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【映画評】ドライブ・マイ・カーが描くコミュニケーションの断絶

 京都の出町座で映画『ドライブ・マイ・カー』を見たのだけれど、余韻からなかなか抜けられないので、記憶が鮮明なうちに感想を記しておきたいと思う。

村上春樹の原作について

 原作の『女のいない男たち』に収録されている『ドライブ・マイ・カー』は1~2年前に読んで、「確か男の人が車を運転できなくなって、不本意ながら女性のドライバーを雇う」みたいな話だったな、というあいまいな記憶のまま足を運んだ。

 元々村上春樹氏の作品は好き嫌いが激しくて、それでも『1Q84』などの有名どころはちまちま読んでいたのだけれど、『色彩を持たない多崎つくるとその巡礼の年』の回収されない伏線と投げっぱなしの結末が消化不良で、それ以降あまり読んでこなかった。長編は、読むエネルギーがいる分、何かしらのカタルシスを得られないと失望感が大きい気がする。

 反面、彼の書く文章のリズムに惹かれて、エッセイや短編は割と好んで読んでいる。短編だとストーリーが気に入らなくてもそこまで気にならないからかもしれない。長編をそのまま映画化するのではなく、あくまで村上春樹氏のエッセンスを取り入れながら、短編を再構成していくやりかたは巧いなぁと感じた(少し上から目線な書き方になってしまうけれど...)。映画の雰囲気や根底にあるものはとても村上春樹的なんだけれど、話の筋はあまり村上春樹的でないというか、監督の脚本の妙によって、結末部分もわかりやすくなっているような気がした。

 ただ、この映画を言語化することは非常に難しい、というかほぼ不可能に違い。3時間にも及ぶあの濃密な映画体験を、文字に書いてその感想を記すことは、その豊かな響きを損なうことになりかねない。なので、その映画の魅力のそのほんの欠片でも、書き留められたなら良いなと感じる。なお、この記事はネタバレを多く含むので、未見の方は注意してください。

コミュニケーションの不完全さ

 この映画では、一貫してコミュニケーションのあり方、その不完全さやままならなさというものについて繰り返し問われていた。ひとつは身体言語によるコミュニケーションに対しての言語コミュニケーションの不完全さ、そして死によるコミュニケーションの断絶である。

 ひとつめの言語コミュニケーションの不完全さについては、『ワーニャ伯父さん』の劇中劇が他言語(手話も含む)でなされていることがわかりやすく象徴している。日本語、英語、広東語、ドイツ語、マレーシア語、インドネシア語、などなど...多言語、そして手話も用いた斬新な演劇での本読み(台本の読み合わせ)の場面は、ままならないコミュニケーションがそのまま顕になっていた。

 言葉というのは、ときに雄弁で、私たちはそれを上手く操りさえすれば、人の心をも理解できると錯覚してしまう。けれど、言語での営みには必ず限界がある。言うまでもなく、「言語を上手く操れる」ことと、「上手くコミュニケーションが取れることは全く意味合いが違う。日本語が上手く喋れるからといって日本人と上手くコミュニケーションとは限らない。その逆も然り。言葉はあくまで手段にすぎない。

 この映画で言語として書かれているのは、多国籍言語だけではない。手話やセックスも、肉体的なコミュニケーション、あるいは身体言語のひとつとして捉えられている。(この二つを並列するのもどうなのかと思われるかもしれないが、この映画ではどちらもフラットに言語として捉えられているように感じる)

 韓国人の夫婦と食事をする場面で、ユナ(手話話者の奥さん)が「通じないのが当たり前だから、あまり気を使いすぎないでほしい。言葉を喋る人よりも、ときにずっと多くのことを知ることができるんです」というようなことを語っていた。結末の劇の場面で、そのことを実感させられた。

登場人物がもつそれぞれの「言語」

 登場人物は、それぞれが各々の「言語」を用いてコミュニケーションをしている。
 高槻(岡田将生)は、言語よりもセックスや暴力によるコミュニケーションに依存している。高槻は車内で、人の心は覗けないのだから、自分の心を見つめるしかない、と言う。彼はその言葉を体現するかのように、まさに”自分に正直に”、生きている。

 高槻の車内の独白のシーンは、凄まじかった。言っている言葉、台詞を越えて、彼の鬼気迫った目が、彼が喋るという行為そのものが、痛烈に何かを訴えてくるのだ。それはもはや言語を越えていた。彼はまるで何かに憑依したかのようだった。
未成年や共演者に手を出し、感情のコントロールができず、果ては暴力沙汰で捕まってしまう。俳優としては最高でも社会人としては失格である。でもだからこそ、彼の独白は説得力を増すのだ。
観客は、あの夜、高槻がカメラに映されない場所で何をしていたのかを薄々感じていた。彼という存在の危機が、もうすぐそこまで迫っていることを知っている。そのひりつくような感覚を抱えながら、彼の言葉に、彼の訴える何かに飲み込まれていく。

 みさき(三浦透子)のコミュニケーション手段は、運転である。最初は若い女性ということで訝しまれていたみさきだが、そのなめらかな運転技術によって、家福の信頼を勝ち取る。しかし、後半で、その運転技術は、暴力を伴う母親からの一方的な”コミュニケーション”によって身につけたものだということが明らかになる。寡黙で、表情も乏しい彼女だが、それが(家福と同じように)過去の出来事やそれまでの経験によって形成されたものであることがわかる。

 みさきの母と高槻は暴力というコミュニケーションに依存していた。みさきの母は、土砂崩れに巻き込まれ、娘に見殺しにされた。高槻は、盗撮する男に腹を立て、殴り殺した挙句、傷害致死で逮捕される。ある意味、「因果応報」の結末とも言えるが、彼らの引き際は、残されたものに少なからず禍根を残す。

 そして物語の主人公である家福(西島秀俊)とその妻の音(霧島れいか)。二人のコミュニケーションは、セックスと、その事後に語られる物語という、その二つを媒介としている。冒頭は、家福と妻の音のセックスシーン(の事後、妻の物語の朗読のシーン)から始まる。
彼らの歪なコミュニケーションは、娘の死というある種の悲劇的な出来事に由来している。妻の音は夫がいるにもかかわらず他の男性と肉体関係を持ち、家福は妻を失うことを恐れ、浮気の理由を問いただせなかった。結局彼らは、浮気のことを話し合うこともできないまま、死によって永遠にコミュニケーションが叶わなくなった。圧倒的な断絶がそこには横たわっている。

 車内に流すカセットテープからは、妻が台本を朗読する声が延々と流されてくる。家福は何度も反芻するだろう。なぜ妻は浮気をしたのか。あの夜話があると言ったその内容はなんだったのか。自分のことを愛していたのか。遺されたものは、ずっと考え続ける。理由を求め、わずかな手がかりから、真実を探ろうとする。

この映画は、答えのないサスペンスなのかもしれない。”親切な”小説や映画では、罪を犯した犯人は、自分の罪を、そしてそれを犯した理由を説明する。そして私たちはそれを真実だと思い込むことで溜飲を下げる。

この映画の最初、私たち観客は家福と同様の謎を追い求めようとする。「音はなぜ浮気をしたのか」「なにを言おうとしていたのか」という問い、サスペンス的な展開に一緒に道連れにされていく。けれどその暗い森の中にどれだけ分入ってみても、答えが得られない。私たちは家福とともに動揺する。
けれど、「自分の罪を犯している」と独白する犯人も、本当のことを言っているとは限らないではないか。自分では本当のことを言っていると思っていたとしても、実はそうではないかもしれない。

私たちが普段話している言葉に、いったいどれだけ本当のことが含まれているのか?言葉には嘘が含まれている。というよりも、言葉はもう嘘でしかありえないのだ。
しかしそれは空を掴むようなもので、求めれば求めるほど、真実は遠ざかっていく。

私たちにできるのはただ自分の心を覗き込むこと

私たちは他者を理解することなどできない。コミュニケーションは、そうした欠乏の上に成り立っている。高槻が車内で語ったこと。家福が(そしてみさきが)気づいたこと。
その欠乏を埋めることができないなら、せめて私たちは、自分と孤独に向き合い続けるしかない。自分の感情を抑圧してやり過ごすのではなく、自分だけは、自分の声に耳をすまして真摯に向き合い続けるしかない。

物語の佳境、『ワーニャ伯父さん』の舞台の上映の場面で、家福演じるワーニャの後ろに覆いかぶさるようにして、ユナが手話で語りかける。

『でも、仕方がないわ、生きていかなければ!ね、生きていきましょうよ。長い、果てしないその日その日を、いつ明けるともしれない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。命が私達に下す試みを、辛抱強く、じっとこらえていきましょうね。今のうちも、やがて年をとってからも、片時も休まずに、人のために働きましょうね。そして、やがてその時が来たら素直に死んでいきましょうね。あの世へ行ったら、どんなに私達が苦しかったか、どんなに涙を流したか、どんなにつらい一生を送ってきたか、それを残らず申し上げましょうね。
すると神様は、まあ気の毒に、と思って下さる。そのときこそ、あなたにも私にも、明るい、素晴らしい、なんとも言えない生活が開けて、まあ嬉しい!と思わず声を上げるのよ。そして、現在の不仕合せな暮らしを懐かしく、微笑ましく振り返って私達、ほっと息をつけるんだわ。わたし、ほんとにそう思うの。ほっと息がつけるんだわ!』

p238『かもめ・ワーニャ伯父さん』
チェーホフ 神西 清 訳 新潮出版

戯曲の台詞は、それまでの家福や、みさきや、そしてユナ自身に重なる。言葉そのものよりも、彼女の表情や、しぐさ、手話から、彼女の言わんとしていることを察する。
こうやって言葉で書き起こすと、なんだか宗教的に、説教的にも受け取られかねない台詞が、映画の中では、そこに至るまでのストーリー、ユナの手話と体の動き、家福の表情と、みさきに感情を吐露した場面で彼が語ったこと、それまでの苦しみ、そのすべてが結実して、台詞に血が通う。車中の独白のシーンと同じかそれ以上に名場面だと思う。

 ここまで書いておいて、正直なところ、この映画はすごくいい映画だというのはわかったのだけれど、その真意を理解するところまで至らなかった。それは端的に私の人生経験が乏しいからだと思う。あと2、30年したら、あるいは、耐えられない喪失を経験したら(それは決して望ましいことではないのだけれど…)、はじめてこの映画はその真価を発揮するのだと思う。

映画の中のみさきは、私とそこまで変わらない23歳という年齢にして家福とその悲しみを共有しあっていたのだから、結局はそれまでの人生経験の差なのだと思う。(彼女は年齢の割に成熟し過ぎていて、それは、大人にならざるを得ない状況に適応してきた結果なのだと思うけれど...)

この先の人生で、何度も見返したくなるような、そんな稀有な映画だと思う。付け加えのようになってしまうが、劇中の映像表現も石橋英子さんの音楽も本当に素晴らしかった。観終わった後も何度も音楽を聴いて余韻に浸っている。なお、私の拙い感想の何倍も素晴らしい解説記事があるので、その記事を貼り付けて締めさせて頂きたい。

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