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【今日のnote】良い文章というものは、予定調和からは生まれない。大いなる邂逅から生まれる。


 どうも、狭井悠です。

 毎日更新のコラム、99日目。


 ここ最近、自分でも強い自覚があるほど、良いか悪いかは別にして、書くことに対しての鬼気迫る「熱量」が、溢れてきていることを感じています。

 たとえば、昨日書いた以下のコラムは、職業人としての「怒り」にまかせて綴った赤裸々な吐露の文章なのですが、ある種の文学表現に近いものが含まれている、ひとつの作品として仕上がったように思いました。割と、読み物として面白いかもしれません。

 また、note公式の「ファッション系の記事まとめ」に昨日取り上げていただいた、Yohji Yamamoto 2018ssの魅力を書いた以下のコラムについても同様で、「好き」という感情にまかせて一気に書き通すことで、たとえ1万字を超える長大な文章でも、推薦してもらえるだけのエネルギーを放つができるんだなあと、改めて、気づきがありました。

 そして、僕がフリーランスライターとして活動する原点となった出来事をまとめた、Yahoo!ニュースに取り上げていただいた以下の文章もまた、肉親を交通事故で失った激しい「悲しみ」と、これ以上、同じ悲しみを抱く人が生まれないようにしたいという強い「使命感」によって、突き動かされるように書いたものでした。



 これらの文章の誕生に共通するのは、「怒り」や「好き」や「悲しみ」や「使命感」という、強い想いです。これらの想いはトリガーとなって、僕の心を否応無しに揺さぶります。

 そして僕は、いてもたってもいられなくなる。じっとしていられなくなる。その果てに、猛烈に「書きたい」と思い、パソコンを開き、書かざるを得ない文章を、眠る事も、食事する事も忘れて、ガツガツと書く。

 そこには、もはや、「こんな風にかっこよく見られたい」とか、「こういう利益が出れば儲けものだ」とか、「これで有名になれるかもしれない」とか、そうした邪な煩悩が介入する隙間が、一切ありません。

 ただ、目の前の原稿に向き合い、純粋に書くだけです。

 そして、そのようにして生まれた文章には、「必然性」があります。

 書かざるを得ない想いによって書かれた文章は、読む人の心に何かを残すだけの力を宿す、必然性という名の品格を持ち合わせます。


 以下は、僕なりに見つけた、良い文章を書くためのルーティンです。

 感情の発起 → 衝動の発露 → 書く → 必然性のある文章の誕生

 今後、僕は良い文章を書き残すためにも、このルーティンを常に意識して、日々を生きていくことになるでしょう。


 ただし、これは決して、方程式のように使いまわせるものではなく、実は、再現性も一切ないんですよね。

 なぜならば、このルーティンを実現するためには、感情の発起というフェーズ以前に、激しく感情を揺さぶられるような感動的な出逢いや、衝撃的な出来事が必要であるからです。

 つまり、正確には、このルーティンは以下のようなフローとなります。

大いなる邂逅(感動的な出逢い・衝撃的な出来事) → 感情の発起 → 衝動の発露 → 書く → 必然性のある文章の誕生

 しかしながら、感動的な出逢いや衝撃的な出来事との「大いなる邂逅(かいこう、思いがけないめぐりあい)」は、僕がコントロールして、意図的に手に入れられるものではありません。

 天から雨が降るように、雷が落ちるように、流星が瞬くように、いつ、どこで、どうやって邂逅が起こるのかは、まったくわからないものです。

 つまり、良い文章というものは、予定調和からは生まれないということ。


 大いなる邂逅から、書かざるを得ない、必然性のある文章は生まれる。
 予定調和からは、書く理由のない、必然性のない文章しか生まれない。

 この2つの留意点は、良い文章を書く上で、常に意識しなければならない事として、肝に銘じておきたいと思います。


 そこで最近、僕が書いた文章の中で、予定調和的に書いてしまったことで、必然性を見失った事例も、反省のために、あえて取り上げておきましょう。

 それが、一週間ほどかけて取り組んできた「煩悩」の棚卸し企画です。

 小説の書き方を教わった恩師から、良い作品を書くために「煩悩を捨てろ」とアドバイスをいただき、「では、僕なりにnoteに煩悩の棚卸しをして、整理してみよう!」と思い立ったところまでは、必然性がありました。

 問題は、その後です。

 この企画を始めたのは、そもそも、自らの煩悩を書きほぐし、赤裸々に自分自身と向き合うことが目的でした。

 にもかかわらず、思いつきで、「そうだ、6つの煩悩を題材にした短編小説集を書いてみよう!」と、急に方向性を変えてしまったんですね。

 この時点で、必然性からの乖離が発生し、予定調和に走りはじめてしまいました。

 結果、以下の短編小説を書き終えたあと、「あれ? この文章って、どこに書かなければならない必然性があるんだっけ?」と、目的を完全に見失ってしまったんです。

 上記の短編小説を書いている最中、僕は、本来の目的である煩悩の棚卸しのことをすっかり忘れてしまい、いかに「お後がよろしいようで」というオチになるかばかりを考えていました。

 つまりこれは、完全なる予定調和から生まれた文章なんですね。

 そのため、たいへん恥ずかしいことですが、煩悩の棚卸し企画の短編小説執筆は、いったん白紙に戻すことにしました。企画の最初から追って読んでいただいていた皆さん、たいへん申し訳ございません。

 でも、書く必然性のない予定調和の文章を、皆さんの貴重な時間を割いていただいて、わざわざ読んでもらうわけにはいかないんです。

 そのようなことは、もはや、罪深いことだとさえ思っています。

 人生は一度きりで、時間は有限です。だからこそ皆さんには、少しでも、僕が胸を張ってお見せできる文章を読んでいただきたいのです。

 今後、煩悩の棚卸し企画については、方向性を見直して再挑戦する予定ですので、引き続き、よろしくお願いいたします。


 そんなこんなで、今後は「いかに必然性のある、良い文章を書く事ができるか」にこだわって、書かざるを得ない衝動に駆られるような邂逅を人生の中で得るべく、より能動的に動き回りながら、これからも、無心に書き続けていきたいと思っています。


 長くなりましたが、最後に。

 最近、僕のnoteを読んでくださる皆さんの息づかいのようなものを感じるようになりました。毎日更新を始めた頃には感じなかった、人の気配をすごく感じるんです。だから、ほんとうに、ありがたいなあ、と。

 僕は元来、興味や関心に一貫性がない、変化の激しい人間なので、思いつくままにバタバタと書き散らかします。そのため、きっと、つまらない物書きだと思われることや、読み苦しい文章を書く奴だと思われることも、多々あるかもしれません。

 もちろん、読者の皆さんが、僕の書いたものを読んで、本気で呆れ返るようなことがあった場合には、どうか僕のことを、単なる狂人として忘れ去り、捨て置いてください。


 ただ、これは根拠のない自信なのですが、noteの毎日更新を続けることで、僕は今、3ヶ月前の自分よりも、物書きとして、それなりの鍛錬を積み重ねることができているようにも思うのです。

 そう遠くない未来に、読者の皆さんに良いご報告ができるような渾身の文章を書き残すべく、今、必死になって、大いなる邂逅の到来に、自分の能力を間に合わせようとしている感覚があるんですよね。

 もちろん、これは僕の単なる予感でしかありません。でも、僕はこういう勘みたいなものを頼りに、これまでなんとか生き残ってきました。諦めずに書き続けていれば、何かを掴めるかもしれない。だから、これからも、ますます頑張ってみますね。

 そして、この場所で文章を書き始めなければ、出逢うことすら叶わなかったであろう方々も、今では大勢います。僕はこの流星のような出逢いを、ちゃんと価値ある、必然性のある出逢いにしたいと思っています。

 僕の書いたものと「出逢って良かった」「読んでいて良かった」と思ってもらえるように、しっかり頑張りたい。どうぞ、今後とも、よろしくお願いいたします。


 今日もこうして、無事に文章を書くことができて良かったです。

 明日もまた、この場所でお会いしましょう。

 それでは。ぽんぽんぽん。

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