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須賀敦子 『コルシア書店の仲間たち』 : 朽葉色のフィルター

書評:須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』(文春文庫)

本書のレビューは、ponzoh(※ 現在は「 kentaroh」)氏の「頭で読むのではなく心で読むエッセイ」に尽きると思う。

『文章は平易で読み易いのだが、不思議とイタリアの情景が心に浮かんでくるところがすごい。
著者が観てきた世界にどっぷりはまって、気づいたら読了していた。
何でもない話なのだが、爽快な読後感を味わえるし、活き活きとした情景が浮かぶ文とは何たるかを学べる作品であった。
須賀 敦子さん、有難うございました。』

まったく同感だ。
だが、その上で、このレビューが完璧なのは、タイトルの「頭で読むのではなく心で読むエッセイ」という評価の方であり、星5つではなく「星3つ」という、レビューの中身の割には辛い評価の方だ。

なぜ、ここまで誉めておきながら「星3つ」なのか。
それは、本作には、そしてたぶん須賀文学には『頭で読む』部分が不十分だと感じられたからであろう。

ponzoh氏と、結果的評価はまったく同じなので、私は以下に「星3つ」の意味を論じたいと思う。

 ○ ○ ○

ponzoh氏は、本書の「気に入ったフレーズ」として、次の引用部分を紹介している。

『私のミラノは、たしかに狭かったけれども、そのなかのどの道も、
だれか友人の思い出に、なにかの出来事の記憶に、しっかりと結びついている。
通りの名を聞いただけで、だれかの笑い声を思い出したり、だれかの泣きそうな顔が目に浮かんだりする。
十一年暮らしたミラノで、とうとう一度もガイド・ブックを買わなかったのに気づいたのは、日本に帰って数年たってからだった。』

なぜ、ここなのか。
それは、ここに本書の、そして須賀の本質がよく顕われているからだ。
つまり「ガイド・ブックではなく、記憶」とは、「他者の視点ではなく、自己の視点」ということであり「頭(理性)で書くのではなく、心(情緒)で描く」ということだ。その結果「頭で読むのではなく心で読む」作品になっている、という評価なのである。

もちろん私は、本書が「非理性的な作品となっていて、よろしくない」などと言っているのではない。そもそも「文学」というものは徹底的に「個人の視点」に拠るものであって、客観的事実では「文学」にはならない。
しかしまた、では「文学」には「客観性の強度」が必要ないのかと言えば、決してそんなことはないし、須賀自身もそのことは重々承知している。

『 全体としてみると、小説、というよりは、童話めいていた。アシェルは、おそらく、自分とミリアムの、あっという間に終ってしまった結婚生活について語ろうとしたのだけれど、十分な客観化に到らないで、作者の個人的な嘆きが、シチリアの泣き女の葬送唄のように重苦しくたゆたって、作品の印象を弱めていた。』(P198)

「客観的事実」などという怪しげな権威に盲従せず、徹底的に「個人の視点」で、著者が全責任を負って書かれるべきが「文学」だからこそ、そこには「主観的視点を厳しく戒める客観的視点」を「著者自身の(主観的)視点」に繰り込むことが必要なのだ。その「個人の中における、主観と客観(理性と情緒)の葛藤」が十二分にあってこそ、個人的な作り事でしかない「文学」は「客観的事実」を越えて行く強度を備えるのである。

そして、須賀自身もみとめる「客観性」の重要性とその強度において、本書『コルシア書店の仲間たち』は、著者自身が思っているほどのものであり得たかという点で、私は(そして、たぶんponzoh氏も)「星3つ」という評価を下した。
と言うのも、私には(そして、たぶんponzoh氏にも)、本書はどこか『童話めいていた』もののように感じられたからである。

たしかに、酔わせる「物語」にはなっている。しかし、これは「須賀敦子という朽葉色のフィルター」を通して「美化されたフィクション」だからだ。
エッセイが「事実そのまま」を語るものでないことは、もはや縷説するまでもないだろう。

『 (※ ナタリア・ギンズブルグの自伝的小説『ある家族の会話』という作品は)自分の言葉を、文体として練り上げられたことが、すごいんじゃないかしら。私はいった。それは、この作品のテーマについてもいえると思う。いわば無名の家族のひとりひとりが、小説ぶらないままで、虚構化されている。読んだとき、あ、これは自分が書きたかった小説だ、と思った。』(P196)

こうした意識が、著者の根底に伏在しているのだから、エッセイだって同じなのである。

そして、このような「虚構化」のあることを意識して読み、その演出効果を差し引く(フィルターをはずす)ならば、本書の登場人物たちもまた、意外に私たちの身近に(日本にも)いる「普通の人」でしかない、と感じられるのではないだろうか。
彼らの生きる様が、あのように「切ないドラマ」として読まれてしまうのは、その設えられた「美しい舞台」と「去りゆくものの物語」として強調された陰影が、著者の「願望」の反映として、色濃く与えられていたからではないか。

では、須賀敦子の描く世界を支配する、その「願望」とは何か。
それは「夢見られた理想が色褪せていくなかで、ぎりぎり救い出される記憶(思い出)」である。

例えばそれは、本書冒頭のエピソードで印象的に描かれる、コルシア書店のパトロンである老女ツィア・テレーサや、詩人で左翼で傍若無人なダヴィデ・マリア・トゥロルド神父の描き方に典型的であろう。両者はともに、最初は一種の「憧れの人」として見られていたが、テレーサは老いてその魅力を失い、ダヴィデ神父はだんだんその雑な思考が明らかになって、著者の尊敬を失う。
また、ミケーレやアショルだって同じだ。彼らは「変わった」かも知れないのだが、著者は「記憶の中にいる彼ら」にこそ愛着する。
そして、こうした経緯は「コルシア書店」の経緯そのものでもある。ありし日輝いていたコルシア書店は、やがて寂しい落日を迎える。
本書はそういう「物語」なのだ。

しかしながら、たぶん著者には、自身が「コルシア書店」やその「仲間たち」に対して、かなりのところ客観的であり得ているという自信があったろう。それは彼女自身、カトリック信者でありながら「教会権力批判」をして見せたりするところや、

『ニコレッタのお先まっくらで、真摯で、自己中心で、未完成そのものの語り口は、思いがけなく新鮮だった。思想のかけらもない、彼女のむしゃぶりつくような人生への期待と要求が、むしろ、こころよかった。彼女の知的なそっけなさが、精神にまでとかく曲線を誇張するイタリアの女性のなかにあって好もしく、より自分に近いものに思えた。』(P121〜122)

と、イタリアの女たちの「情緒性の強さ」に比して、自身の『知的なそっけなさ』を高く評価している点にも、著者の自己認識が窺える。

しかし私は、客観的に見て、著者が『知的なそっけなさ』を十二分に備えた人だとは思わない。
それは、他者を語った場合の、つぎのような評価に明らかだろう。

『(※ コルシア)書店が発行していた小冊子で読んだこの書店のありようが、純粋を重んじて頭脳的なつめたさのまぬがれない、フランスのカトリック左派にくらべると、ずっと人間的にみえて、私はつよくひかれた。』(P44)

著者は、自身の「知性」を十二分に自覚していて、自信も持っている。だからこそ、無教養な者の中に本物の知性を見たり、教養高き人たちに死んだ教養を見ることも出来るのだ。

だが、「知性」や「理性」や「教養」のある人が、十二分に自身の「情緒」をコントロールできるとは限らない。
と言うよりも、「情緒」は、「知性」や「理性」や「教養」では、基本的にコントロールできない。それは、性的禁欲の誓いをたてたカトリック神父たちによる「児童虐待事件」の頻発など、人間の「動物的(物理的)本能」に由来する問題に明らかなのである。

「情緒」を単なる「気分」くらいに考えているから、それが「知性」や「理性」や「教養」あるいは「意志の力」でコントロールできるなどと軽く考えてしまう。
しかし、麻酔薬や覚醒剤などを射たれれば、人は誰でもその薬効によって、通常の認識能力を失ってしまうのと同じで、「性欲」も各種の「情緒」も、それらは単なる「気分」などではなく「脳内における物理的化学反応(脳内物質による科学的現象)」だと理解すれば、「知性」や「理性」や「教養」や「意志の力」で「情緒」がコントロールできる、などというお気楽な(情緒的な)思い上がりは、とうてい持てないのはずなのである。

そして、このような「つめたい」までの客観性にさらされたとき、須賀敦子の、自己認識の甘さゆえの「客観性の不十分さ」と「情緒性」も、おのずと明らかになるのだ。

じつは私は、本書を「キリスト教研究」の一端として読んだ。
須賀敦子という「神の実在を信じる人」の、文学者としての「目の強度」を測るために読んだのだ。だから、その「物語」に気持ちよく酔うことを期待して読んだ人とは、おのずと読みの態度や心構えも違っていたのである。もちろん、作品は楽しめばいいし、本書は楽しめる作品だが、私が注目したのは、その「強度」だったのである。

では、こんな私と同じような評価をし、しかしそれを率直に語りはしなかったponzoh氏とは、どういう人なのか。
氏がフォローしている作家が『言ってはいけない 残酷すぎる真実』などの著者として知られる「橘玲」であることを知れば、おのずとその立ち位置も理解もできよう。
橘は前記『言ってはいけない』で脳科学的知見を援用し、好んで、人の「願望充足的幻想」を暴きたてている、「つめたい」どころか「あつい」くらいに「イケズ」な理性の人なのである。そしてponzoh氏は、橘玲ほど「あつい」イケズではなかったものの、「つめたい」客観性は持っていた、ということなのだろう。

近年、「脳科学」が「信仰」の根拠を揺るがせているように、すこしでも橘玲的な「冷徹な視点」を持っている人であれば、須賀敦子の無自覚な「甘さ」や「弱さ」は、彼女がカトリックであることを知らなくても、明らかであろう。
そういう読者にとっては、文春文庫版解説者である松山巖のような「感情移入」的評価は、とうてい下し得ない。そして、その結果が「星3つ」だったということなのである。

『 コルシア・デイ・セルヴィ書店をめぐって、私たちは、ともするとそれを自分たちが求めている世界そのものであるかのように、あれこれと理想を思い描いた。そのことについては、書店をはじめたダヴィデも、彼をとりまいていた仲間たちも、ほぼおなじだったと思う。それぞれの心のなかにある書店が微妙に違っているのを、若い私たちは無視して、いちずに前進しようとした。その相違が、人間のだれもが、究極においては生きなければならないと孤独と隣あわせで、人それぞれ自分自身の孤独を確立しないかぎり、人生は始まらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。
 若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う。』(P232)

しかし、彼女が、このような「現実の黄昏」を受け入れることが出来たのは、たぶん「神」だけは不変であり、いつもそこにいるという安心感が残ったからなのではあるまいか。「孤独」ではなかったからではないだろうか。

しかしまた、「文学」の神は、仲間内の幻想や馴れ合いや依存を排除して、「孤独」を突き詰めた先にこそ立っている。
「古き良き文壇」における忌憚のない相互批評が失われ、商業的な「売らんかな」の提灯持ちが当たり前になった時代に、作家・須賀敦子は生まれた、と言っては、『純粋を重んじて頭脳的なつめたさのまぬがれない』評価だと評されてしまうだろうか。

初出:2019年3月17日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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