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温故知新(46)箸墓古墳 武当山 二里頭遺跡 邪馬嘉国 夏王朝 馬家窯文化 秦始皇帝 夏姫(夏太后) 三星堆遺跡 馬王堆漢墓 八大龍王 シヴァ神 ロータル遺跡 ミノア 燕国

 老子は道教を創立させた人物と評され、『老子道徳経』は道教の根本または源泉と関連づけられています。老子の履歴について司馬遷(紀元前145年 - 紀元前86年)が紀元前100年頃に著した『史記』によると、老子は、姓は「李」、名は「耳」、字は「聃」(または「伯陽」)で、楚の苦県、厲郷の曲仁里という場所の出身としています。しかし、『史記』は司馬遷の死後も加筆・修正が盛んに試みられ、一説には「仁(儒教の思想)を曲げる(反対する)」という意味を含ませ「曲仁」という場所の出身と唐代の道家が書き換えたもので、元々は楚の半属国であったの子孫の国とされる)の相というところが出身と書かれていたともいわれます。

 陳寿の著した『三国志』の「魏志」烏丸鮮卑東夷伝に邪馬台国についての記述があり、日本では、この部分を「魏志倭人伝」と通称していますが、陳寿は初め学識の高い譙周に師事し儒学と史学を修め、蜀漢に仕えています。邪馬台国の女王卑弥呼が国の統治に用いたとされる鬼道(きどう)は、後漢時代の初期道教と関係があるとする説や、単に儒教的価値観にそぐわない政治体制であることを意味するという解釈があるようです。藤原(中臣)鎌足は大化の改新以来、日本の外交責任者の地位にあり、当時外交使節として活躍していたのは、漢文や儒教・仏教の知識を持っていた僧侶と史(フミヒト:書記官)だったようです。

 「温故知新(おんこちしん)」は、『論語』為政にあり、過去の事実を研究し、そこから新しい知識や見解をひらくことで、「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」と訓読します(小学館 デジタル大辞泉)。『論語』は、孔子とその高弟の言行を、孔子の死後に弟子が記録した書物で、儒教の経典である経書の一つです。『先代旧事本紀』によると、十七条の憲法にある「篤く三法を敬え」の「三法」は、「儒・仏・神」となっているようですが、日本の神は道教神話が関係する場合も多いようです。『日本書紀』では「三法」は、仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)となっていることから、崇仏派の蘇我氏が関係していると思われ、吉川真司氏が指摘しているように、十七条の憲法は基本的には推古朝当時のものと思われます。仏教は、高句麗には朝鮮半島では最も早く、372年に前秦から伝えられたとされます。下記によると、仏教は、前漢の哀帝のときに月氏国から伝わったようです。月氏は、『漢書』西域伝によればに近い文化や言語を持つとされます。

前漢の哀帝のときに秦景(=景盧)が月氏国に赴いた。その王は 自分の息子である皇太子に命じて、仏教を口授させた。秦景は中国に還ったが、かれが齎した仏経は道経とほとんど同じであつた。

出典:月氏の伊存について 定方晟

 妙見(みょうけん)の起源は中央アジアの遊牧民の北極星信仰といわれ、道教に由来する古代中国の思想では、北極星(北辰)は天帝(天皇大帝)と見なされました。仏教と一体化して妙見菩薩とも呼ばれ、仏教の天部の一つとして日本に伝来し、妙見信仰になり、妙見社が明治期の神仏分離・廃仏毀釈運動の際に天之御中主神を祭神とする神社に変わっていったとされています(サムハラ神社と六甲比命神社のレイライン・龍神ゲート)。しかし、レイラインから縄文時代より北極星信仰はあったと推定され、「三つ葉」などがシュメール由来とすると、元々あった信仰に、道教や妙見信仰が結びついたと思われます。

 『老子』の一節に「三は万物を生ず」とあるので、「日向三代」「宗像三女神」「出羽三山」「大和三山」「東国三社」などと呼ばれるのは道教の影響と思われます。道教では、悪霊から身を守るためや、病気治療のため「禹歩」がおこなわれますが、茨城県稲敷市阿波にある大杉神社には、「禹歩斉場」があり(写真1)、悪疫を退散させる効果があるとされる「撫桃(なでもも)」があります。禹は治水の功績で舜から帝位を譲られ夏王朝を創始した人です。

写真1 大杉神社の禹歩斉場

『史記』では三皇五帝に次いで禹が建国したと伝え、殷に滅ぼされたとされている。その実在は疑われていたが、最近は考古学上の発見が相次ぎ、中国では実在した最初の王朝として公認されている。日本の学会では、青銅器文化の二里頭文化の時期に該当するが、甲骨文字が出土していないので国家の発生とは認めておらず、依然として殷を最古の王朝としている。

出典:夏王朝 世界史の窓

道教の聖地・武当山を取材。道教は中国古来の様々な宗教が混ざって作られ、桃は厄を払うとして神に捧げられている。中国の専門家に日本で出土した桃の種を見てもらうと、邪馬台国の時代の文化に道教の流れを含んでいると分析していた。

出典:NHKスペシャル “邪馬台国”を掘る

 秦の呂不韋(? - 紀元前235年)は、『呂氏春秋』で老耽という思想家に触れ、孔子に勝る無為の思想を持つ思想家で、その思想は王者の思想(至公)としています。空海の『三教指帰』では、道教を仏教・儒教と並べて「三教」と呼び、三者を比較しつつそれぞれの思想の要点を論じていますが、それぞれが価値を持つことを認めた上で、仏教を最上としています。

 ギョベクリ・テペとレイラインでつながっている箸墓古墳と漢代以来の中国道教の聖地・武当山(太和山 Wudang Mountain)を結ぶラインは、豊玉姫命を祀る玉比咩神社(岡山県玉野市)や弘法大師空海の創建と伝わる三瀧寺(広島市西区三滝山)の近くを通ります(図1)。

図1 箸墓古墳と武当山(Wudang Mountain)を結ぶラインと玉比咩神社、三瀧寺

 図1の箸墓古墳と玉比咩神社を結ぶライン、岡山県備前市の神根神社(こうねじんじゃ)を通る玉比咩神社と久久比神社を結ぶライン、久久比神社と箸墓古墳を結ぶラインで三角形を描くと、玉比咩神社と久久比神社を結ぶラインは、白兎神社の近くを通る箸墓古墳とチャタル・ヒュユクを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図2)。

図2 箸墓古墳、玉比咩神社、久久比神社を結ぶラインと神根神社、箸墓古墳とチャタル・ヒュユクを結ぶラインと白兎神社

 武当山は玄天上帝の聖地とされ、玄天上帝は日本にも妙見として入ってきています。ギョベクリ・テペマラケシュとつながっている武甲山(妙見山)と武当山を結ぶラインの近くには、三峯神社三ツ鳥居(埼玉県秩父市)、御嶽神社 里社(黒沢口)(長野県木曽郡木曽町)、岐阜県大和町三柱鳥居浦嶋神社(京都府与謝郡伊根町)、大乗寺(兵庫県美方郡香美町)、三穂津姫命を祀る美保神社(松江市)などがあります(図3)。三ツ鳥居や三柱鳥居は、道教と関係があると推定されます。武当山(太和山)は、豊玉姫命(卑弥呼と推定)と関係があり、「大和」とも関係があるかもしれません。

図3 武甲山と武当山を結ぶラインと三峯神社三ツ鳥居、御嶽神社 里社(黒沢口)、岐阜県大和町三柱鳥居、浦嶋神社、大乗寺、美保神社

 図3の武甲山と浦嶋神社を結ぶライン、浦嶋神社と大湯環状列石(万座環状列石)を結ぶライン、大湯環状列石(万座環状列石)と武甲山を結ぶラインで三角形を描くと、浦嶋神社と大湯環状列石(万座環状列石)を結ぶラインは、武甲山とオリンポス山を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図4)。武甲山とオリンポス山を結ぶラインは、善光寺や石川県珠洲市の南山遺跡(縄文)の近くを通ります。

図4 武甲山、浦嶋神社、大湯環状列石(万座環状列石)を結ぶラインと環状列石(長井市)、武甲山とオリンポス山を結ぶラインと善光寺、南山遺跡(縄文)

 岐阜県大和町三柱鳥居の近くには、九頭竜川上流にある九頭竜湖や、九頭龍神社(岐阜県下呂市)があります(図5)。ライン上にある冠山は揖斐川及び九頭竜川支流の足羽川の源流となる山で、ピラミッド説のある葦嶽山(広島県庄原市)とレイラインでつながっています。

図5 図3のラインと岐阜県大和町三柱鳥居、九頭龍神社、九頭竜湖、冠山

 環状列石(長井市)とレイラインでつながっている妙見本宮 千葉神社と武当山を結ぶラインの近くには長良天神神社(岐阜市長良)、金峰神社(弥仙山奥宮)(京都府綾部市)、市杵嶋姫命を祀る若桜弁天 江嶋神社(鳥取県八頭郡若桜町)、須佐之男命を祀る須佐神社(須佐大宮)(島根県出雲市)があります(図6)。須佐之男命や宗像三女神も武当山と関係があると推定されます。

図6 妙見本宮 千葉神社と武当山を結ぶラインと長良天神神社、金峰神社(弥仙山奥宮)、若桜弁天 江嶋神社、須佐神社(須佐大宮)

 図6の妙見本宮 千葉神社と須佐神社を結ぶライン、須佐神社と羽黒山、環状列石(長井市)を通る羽黒山と妙見本宮 千葉神社を結ぶラインで三角形を描くと、須佐神社と羽黒山を結ぶラインは、八海山を通る妙見本宮 千葉神社とマラケシュを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図7)。

図7 妙見本宮 千葉神社、須佐神社、羽黒山を結ぶラインと環状列石(長井市)、妙見本宮 千葉神社とマラケシュを結ぶラインと八海山

 龍神に所縁のある岡山市東区西大寺にある西大寺観音院(写真トップ)は、龍神と推定される豊玉姫命と関係があると推定されるので、西大寺観音院と武当山を結ぶラインを引くと、長崎県対馬市豊玉町にある明嶽神社の近くを通ります(図8)。また、このラインは明見宮と称した高木神社(広島県府中市木野山町)や藁蛇神事のある大元神社(島根県益田市匹見町)の近くを通ります(図8)。大元神社の藁蛇神事は、蛇では無く竜神信仰の一種とされます。

図8 西大寺観音院と武当山を結ぶラインと高木神社、大元神社、明嶽神社

 図8の西大寺観音院と高木神社を結ぶライン、高木神社と倭文神社を結ぶライン、倭文神社と西大寺観音院を結ぶラインで三角形を描くと、高木神社と倭文神社を結ぶラインは、西大寺観音院とギョベクリ・テペを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図9)。西大寺観音院とギョベクリ・テペを結ぶラインは、長浜神社(島根県出雲市)の近くを通ります(図9)。

図9 西大寺観音院、高木神社、倭文神社を結ぶライン、西大寺観音院とギョベクリ・テペを結ぶラインと長浜神社

 武当山と伊吹山を結ぶラインは、物部氏の祖である宇摩志麻遅命(孝元天皇 倭建命と推定)を祀る石見国一宮物部神社(島根県大田市)、八大龍王権現大野神社(鳥取県八頭郡若桜町)の近くを通ります(図10)。したがって、武当山は、伊福部氏(尾張氏)や物部氏とも関係があると推定されます。

図10 武当山と伊吹山を結ぶラインと物部神社、八大龍王権現大野神社

 図10の伊吹山と八大龍王権現大野神社を結ぶライン、八大龍王権現大野神社と藻岩山、藻岩山と伊吹山を結ぶラインで三角形を描くと、八大龍王権現大野神社と藻岩山を結ぶラインと、伊吹山とロドス島を結ぶラインはほぼ直角に交差し、藻岩山と伊吹山を結ぶラインは九頭竜湖を通ります(図11)。

図11  伊吹山、八大龍王権現大野神社、藻岩山を結ぶラインと九頭竜湖、伊吹山とロドス島を結ぶライン

 隠津島神社、氣比神宮、由加神社、熊山遺跡とアンコールワットを結ぶラインの近くにある香港九龍黄大仙区には、道教と仏教と儒教が習合した寺院の「黄大仙祠(こうだいせんし)」があります。沖縄県の縄文時代の遺跡であるシヌグ堂遺跡とアンコールワットを結ぶラインの近くに台湾の高雄市があり、高雄市三民区には道教の寺院「三鳳宮(さんほうきゅう、さんほうぐう)」があります。マラケシュと台湾を結ぶラインの近くに武当山があり(図12)、マラケシュと高雄市を結ぶライン上には、甘粛省の馬家窯文化遺跡があります(図13)。馬家窯文化遺跡からは、5,000年以上前に作られたと推定される青銅製の刀が発見されています1)。マラケシュは青銅器文明の発祥地かもしれません。

図12 マラケシュと台湾を結ぶラインと武当山(Wudang Mountain)
図13 マラケシュと高雄市(台湾)を結ぶラインと馬家窯文化遺跡、武当山(Wudang Mountain)

 武当山は、須佐之男命と関係があると推定されマラケシュともレイラインでつながっているスサ沖縄市を結ぶライン上にあります(図14)。龍の原型は、スサで生まれたグリフィンと推定されるので、龍はスサから武当山に伝わったのかもしれません。琉球王のY染色体ハプログループが、天皇家のものと同じD系統であることとも関係があるかもしれません。首里城正殿には、世界の架け橋を意味する「万国津梁(ばんこくしんりょう)」と刻まれた鐘がかかっていたようです。

図14 スサと沖縄市を結ぶラインと武当山(Wudang Mountain)

 スサと秦始皇帝陵を結ぶラインの近くに馬家窯文化遺跡があります(図15)。兵馬俑坑で多くの青銅製兵器が発掘されていますが1)、高度な冶金術は、馬家窯文化遺跡から伝わったと推定されます。

図15 スサと秦始皇帝陵(Mausoleum of the First Qin Emperor)を結ぶラインと馬家窯文化遺跡

 始皇帝の実父とする説もある呂不韋や、燕の昭王や秦始皇帝は、道教の理論的中核となる神仙信仰を興隆させました。武当山と聖ミカエルの山を結ぶラインの近くに秦始皇帝陵があります(図16)。秦始皇帝陵はスサや武当山とつながっていることから、もしかすると、始皇帝嬴政の祖母の夏姫(夏太后)が、武当山や二里頭遺跡(夏王朝)と関係があるのかもしれません。

図16 武当山(Wudang Mountain)と聖ミカエルの山を結ぶラインと秦始皇帝陵(Mausoleum of the First Qin Emperor)

 パレルモ、ロドス島、グヌン・パダンとつながっているインドのムンバイ瑜伽山(由加山)を結ぶラインの近くに三星堆遺跡(さんせいたいいせき)や武当山があります(図17)。三星堆遺跡は、長江上流域の四川省広漢市にある長江文明に属する古代中国の遺跡の一つで、新石器時代晩期(紀元前2800年)から殷末周初期(紀元前800年)まで2000年近く続いたとされます。

図17 ムンバイと瑜伽山(由加山)を結ぶラインと三星堆遺跡、武当山(Wudang Mountain)

 三星堆遺跡は、交易の中継地だったようで、出土した青銅器の表面は辰砂(水銀朱)で着色されていたようです(NHK 三星堆)。辰砂で描かれた壁画のあるチャタル・ヒュユク高雄市(台湾)を結ぶラインと沖縄市とジェッダを結ぶラインの交点付近に三星堆遺跡があります(図18)。

図18 チャタル・ヒュユクと高雄市(台湾)を結ぶライン、沖縄市とジェッダを結ぶラインと三星堆遺跡

 三星堆遺跡の二号祭祀杭から青銅製の扶桑樹が出土しています。「蓬莱山」と「扶桑樹」は、古代の神仙思想が育んできた幻想で、扶桑樹は、中国伝説で東方の果てにあるとされる巨木です。その巨木の生えている土地は扶桑国と呼ばれ、後世、扶桑・扶桑国は、中国における日本の異称となりました。沖縄本島の北谷(チャタン)沖の海底から見つかった階段状ピラミッドの年代測定の結果は、2500年前~1500年前で、中国の「梁書」や「準南子」に出てくる扶桑国の存在した年代と一致するともいわれています(日本古代史ミステリーコミュの沖縄海底ピラミッドとフェニキア人)。太陽を鳥が運ぶ姿が描かれた「太陽神鳥」も見つかっていることから、太陽信仰だったと考えられています。三星堆遺跡の「青銅縦目仮面」の目が強調されているのは、初代古蜀王の蚕叢がモデルであるためともされ、チャン族(羌族)との関係が推定されていますが、シュメールやエジプト(ホルスの目)との関連もありそうです。また、耳が強調されているのは、豊耳命(聖徳太子)などにつながるように思われます。中国の著名な歴史学者である顧頡剛(こけつこう)氏は、「夏王朝の人々はもともと中国古代の西部にいた羌族で、陜西から河南・山西に達した」としているようです(夏王朝を紐解く)。

 湖南省長沙市にある紀元前2世紀の馬王堆漢墓からは、前漢の第2代皇帝の恵帝の時に列侯に叙せられた初代軑侯利蒼の妻のミイラがみつかっています。内棺の蓋板には、T字型の一重の絹地で作られた帛画が掛けられていました。馬王堆漢墓とメンフィスを結ぶラインの近くに三星堆遺跡があります(図19)。ギョベクリ・テペからはT字型の石柱が見つかっているので、ギョベクリ・テペと馬王堆漢墓を結ぶラインを引くと、延長線上に台湾があります(図19)。馬王堆漢墓(前漢)は、メンフィスやギョベクリ・テペと関係があると思われます。三星堆遺跡がメンフィスとつながっていることは、三星堆遺跡の「青銅縦目仮面」の目が、ホルスの目と関連があると推定されることと整合します。

図19 馬王堆漢墓とメンフィスを結ぶラインと三星堆遺跡、ギョベクリ・テペと台湾を結ぶラインと馬王堆漢墓

 備前車塚古墳と同緯度にある二里頭遺跡と豊玉姫命(菊理媛尊)を祀っていると推定される白山神社(大分県臼杵市)を結ぶラインの近くには、佐賀県伊万里市二里町にある神之原八幡宮や、八龍神社(福岡県八女市)、くじゅう連山があります(図20、21)。

図20 二里頭遺跡と白山神社(大分県臼杵市)を結ぶライン
図21 図20のラインと神之原八幡宮、八龍神社、くじゅう連山

 豊玉姫命(卑弥呼と推定)が、武当山や二里頭遺跡(夏王朝)と関係があったとすると、卑弥呼の「鬼道」は下記のように神仙思想と関係があったと思われます。

卑弥呼は、人々から禍を取り除き、福を招き入れる能力や、人々を不老長生に導く力を持った「方士」ではなかったか、ということになります。方士とは道教が成立する以前の修行者で、祈祷、卜占、呪術、占星術、煉丹術、医術などの神仙方術の使い手です。私は、この神仙方術が卑弥呼の「鬼道」であったと考えます。

出典:前方後円墳の考察⑫「卑弥呼の鬼道が道教でなければ何?」 小嶋浩毅

 大分市横尾にある八大龍王 龍神の池水分神社境内)と二里頭遺跡を結ぶラインの近くには、白石神社(佐賀県みやき町)、大己貴命、少名彦命、素盞嗚命を祀っている白石大明神(佐賀市富士町)があり、二里頭遺跡と八大龍王神社を結ぶラインの近くには、白石神社(佐賀市諸富町)、白石神社(豊後大野市)があります(図22)。

図22 八大龍王 龍神の池(水分神社境内)と二里頭遺跡を結ぶラインと白石神社(佐賀県みやき町)、白石大明神(佐賀市富士町)、二里頭遺跡と八大龍王神社を結ぶラインと白石神社(佐賀市)、白石神社(豊後大野市)、白山神社(臼杵市)

龍は四種の「瑞獣」のひとつとされる。「陰陽五行思想」においては、五行の一つ「木」に龍が相当している。陰陽思想は、古代中国神話に登場する帝王「伏羲」が作り出したものであり、最初の記録は紀元前1000年前後。
五行説は,夏の創始者「禹」が発案したものであり、最初の記録は紀元前400年前後。

出典:龍が活躍する陰陽五行思想と四神相応

 二里頭遺跡(紀元前1800年から紀元前1500年頃)が夏王朝の都であるとすると、伊都国(糸島市付近と推定)の南にあったとされる「邪馬嘉国(やまかこく)」は、これらのラインの近くにあったと推定されるので、「邪馬嘉国」の「嘉(か)」は、「夏王朝」の「夏」と関係があるかもしれません。図12の八女市にある八龍神社は、山鹿市(やまがし)に近いので、ブログ(邪馬台国と邪馬国と八女 以久遠氏)にあるように「山鹿市」は「邪馬嘉国」と関係があるかもしれません。

 珍敷塚古墳や鳥船塚古墳は、古墳時代後期の装飾古墳ですが、八大龍王 龍神の池(水分神社境内)と二里頭遺跡を結ぶラインの近くにあり(図23)、珍敷塚古墳とオリンポス山を結ぶラインの近くの福岡県春日市に、奴国の中枢部だったと考えられている弥生時代中期~後期の大集落「須玖遺跡群(すぐいせきぐん)」があります(図24)。このことから、珍敷塚古墳は二里頭遺跡と関係があり、奴国も二里頭遺跡(夏王朝)と関係があったと推定されます。

図23 八大龍王 龍神の池(水分神社境内)と二里頭遺跡を結ぶラインと珍敷塚古墳
図24 珍敷塚古墳とオリンポス山を結ぶラインと須玖遺跡群

 図23のラインの近くには、鉄地に金銀線やトルコ石などの宝石を象嵌した金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の出土地とされる日田市のダンワラ遺跡があります(図25)。二里頭文化のトルコ石象嵌工芸(青銅象嵌複合技術)は、後期青銅時代に流行する複合金銀象嵌工芸の先駆けとされています(黄河流域におけるトルコ石製品の生産と流通 秦小麗)。日田市には、鯛生金山があるので、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は、この付近で作られたのではないかと思われます。

図25 八大龍王 龍神の池(水分神社境内)と二里頭遺跡を結ぶラインとダンワラ遺跡

 『新撰姓氏録』に「安曇連は綿津豊玉彦の子、穂高見命の後なり」と記されている安曇氏は道教を信仰していたようです。

福岡県福津市の宮地嶽神社に伝わる筑紫舞は傀儡(操り人形)の踊りで、海人族安曇氏の信仰していた道教に由来する。道教には女神が存在し、海人族安曇氏の信仰する水神の瀬織津姫に対応する。

出典:卑弥呼の鬼道は中国の道教だった 山本和幸

 ムンバイと日光東照宮(栃木県日光市)を結ぶラインの近くに二里頭遺跡があり(図26)、このラインは、瑞龍寺(富山県高岡市)、白馬岳戸隠神社 奥社(長野市戸隠)、男体山の近くを通ります(図27)。

図26 ムンバイと日光東照宮を結ぶラインと二里頭遺跡
図27 ムンバイと日光東照宮を結ぶラインと瑞龍寺、白馬岳、戸隠神社 奥社、男体山

 「ムンバイ」の歴史は古く紀元前までさかのぼり、16世紀にポルトガルにより「ボンベイ」と呼ばれる以前からある「ムンバイ」という名は、当時漁民の信仰をあつめていたシヴァ神妃パールヴァティーの異名、ムンバによるとの説があります。タミル語は、南インドのタミル人の言語で、ドラヴィダ語族の中で書かれた言語としては最も古く、起源は紀元前後までさかのぼるといわれますが、大野 晋氏はタミル語と日本語の関連性を指摘しています1)。タミル語は、紀元前2400年より前のシュメール語と同系であるという学説もあり2)、これが事実で、日本語がタミル語と同系とすると、日本語は紀元前2400年より前のシュメール語とも同系ということになります。

 タミル語の「シヴァップ」(śivappu)にシヴァ神の名前の由来を求める研究者もいて、「シヴァップ」は「赤」を意味し、これはシヴァ神が太陽(タミル語でシヴァン、śivan)と結び付けて考えられるとしています。アンコールワットで9世紀初頭に成立したクメール帝国(アンコール朝)はシヴァ派が主流だったようです。インダス谷(インダス文明)のモヘンジョダロの発掘で見つかった印章のひとつ(紀元前2500-2400年)には、シヴァの前身を思わせる人物が描かれているようです。シヴァ神は、不動明王の起源とされ、慈悲深い一方で恐ろしい性質も見せる点では、大日如来と不動明王の関係に似ています。若狭哲六氏によると、岡山県赤磐市にある熊山遺跡からの出土品の中に、竜文白銅鏡(写真2)や神仙像や踊るシヴァ神の像(写真3)があります3)。

写真2 竜文白銅鏡 出典:「女王国 邪馬台国の謎に迫る」吉備先史古代研究会3)
写真3 踊るシヴァ神 出典:「女王国 邪馬台国の謎に迫る」吉備先史古代研究会3)

 シヴァ神の持つ二面的な性質はギリシャの神、ディオニュソスに通じるものがあるとされていますが、破壊と再生を司る点ではオシリスにも似ているように思われます。そうすると、日本の七福神の1柱である大黒天はシヴァから発展した神格であると考えられていますが、大国主命がオシリスと関係があると推定されることや、大國魂神社(いわきの大黒様)と関係があると推定される品陀真若王(出雲建)が、ディオニュソスと関係があると推定されることも理解できます。

 ムンバイの北にあるカンベイ湾(カンバート湾)では、4,000年前のインダス文明の都市遺跡に似ていると報告された古代都市の遺跡が見つかっています。カンベイ湾の内奥にある港ロータルの造船所周囲の町は紀元前2,500年から紀元前1,900年にかけて造られ、アクロポリスには下水道システムも備わっていました(ロータル遺跡)4)。また、ロータル遺跡から出土した古代の遺物は、紀元前3,000年期から紀元前2,000年期のミノア文明の遺跡や沈没船で見つかったものと同じか非常に類似しているようです4)。

 幣立神宮とロータル博物館を結ぶライン上に武当山があり、ロータル博物館と出雲大社を結ぶライン上に二里頭遺跡があります(図28)。出雲大社は、日本各地に静まる八百万の神々が1年に1度集まる場所で、神々は人々の幸せを願い、あらゆる「縁」を結ぶ話し合いを行うといわれています。幣立神宮では、5年に一度「五色人祭」という祭りが開かれますが、社伝によると「太古の神々(人類の大先祖)は、大自然の生命と調和する聖地としてここに集い、天地・万物の和合をなす生命の源として、祈りの基を定められた」とされています。

図28 幣立神宮とロータル博物館を結ぶラインと武当山(Wudang Mountain)、ロータル博物館と出雲大社を結ぶラインと二里頭遺跡

 武当山とおのころ島神社を結ぶラインの近くには多久頭魂神社、宮島七浦の末社山白浜神社(広島県廿日市市)、倭迹迹日百襲姫命を祀る田村神社(香川県高松市)があり、おのころ島神社と二里頭遺跡を結ぶラインの近くには厳島神社(香川県丸亀市)、大元神社(島根県鹿足郡)があります(図29、30)。

図29 武当山(Wudang Mountain)とおのころ島神社を結ぶラインと多久頭魂神社、おのころ島神社と二里頭遺跡を結ぶラインと大元神社
図30 図29のラインと多久頭魂神社、山白浜神社、田村神社、厳島神社、大元神社

 ロータル博物館とおのころ島神社を結ぶラインは、武当山と二里頭遺跡の中間を通ります(図31)。

図31 ロータル博物館とおのころ島神社を結ぶラインと武当山(Wudang Mountain)、二里頭遺跡

 ロータル博物館とおのころ島神社を結ぶラインは由加神社(さぬき市)の近くを通り、図30のおのころ島神社と田村神社を結ぶライン、田村神社とサムハラ神社 奥の宮を結ぶライン、サムハラ神社 奥の宮とおのころ島神社を結ぶラインで三角形を描くと、田村神社とサムハラ神社 奥の宮を結ぶラインは、ロータル博物館とおのころ島神社を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図32)。これは、ロータル遺跡とおのころ島の関係を示していると推定されます。「おのころ」が、ギリシャ語の「オムファロス(へそ)」に転訛したと推定されることから、紀元前2,000年頃ミノア文明の中期に、ロータルからミノア人がフェニキア人の船で日本に渡来したと推定され、線文字Bの丸に十字(太陽十字)もその時に伝わったと推定されます。

図32 ロータル博物館とおのころ島神社を結ぶラインと由加神社、おのころ島神社、田村神社、サムハラ神社 奥の宮を結ぶライン

 秦始皇帝の祖母夏姫(夏太后)の陵墓は、2006年に発見された陝西省西安市長安区南郊にある神禾塬大墓(秦始皇祖母陵)と推定されています。二里頭遺跡とロータル博物館を結ぶラインは、神禾塬(Shenheyuan)を通ることから、二里頭遺跡が夏王朝で、夏姫(夏太后)は夏王朝と関係があると推定されます(図33)。

図33 二里頭遺跡とロータル博物館を結ぶラインと神禾塬(Shenheyuan)

 最も先進的で栄えていた二里頭文化は、最終的には殷の母体である下七垣文化に滅ぼされましたが、西から侵攻した殷により、山東省の住民が東に逃れた可能性が高いようです。縄文時代に夏王朝の王族が日本(九州)に渡来したのかもしれません。紀元前11世紀頃から紀元前222年、春秋戦国時代中期に現在の北京には「薊(けい)」という諸侯国と称されましたが、が滅ぼし薊へ遷都しました。北京と武当山を結ぶラインの近くに二里頭遺跡があります(図34)。燕は、二里頭遺跡(夏王朝)と関係があったと推定されます。

図34 北京と武当山(Wudang Mountain)を結ぶラインと二里頭遺跡

日本考古学界で議論が続く日本列島の弥生時代実年代問題でも、日本列島への鉄器流入期である弥生時代前期末から中期初頭の実年代が、燕国の遼寧地域への拡大時期に相当すると認識されている。

出典:春秋戦国時代の燕国と遼寧地域に関する考古学的研究(石川岳彦)

 ジェッダと約2,200年前に燕人が渡来したと推定される青谷上寺地遺跡を結ぶラインは、バーミヤンの遺跡、敦煌莫高窟の近くを通り、燕の本拠地だった天津を通ります(図35)。夏王朝と燕国の王族のルーツが同じとすると、縄文人と弥生人のレイラインが共通する理由が説明できます。『魏志倭人伝』は3世紀の投馬国の首長に「彌彌(ミミ)」および「彌彌那利(ミミナリ)」がいたことを記していますが、ミミ(耳、彌彌、美美)およびミ(彌、見、美、海、看)は古代日本の尊称とされ、皇室系譜の最も古い部分にミミおよびミの系譜が見られます(ミミ wikipedia)。

図35 ジェッダと青谷上寺地遺跡を結ぶラインとバーミヤンの遺跡、敦煌莫高窟、天津

 京都御所とジェッダを結ぶラインは、青谷上寺地遺跡の近くを通りますが、このラインは、眞名井神社(籠神社奥宮)(京都府宮津市)と津峯神社(徳島県阿南市)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図36)。投馬国が、丹生津姫命や瓊瓊杵尊の墓があると推定される天王山古墳群とつながる青谷上寺地遺跡とすると整合します。京都御所、津峯神社、眞名井神社を結ぶラインの近くには、伊射奈岐神社(大阪府吹田市)、おのころ島神社(兵庫県南あわじ市)、住吉神社(魚住住吉神社)(兵庫県明石市)、天橋立(京都府宮津市)があります(図36)。

図36 京都御所、津峯神社、眞名井神社を結ぶラインと伊射奈岐神社、おのころ島神社、住吉神社、天橋立、京都御所とジェッダを結ぶラインと青谷上寺地遺跡

 伝承では、老子は伏羲の時代から13度生まれ変わりを繰り返したといわれ、老子の子は「宗」と言い、宗の子は「注」、注の子は「宮」、宮の玄孫(老子の七世の孫)「假」は漢の孝文帝に仕えたとされ、假の子「解」は膠西王卬の太傅(たいふ)となって斉国に住んだといわれます。斉国では燕国と同じく青銅貨幣として刀銭が流通していました。老子の句に由来する「天網恢恢疎にして漏らさず」の「天網」は、もしかすると、地球上に張り巡らされたレイラインのことかもしれません。熊山遺跡は、明らかに道教の方位的観念の理を備えているとされ3)、約2,200年前の弥生時代に青谷上寺地遺跡に渡来したと推定される燕国の王族もY染色体ハプログループはD系統だったと思われます。

 歴代天皇の漢風諡号を定めたのは、大友皇子の王子葛野王の孫の淡海三船です。諡号を奉る行為は、王権継承と即位を正統化するという意味があり、一般的な立諡制度の起源は中国の周代中期(紀元前9世紀頃)といわれています。前漢以降中国の歴代王朝に踏襲され、前漢、後漢の2代目以後の皇帝は一貫して「孝○皇帝」の諡が贈られました( wikipedia)。第5代孝昭天皇から第8代孝元天皇まで「孝」が付けられていますが、孝昭天皇の后は『日本書紀』では尾張連の祖・瀛津世襲の妹である世襲足媛(よそたらしひめ)で、『古事記』では尾張連の祖・奥津余曾の妹である余曾多本毘売命です。

 安田喜憲氏は、日本で黄河文明を代表する龍が登場するのは、王権が誕生する弥生時代後期になってからで、初期の稲作をもたらした人々は龍信仰を持っておらず、太陽と鳥を崇拝する人々だったと推定しています5)。また、龍を描いた土器片が出土する遺跡が、瀬戸内海東部から近畿地方に集中していることから、龍の文化が王権の成立に重要な役割を果たしたと推定しています5)。

 二里頭遺跡(北緯34度41分)は、孝元天皇の陵墓と推定される備前車塚古墳(北緯34度42分)とほぼ同緯度にありますが、天照大神(倭国香媛)の墓と推定される楯築遺跡(北緯34度39分)ともほぼ同緯度にあります。武当山(北緯32度24分)は、天照皇大御神を祀る大御神社(宮崎県日向市)と同緯度にあり、大御神社と出雲大社を結ぶラインの近くには、網代島(大分県津久見市)や厳島神社(広島県廿日市市)があります(図37)。

図37 武当山(Wudang Mountain)と大御神社、大御神社と出雲大社を結ぶラインと網代島、厳島神社

 景行天皇の後裔と推定される空海が、密教の教えを受け継いだのが、唐の長安(西安市)の青龍寺の恵果です。青龍寺(北緯34度14分)は、高野山(北緯34度12分)や空海が生まれた善通寺市(北緯34度13分)とほぼ同緯度にあります(図38)。善通寺は、青龍寺を模して造られたといわれ、実際には佐伯一族の氏寺として創建されたのではないかと推定されています。

図38 青龍寺(西安市)と高野山を結ぶラインと二里頭遺跡、武当山(Wudang Mountain)、善通寺市

文献
1)志村史夫 2023 「古代世界の超技術」 改訂新版 講談社
2)大野 晋 1999 「日本語はどこからきたのか」 中公文庫
3)若狭哲六 1991 「女王国 邪馬台国の謎に迫る」 吉備先史古代研究会
4)ギャヴィン・メンジーズ、松本剛史(訳) 2024 「失われたアトラン
ティス」 扶桑社
5)安田喜憲 2001 「龍の文明・太陽の文明」 PHP新書