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23歳のアメリカ人は、もうお酒を飲まないと言った

それは小さな世界がつながった瞬間だった。

私はニューヨークにある大学に在学中、春休みにカリフォルニアへ行った。
高校時代の友達が交換留学でカリフォルニアの大学で学んでいて、せっかくだからアメリカで会おう、ということになった。

カリフォルニア滞在中は、彼女のアパートにお世話になった。
日本の出汁と日本のうどん、たまごやきなど「和」の食卓を用意してくれたことに感動した。


そんな優しくて気遣いのできる素敵な彼女が所属していた、大学の日本文化クラブにお邪魔した。

日本人留学生と、現地の日本文化が好きな学生との交流を企画・運営するクラブ。
私が滞在中には、みんなでおにぎりを作って食べる会を開催していた。

実は白米が好きではないのだが、みんなでわちゃわちゃと盛り上がりながら作って食べるおにぎりはふっくらと柔らかく、そしてあったかくて幸せの味がした。


そんなカリフォルニアでの思い出から3年。

「彼、知ってる?」

そんなメッセージをもらったのは突然だった。
私がインターンとして働く会社の同僚が、一人の男性の名前を出した。
聞くとその男性と私の間に共通の知人がたくさんいるうえ、彼も私のSNSでの写真に見覚えがあるのだという。


私には心当たりがあった。そうだ、カリフォルニアで出会った人だ。
クラブでおにぎりを作るときにいた気がする。


聞くとインターン先の同僚が前職(日本)で一緒に働いていたのが、その彼だという。

なんて狭い世界!そう驚き叫ばずにはいられなかった。


そして先日、カリフォルニアで出会った男性、同僚、私の3人でオンラインで顔を合わせる機会があった。


「アメリカにいたとき、僕たち何を話したっけ?ほんとのところよく覚えてないんだよね」

なんて言い合い、お互い明確な思い出がないまま当時のことについて盛り上がる、という奇跡のような会話はあっという間に1時間が経っていた。


オンラインでの会話中に、彼が発した言葉で印象的だったことがある。
「もうお酒は飲まないんだ」


今は日本で働いている彼。
聞くと、日本で居酒屋やバーに友人と行くとどうしても飲みすぎてしまい、電車を乗り過ごしたり忘れ物をしたりすることがしょっちゅうだという。


苦い思い出から何かを決断する、というのはそう珍しいことじゃない。
私が素敵だと、かっこいいと感じたのは「自分の意見をちゃんと持ち、発言していた」こと。


日本だと
・お酒はコミュニケーションに必要だから飲まないなんてありえない(という固定観念)
・お酒を飲まないなんていうと誘いづらくなる、または誘ってもらえなくなる
・どうせ三日坊主で終わるだろう(と思われるのではないか)


これらの社会的視線が気になり、いくら自分で飲まないと決めても周囲に宣言できる人は少ないように感じる。


しかしカリフォルニアで出会った彼は、「お酒に飲まれる自分は、自分がなりたい自分像じゃない、こんな自分は好きじゃない。僕は自分で飲む量を調節しようとしていつも失敗している。だから始めから飲まないことに決めたんだ。」

と言った。

ああ、なんてかっこいいんだろう

私は意見を聞かれると、自分で考えつつも他人からの視線やどうすれば好かれるかを無意識に考えてしまうくせがある。

こんなことを言って、がっかりされないか、つまらないやつだと思われないか、ばかにされないか...

客観的に物事を考えることができる、といえば聞こえがいいが、それは自信のなさや自己評価の低さの裏返しでもある。

また、一緒に会話に参加していたインターン先の同僚は

「え~、もうこれから一生お酒飲まないの?そんなの悲しいよ、僕の知ってる君はどこに行っちゃうの…」

と残念そうにしていた。

しかしカリフォルニアの彼は

「お酒を飲まなくたって僕は僕だよ。居酒屋に行っても僕は水を飲みながらみんなと楽しめるしね」

とあっけらかんとしていた。

「もうお酒を一緒に飲めないから悲しい、残念だ」
ではなく、彼の決断と意志を尊重し
「勇気ある決心だね、居酒屋に行っておいしいごはんを楽しむのもいいよね。」

など前向きなことばが咄嗟に出なかったことが悔しい。


お酒を飲む・飲まない

賛成・反対の反応をする前に、アイデアに対して「受け入れる」のワンクッションを入れることで、もっと会話がポジティブになるはずだ。


3年越し、国境を超えての再開と、彼の「らしさ」が素敵だと思えた土曜日の夜だった。


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