつまでも庭の草花をじっと眺めている。先生の話の途中でよそごとが気になり、違うことを考え始める。家庭がかなり厳しくあまりバカもできない雰囲気。食卓では話す事を禁じられ、TVは父に許しを得てから。大きな声を出すと怒られる為、外に遊びに出ていました。父親の笑顔も見たことがなく(星飛雄馬の父、エヴァの碇ゲンドウのような?)家より外の方が自由。窮屈で窮屈で、若干よその子になりたがるところがありましたね。父の仕事で転勤も多く、場所を移動することに慣れていました。定期的な環境の変化は面白く、好きでした。両親が大きな病気をした事があり、遠方の祖母の家に2ヶ月程預けられましたが、その時の生活が大変面白く、祖母は保母をしていたこともあり話も上手。祖父はざっくばらんで笑いがあり、子どもたちのツボを押さえたレジャーにたくさん連れて行ってくれました。猫もいて、畑もあって、毎日がパラダイス。ホームシックゼロで母親の顔をすっかり忘れていたというエピソードも。
厳しい家庭環境だったので怒られることが大嫌い。なので長女が怒られるのを見て絶対に叱られないように行動する次女でした。
小さくてか弱いものを見るとお世話する習性があり、幼稚園から弟の世話をする「ケア魂」みたいなところがありましたね。手がかからない子ども いると助かるわ の称号をGETしていました。

小学校時代の想い出

低学年の頃から結構、弟やペットの世話をしていたように思います。
3人兄弟の真ん中でしたが、割といい子ちゃんで、真面目。
先生からも気に入られて、朗読大会や人前での挨拶など振られていました。
この頃、夢の都市のポスターコンクールで入賞(海中都市描いたかな)したことから賞を取ることがヤミつきに。絵画・ポスター系コンペにはガンガン応募していました。クラスの旗のロゴを考えたり、クラス新聞の広報を担ったり。結局今とほとんど変わりません。
 田舎にいた頃で、漫画雑誌しか娯楽がなく「リボン」「なかよし」「ちゃお」あたりがバイブル。姉と朗読を繰り返す。少年ジャンプを姉弟に1冊買い与えてもらっていたため「ドラゴンボール」にもハマり、少女・少年漫画問わず真似して描くように。オリジナルの漫画もコツコツ描いていました。
 転勤が多く、直後はいつも友人ゼロからのスタート。絵を描くと人が寄ってくるため客寄せ的に漫画のキャラそっくりに絵を描いたり、漫画での交換日記など、とにかく絵を描いていましたが、誰かに喜んでもらうために描いていた。というところもモチベの一つだったように思います。
今から思えば「自由に描く」よりもテーマや目的の決まった中で表現するものが多く、設定の中でどう見せるかの楽しさを感じる人だったのかも知れません。ささやかにウケを狙いつつも、真面目で優等生なメガネでした。

中学校時代の想い出

「少年ジャンプ」や「リボン」を朗読し、演じて遊んでいたのもあり
中1-2あたりで大ヒットした「となりのトトロ」で声優になろうと決意。
同時期、CMやTV番組がブームに。放送局や広告の裏側的な番組が増え、
当時は書店も遠く、TVぐらいしか娯楽がなく、メディア関係にはかなり影響を受けました。しかし厳しい家庭だった為、TVは父親の了解を得てからしか見せてもらえず、家庭の方針として浮かれた雰囲気にかなり否定的。娯楽や美術への興味がほぼ無く、チャラついたた雰囲気を一切排除したまるで戦後すぐのような禁欲的な家庭環境。抑圧と制限の中、明るく華やかなマスメディアへの興味が募っていました。

頭が硬く保守的な家庭で、自然と感じていた不満
「もっと違う世界を知れば理解できるのに」
「もっと楽しめばいいのに」
「もっといろんな事に興味を持てばいいのに」
そんな感情や疑問が溢れてきて、明るく華やかな世界(エンタメ)を作り出すことに興味が出てきていました。別の人生を知ること、娯楽を作ること、発信する側にたつこと。今から思うとその要素が全て入っていたのが、当時なんとなく選んで決めた部活「演劇部」でした。

中学時代の部活は、弱小の演劇部。メンバーは同級生の6人のみ。
部長に面白い女の子がいて、漫画から音楽から映画から、ネットのない時代にとにかくマニアックなネタを沢山知っている。それを全く興味もない人に上手に教えるんです。しかも話がメチャクチャ面白い。
飛び抜けて賢くバカで、はっきりした性格で。突き抜けて目立っていたため、やっかみも多かった。物知りゆえに繊細。堂々とマイノリティーな彼女は、いじめられてもいましたが強さと聡明さがあり、一部の人からはとても好かれるタイプでした。その子にかなり影響を受け、漫画やCDの貸し借りでカルチャー要素をグングン吸収。今でもデザインや娯楽、カルチャー面での基盤になっています。馬鹿馬鹿しさとスジの通った賢さ、突き抜けることでの成功を彼女から学んだ気がします。後にその子と40代になって突然再会するのですが、実は彼女と再び出会ったことが、私が9年のブランクを経て再びデザインに戻る決意をしたきっかけになりました。

中学時代の最後の頃、原稿用紙にペンとインクで漫画を描いたり、
ドラゴンボールの同人誌を出すため、印刷をしてグッズを作り、コミケに参加するなど、主体的にものを作り始めていました。なんとなくですが、何かを作る側に立ちたいと思っていた頃。でもバシッと来るものがなかったから漫画を描いていた。そんな頃。

服を買いに初めて都心にでたある日、ピカピカした最新のファッションビルはどれも大きく見えて、都会っぽい未来感にワクワクしていました。ひときわ新しいビルに入りその大きな柱に連続して貼られた銀色のポスターを見て、強烈な印象を受けました。
銀の大判ポスターに「ちび太」や「バカボン」など天才バカボンのキャラクターが一人一人、巨大なプリントで連貼りされています。小さくすっと入ったキャッチコピーと大きなキャラクターの対比。全ての柱がポスターのおかけでビッカビカに輝いていて、今までの福岡にない新しい デザインなのは一発でわかりました。すごい、カッコイイ!!!!強烈な華やかさ!!!
声優になる夢なんか、遠くへ吹っ飛んでいきました。

私も、こんなものを作る仕事がしたい。派手で華やかで目が離せない。
今でも目に焼きついています。

このセンセーショナルなポスターとの出会いで、私はデザインの方向へ向かうことになります。

まとめ

ここまで幼年期からを振り返ってみて思ったこと。実は私「過去をほとんど覚えていない」んですね。○○ちゃんと昔さー。○○と○へ行ったじゃん?みたいな話をほとんど覚えていない。「グラフィックや絵が印象に残ったこと」しか覚えてないんですね。転勤も多く、あまり人との想い出に固執しなかったのがあるかも知れません。転勤した後の友人がまだできていない時、暇を潰したり自分の気持ちを紛らわしてくれたのは、漫画やイラスト、ものづくりや読書、想像や妄想みたいな事だったからかも知れません。
 ゴールデンタイムの番組やドラマや映画は、厳格な父にTVを占領され好きに見れませんでしたから、娯楽のない世界で、どうエンタメを作り出すか。想像の中でひたすら遊んでいたことが、今の自分に影響しているんだと思います。

加えて、転勤が多かったことで、他者と接点を持てる「目立てる武器」が欲しかった。向こうから寄ってくる技術や、注目してもらえるもの。
それは思えば、「広報する」「広告する」「宣伝する」「プロデュースする」そこにつながるものなんだと思います。


文字量の多い内容を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。みなさんもぜひ、過去の自分から、得意分野やこだわり、本来の欲求などを教えてもらってくださいね!新しい発見がきっとあるはず!😲✨


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