マーティン・スコセッシ監督 『タクシードライバー』 : 問われるべきは 「作品そのもの」である。
映画評:マーティン・スコセッシ監督『タクシードライバー』(1976年)
ながく不動の地位に輝く「名作」である。
先日、やっと歴史的名作『カッコーの巣の上で』(ミロス・フォアマン監督)を鑑賞し、同作が、1970年代の「アメリカン・ニューシネマ」として、時代を席巻した名作群のひとつであることを知った。
私はほぼ、この時代のアメリカ映画の名作を観ていなかったので、今回は自覚的に「アメリカン・ニュー・シネマ」の傑作として知られる、本作『タクシードライバー』を観ることにした。
本作は、名優ロバート・デニーロの出世作として知られ、もちろん私もデニーロの出演作ならいくつも観ているから、この出世作も、タイトルだけはよく耳にしていた。
マーティン・スコセッシ監督の方は、これまでに2本しか観ていない。
1986年の『ハスラー2』は、「名作の続編」として、監督の名を意識せず観たが、いずれにしろ印象に残る作品ではなかった。
次に観たのは、2009年の『シャッターアイランド』。「異色のミステリ作品」といった評判を耳にして、そこに興味を持ったのではないかと思う。この当時、すでに私はミステリマニアだったからで、その視点から見て「まずまず悪くない作品」といった評価であり、この時に、初めてスコセッシの名前を意識し、記憶した。
そんなわけで、特に映画ファンというわけでもなかった私は、デニーロにもスコセッシにも特にこだわりはなく、今回はあくまでも「ベトナム戦争を背景とした、1970年代の、アメリカン・ニューシネマを代表する傑作」として鑑賞することになった。基本的な教養として、この作品は観ておかないと、という感じだったわけである。
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観終わって、最初に思ってのは「えっ、何これ?」ということであった。
破滅的な行動によって、てっきりラストで死んだものと思われた主人公トラヴィスが、最後の最後で、平気な顔をして元の生活に戻っていたからである。
この「ラスト」に驚いた人は少なくないようで、と言うか、最初はみんな、このラストに驚くようで、このラストについては、主に二通りの「解釈」が存在している。
要は、トラヴィスは死ななかったという解釈と、もうひとつは「非業の死」を遂げたトラヴィスは、幸福な「末期の夢(非現実)」を見た、というものである。
しかし、この「ラスト」の意味を検討するためには、そこへと至るストーリーを、ひととおり紹介しておかなければならない。
正確かどうかは別にして、本作の「あらすじ」は、およそ次のようなものであり、今でいう「ネタバレ」になるようなものではないから、そこはご安心いただきたい。
要するに、元海兵隊員でベトナム帰還兵の若者であるトラヴィスが、帰還後の生活になじめず、とんでもない事件を引き起こしてしまうと、そうまとめていいお話だ。
「ベトナム帰還兵」と聞くと、多くの映画ファンは、シルベスター・スタローン主演の名作アクション映画『ランボー』(テッド・コッチェフ監督・1982年)を思い出すのではないだろうか。
大ヒットして、多くの続編の制作された作品だが、最初の『ランボー』は「ベトナム帰還兵の屈折と、彼らへの無理解」を描いた作品で、後半の派手なアクションは、その結果に過ぎなかったとも言えよう(※ ベトナム帰還兵には、不正義の戦争に加担した者として、戦後の社会から差別阻害された部分があったようだ。日本の戦後にも、元特攻隊員が死に損ないと差別されて、やけになって犯罪に走った者もいたようである)。
したがって、1975年に終結した「ベトナム戦争」を受けて制作された1976年の『タクシードライバー』の頃には、まだ「ベトナム帰還兵」の問題が社会の中で周知されていたとは言い難く、それは個人的な「社会的不適応」のように見られていた。
だが、1982年の『ランボー』の頃にはすでに、ベトナム帰還兵たちが戦争で受けた「心の傷」としての「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」の問題が周知されており、彼らの「社会的不適応」は、一種の「心の病」であり、彼らは、同情されるべき「被害者」である、と考えられるようになっていた。
またそのため、「ベトナム帰還兵」を描いた作品に対する評価も、言うなれば「その点に配慮した」ものとならざるを得なかった、と見ていい。
つまり、「ベトナム帰還兵」を描く場合、彼らを「悪役」にはできないし、仮にそう見えるものであったとしても、やはり、その「被害者」性(悲劇性)を理解すべきものと、おのずと(良識的に)そう考えられたのではないだろうか。
そして、そうした意味では、1976年の『タクシードライバー』の主人公であるトラヴィスについても、彼の「不眠症」が戦争の後遺症であるとする描写や説明は無く、彼に「戦争がどのていど影を落としているのかは、よくわからない」にしろ、ひとまず「単純に、頭のおかしいやつ」だというような、身も蓋もない否定的評価は、今日的には「語りにくかった」はずだし、そのため、いささか「バイアスのかかった作品評価」にならざるを得なかったのではないだろうか。
元海兵隊員で「ベトナム帰還兵」のトラヴィスは、学も教養もない、いささか直情的な青年で、現在はタクシードライバーをしている。
彼は、ずっと「不眠症」に悩まされており、作中ではその原因は明示されておらず、本人にもその原因についての明確な認識があるかどうかは疑わしいが、ともかく不眠による苛立ちを抱えているというのは事実だ。
どうせ眠れないのならと、夜間勤務のタクシードライバーを始めたのだが、車の窓ガラスを通して見た、夜のニューヨークの街は、彼には「腐りきった」ものとしか見えず、こんなもの、雨がすべて洗い流してくれればいいのにと苛立つ。
ある時、彼は、街路から屋内の見通せる、大統領選候補者パランタイン上院議員の選挙事務所に、美しく上品な女ベッツィーを見かけて一目惚れする。
いささか強引に、彼女をデートに誘い、いったんはうまくいくものの、ある日のデートで、彼女をポルノ映画館に誘って困惑させるが、トラヴィスとしては、それは単に「アベックでも観る(普通の)映画」だという認識であり、そう説明して二人で中に入ったものの、始まったのは、やはりひどいポルノ映画だった。
ベッツイーは腹をたててすぐさま席を立ち、追いかけて謝罪するトラヴィスを置き去りにして帰ってしまい、その後、彼とのつき合いまで絶ってしまった。
トラヴィスは、理由ははっきりしない(いかようにも深読みはできる)ものの、パランタイン上院議員の暗殺を企てて、象でも撃ち殺すマグナム44を含む拳銃を4丁を非合法に購入し、暗殺に向けて身体を鍛え、射撃の訓練などを始める。
普通に考えれば、ベッツイーに振られた腹いせの八つ当たりでしかないのだが、それとは別に、ある時たまたま、パランタイン議員を自分のタクシーに乗せた際に交わした、政治をめぐるやりとりのすれ違いが遠因だと、そう考えられないこともない。
その会話自体は和やかなものだったのだが、ただ、パランタインの方は政治家らしく、末端労働者であるトラヴィスから、彼らの生活改善を望む声といったものを聞きたかったようなのだが、トラヴィスが求めたのは「この街に住むクソどもを一掃してもらいたい」というような、きわめて主観的かつ極端なことだった。
当然、パランタインは困惑は覚えたものの、「まあ、この程度だろう」とでも納得したのか、にこやかにトラヴィスと握手を交わして去っていった。
その後、パランタインの演説に注目していたトラヴィスだが、パランタインの目指すところは、彼の求めたようなものではないということに、結局は気づかされたようである。
一一だが、だからといって、パランタインを暗殺しようと考えるだろうか、という話だ。
要は、トラヴィスは、無教養で、多少、知的にも障害があるように思えるほど、思いつきの短絡発想しかできない人間なのである。
決して、悪人ではないのだが、物事を多面的に見て検討するなどというようなことのまったくできない人間であり、これは「ベトナム帰還兵」だからというようなことではなく、個人的な資質が大きいと見るべきだろう(彼は、ランボーのように、理不尽な虐待を受けたというわけではない)。
無論、彼のこの極端な行動に「戦争体験」の影響が皆無だとは言わない。だが、それがすべてではない。彼にはもともと、物事を「客観的に見ようとする習慣」「深く考える習慣」などはなく、悪い意味で庶民的に「単純で短絡的」な発想しかできない男なのである。
ある夜、若い女が飲み屋らしき店から逃げ出そうとして彼の車に乗り込むものの、男に引き戻されるというトラブルを、目の当たりにする。
その後、まだ子供と言っていいような、その若い女を街で見かけて声をかけると、「私と遊びたいのなら、彼を通して」と言われ、近くに立っていた男に声をかけると、男が客との交渉を担当する少女のヒモであり、少女が売春婦であることを知る。
「まだ、子供なのに」という正義感から、トラヴィスは、客として入った安ホテルの一室で、さっさと仕事を済ませようとする少女に対し、「こんなことは間違っている」とそれを拒んで「君を救いたいんだ」と説得した結果、オフで彼女アイリスと再び会うことができた。
しかし、彼女自身は、ヒモの男(スポーツ)には優しく扱われており、今の生活に満足していると言う。
そんな彼女に対して、トラヴィスは「君は間違っている。君のような年齢の女の子は、親元にいるべきだし、学校に通わなくてはならない」と大真面目に説得するのだが、じつは12歳だったと判明したアイリスから見ても、トラヴィスは「悪い人ではないが、説教くさくて、かなりズレた人」という印象だったようだ。
そうこうしているうちに、ついにトラヴィスはパランタイン議員への襲撃を敢行する。
衣服の下に4丁の拳銃とサバイバルナイフを隠した彼は、街頭演説の雑踏に紛れ、演説を終えて帰ろうとする議員を襲おうとするが、先にシークレットサービスに気づかれ、逆に、何もできないまま逃げ出してしまう。
その夜、トラヴィスは、いつものように街角に立っている、アイリスのヒモであるスポーツに声をかける。あいかわらず彼を舐めたような態度だったので、前回のように、おとなしく金を払ってアイリスに会うのではなく、いきなりスポーツを射殺してしまう。
トラヴィスはそのまま、アイリスが客をつれこむホテルへと踏み込んでいき、彼を呼び止めようとした、売春関係者の男(見張り役?)を撃ち倒し、その銃声で出てきた男(用心棒?)とも撃ち合いになって、自分も首元を撃たれて負傷するものの、最後はアイリスの部屋に入り、驚いて泣き叫ぶ彼女の目の前で、彼に銃を向けた男(元締め?)を撃ち殺す。
アイリスに売春をさせていた男たちを全員を撃ち倒し、トラヴィスが、ほっとしてソファーに身を沈めたところへ、通報で駆けつけた警官2名が、拳銃をかまえて開け放たれた部屋の戸口に立ったが、すでにトラヴィスはすべての武器を使い果たしており、警官の抵抗することも自殺することもできず、手で拳銃のかたちを作って、笑みを浮かべながら自分のこめかみを撃つ真似をすると、そのまま仰け反って気を失ってしまう。
一一ここで普通なら、トラヴィスは、銃撃戦で受けた傷が意外に深く、死んでしまったのだろうなと、そう思うところだろうし、私もそう思った。これ以上、描くべき物語など、思い浮かばないからである。
ところが、あらすじにもあるとおり、このあと、次のような描写がなされる。
彼の部屋の壁に、アイリスの両親からの「感謝の手紙」が貼られており、それは「アイリスは家に戻って、学校にも行き始めている」という報告と、「ニューヨークまで直接お礼に行けないことを謝罪する」という内容のものであった。
そして、その手紙の横には、新聞の切り抜きが貼られていて、それは「命がけで、売春グループから12歳の少女を救い出した英雄」として、トラヴィスを賛嘆するものだった。
さらにそれに続いて、彼がタクシーの同僚たちと、何事もなかったのように仲良く談笑している姿が映しだされる。
つまり、この一連のシーンが意味するには、トラヴィスの犯罪が「好意的に誤解されて、彼は英雄扱いされ、早期に社会復帰まで果たした」ということである。
また、このあと、以前にトラヴィスを振ったベッツィーが彼のタクシーに乗り込んできて、彼に謝罪するような素振りを見せるものの、目的地に到着後、タクシーを降りて料金を払おうとする彼女に、トラヴィスは余裕の笑みを浮かべて料金は受け取らず、そのまま去っていくという姿が描かれている。
つまり、彼は「世間からの誤解」によって「ヒーロー」になり、そのことで「社会的承認」を得て、彼自身、自分に自信を持てるようになり、苛立ちも消えた(たぶん不眠も治った)、ということが描かれるのである。
だが、問題は「現実には、そんなにうまくはいかないだろう」ということだ。
どんな理由があろうと、彼は4人を撃ち殺しているのである。
「いや、じつは全員が死んだわけではなかった」のだと仮定しても、かなり無茶苦茶な事件を起こして、幾人かの人命を奪ったことに違いはない。
たしかに、彼の動機は「アイリスを救うため」というふうに単純に理解され、世間の同情をひいたのかもしれないが、それにしてもやり方が乱暴すぎて、治安当局(司法機関)としては、とうてい看過できることではない。
こんなことが、動機だけで正当化できるのなら、正義のための殺人を、司法までが容認したことになってしまい、治安の維持など不可能となるからだ。
また、トラヴィスがその事件の直前に、パランタイン議員の暗殺未遂事件を起こしていたことだって、発覚しないわけがないし、武器も非合法に入手したものだと、すぐに調べはついていたはずだ。
したがって、「アイリス救出事件」の動機を好意的に勘案したとしても、やはりトラヴィスは長期刑(か、長期の強制入院)を免れないはずなのだが、しかし、職場復帰した彼の姿は、以前と少しも変わらず、まるで刑務所には行かず、病院から出て、そのまま社会復帰したかのような様子なのである。
つまり、こんなことは、絶対にあり得ない話なのだ。
だからこそ、トラヴィスが事件を起こして、アイリスの部屋で「気を失った後のあれこれ」は、すべて彼の「末期の夢」だとする解釈も出てくるわけなのだが、私があちこちの「解説サイト」をチェックしたところ、その大半は「(すべて)現実(である)」派のようであった。
トラヴィスは生き残り、しかも「世間の誤解によってヒーローになった」というのが「現実」だとする立場である。
しかし、これは前述した理由によって「あり得ない」ことだと、私は考える。
ではなぜ、多くの人は、まるで自明なことのように「現実」説を採るのかというと、じつは、のちにスコセッシ監督は本作の「続編」を構想し、そこでは当然「トラヴィスは生きていた」ことになっていたからだ。
結果として、のちに監督自身が与えてくれたこの「解釈」を、単純に「正解」だとする「権威主義バイアス」が働いたからこそ、本来なら、どちらとも取れる、しかし、現実的には「死亡説」の方がリアリティのあるラストなのに、「死亡説」ではなく、トラヴィスは生き残ったと解する「現実」説が主流になったのではないか。
言うまでもないことだが、「作品鑑賞」という行為においては、「作者の意図」は、さほど重要なものではない。
作者が、いかに「重厚深遠な意味」を作品に込めた「つもり」でも、それが表現できていなければ、その作品に「重厚深遠な意味」など存在しないというのと、これは同じ話なのだ。「作者の意図」だけで、作品が「傑作」になるのなら、誰も苦労はしないのである。
そして、言い換えるならばこれは、そこに「作者の意図」が無かったのだとしても、結果としての作品に「読み取れる(解釈できる)深い意味」が見出せたのだとしたら、その作品は「作者の意図」を超えて、傑作だと呼びうるのであり、そうした読解は、決して「誤読としての深読み」ということにはならない、ということだ。その作品には、それだけの「奥深い意味がある」と、そう解するべきなのである。
だから、名作『タクシードライバー』の、多様な解釈を許すラストについても、そこに「その当時」スコセッシ監督が、どのような意味を込めたかというのは、まったく重要なことではない。
重要なのは「監督の意図」ではなく、結果として本作が「深い読みを可能にする傑作」になった、という事実なのである。
したがって、「スコセッシ監督が続編を企画し、そこでは、前作のラストは、トラヴィスは生きていたというようなことらしいから、正解はそれなのだ」と考えるような鑑賞者は、自分の目で作品を観て、自分の頭で作品を鑑賞することのできない、言うなれば「カンニング野郎」だということにしかならない。
カンニングして得た「公式回答」が「正解」であると信じて、それをさも「自分の解答」であるかのように思い込み、それを提出するような、鑑賞無能力者だということである。
多くの人たちは、この映画のラストが、現実にせよ夢にせよ「世間の誤解によって、トラヴィスは救われた」という状況が描かれていると、そう理解した。
そして、その「世間の誤解」を「愚かなもの」だと思っているのだが、しかし、私に言わせれば、「監督の意向」が「正解」だと思いこめるような鑑賞者とは、このラストに描かれた「誤解した、愚かな世間の人々」と、何ら選ぶところのない存在にしか見えない。
トラヴィスの「凶行」を「正義の行動」だと誤解した人たちの頭にあったのは「薄っぺらな完全懲悪の物語」だったのだけれど、本作『タクシードライバー』のラストを「監督の意向」に従って「現実」だと解釈したような、単細胞な「権威主義者」たちもまた、同程度に「頭が悪い」ということにしかならないのである。
たしかに本作『タクシードライバー』は、考えるべきところのある「ユニークな作品」だとは思うけれども、本作を、単純に「名作」として祭り上げている人の多くが、この程度だという現実を知るならば、本作をことさらに「名作」として鑑賞するのは、多くの場合、単なる「偏見」に過ぎない、とも疑えるのではないだろうか。
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なお、例によって、似たり寄ったりの解釈が多い中で、『タクシードライバー』論として出色だったのは、以前、『ファイトクラブ』(デイヴィッド・フィンチャー監督)のレビューでも紹介した、サイト「レビュー・アン・ローズ」の「ヒラヒ」氏のよるそれであったので、ここでもそれを紹介しておこう。
この論の素晴らしさは「世評に流されず」に、自分の目と見識で、従来の「解釈」を一新している点である。
「ヒラヒ」氏のこの論について「今の視点による、深読みのし過ぎではないか」という人もいるだろう。だが、そうではない。
たしかに「作品理解」にあたっては「作品の作られた時代背景」を考慮する必要はあるだろう。しかし、作品というものは、何もその「時代に縛られる」ものではない。
よく言われるように「いま観ると、なんと予言的な作品だったのか」といった「読み」は、決して「誤った深読み」ではなく、作品に込められた「時代を超えるポテンシャル」を、時を経て引き出し得た、当たり前の「鑑賞結果」なのだ。
そうした意味でも、「名監督の意図」ばかり忖度して、自分で目で見て、自分の頭で映画を鑑賞すことのできないような者は、自身の不明をこそ恥じるべきなのである。
(2023年5月5日)
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