見出し画像

本能寺の変1582 【 重史 39 】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【 重史 039】 『信長公記』 

はじめに ←目次 ←【 重要史料 】 ← 
重要 ◎目次 
重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次 
テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次 
→【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 
その一因 目次大 目次中 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【 人物 】 
*加筆修正 

【 重史 039】 そ第78話⑤

①五月十五日、

 家康公、ばんばを御立ちなされ、安土に至りて御参着。

②御振舞の事、惟任日向守に仰せつけられ、

③十五日より十七日まで、三日の御事なり。

                       『信長公記』

【 重史 038】

 天正十年1582、五月十五日。
 家康、安土到着。
 信長は、歓待した。
 宿所は、大宝坊。
 接待役、明智光秀。
 この日から十七日までのことである。
 
  五月十五日、家康公、ばんばを御立ちなされ、安土に至りて御参着。
  御宿大宝坊然るべきの由、上意にて、
  御振舞の事、惟任日向守に仰せつけられ、
  京都・堺にて珍物を調へ、生便敷(おびただしき)結構にて、
  十五日より十七日まで、三日の御事なり。
                           (『信長公記』)

 【引用】そ第78話⑤



 ⇒ 次へつづく
 

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?