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温故知新(8)瓊瓊杵尊(天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊 天津日高日子穂穂手見命 久志多麻命) 丹生津姫命(丹生都比売命 市寸島比売命 織姫神 稚日女尊 瀬織津姫命 罔象売神) 日向 天王山古墳群 摩耶山

 丹後一宮元伊勢籠神社は、主祭神として彦火明命(ひこほあかりのみこと)が祀られています。社伝によると彦火明命は天孫瓊瓊杵尊(邇邇藝命)の兄弟神とされ、天祖から息津鏡・邊津鏡を賜り、海の奥宮である冠島に降臨し、丹後・丹波地方に養蚕や稲作を広め開拓したとされています。『先代旧事本紀』は、天火明命は穂積臣や物部連の祖の饒速日命の別名(天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊)であり、饒速日命と同一神と記しています。

 籠神社の絵馬(写真1)には、天照國照彦火明命(饒速日命)と市杵島姫命(市寸島比売命)が高天原から籠船に乗って、天橋立に降りてくる絵が描かれています。

写真1 籠神社の絵馬 出典:https://mintun.exblog.jp/18824633/

 絵馬にある月と日を囲んでいる六芒星籠目紋)は、三角が重なった形なので、月(国津神)と日(天津神)が結婚したことを表しているのかもしれません。六芒星は「シリウス」を表すという説が有力とされ、古代エジプトではシリウスは「イシスの星」として崇められていました。また、六芒星は、紀元前3000年頃のシュメールの遺跡のレリーフにも見られるようです。市杵島姫命は、天照大御神と須佐之男命が、天眞名井で行った誓約の際に、天照大御神が須佐之男命の剣を噛んで吹き出した霧から生まれた三女神の三女(宗像三女神)とされ、商売繁盛、芸能、金運、勝負、豊漁、交通安全、五穀豊穣、海の神として信仰されています。

 福岡県小郡市にある媛社神社(ひめこそ)、別名、七夕神社は、媛社(ひめこそ)神と織姫(おりひめ)神を祀った神社です。古来織物に携わってきた人々が織物の神として「棚機津女(たなはたつめ)」という機織りの女神を信仰していて、織姫・彦星の物語と結びついたと考えられています。七夕神社(媛社神社)は、孝霊天皇9年の創立と伝わる肥後一之宮阿蘇神社とオリンポス山を結ぶラインの近くにあります(図1)。

図1 阿蘇神社とオリンポス山を結ぶラインと七夕神社(媛社神社)

 市寸島比売命は、『古事記』の天の安の河の誓約の段に、「胸形の中津宮に坐す」とあり、須佐之男命の娘と推定されます。鹿島神宮の末社の熱田社(写真2)は、祭神が素盞鳴尊(須佐之男命)と稲田姫命(櫛名田比売)で、古くは七夕社(あるいは田畑社)といわれ、稲田姫命は七夕と関係があるようです。

写真2 鹿島神宮末社 熱田社

 七夕神社の媛社神は別名を饒速日命といわれることから、織姫(おりひめ)は市寸島比売命と推定されますが、稲田姫命も織姫だったと思われます。市寸島比売命は、須佐之男命と稲田姫命との娘と推定されます。メンフィスと七夕神社を結ぶラインは平原遺跡の近くを通り、吉野ケ里遺跡と対馬の宗像神社を結ぶラインも平原遺跡を通ります(図2)。

図2 メンフィスと七夕神社(媛社神社)を結ぶライン、吉野ケ里遺跡と宗像神社を結ぶラインと平原遺跡

 平原遺跡からは、銅鏡や玉類が多数発見され、銅鏡のなかには直径46.5センチメートルの内行花文鏡が5枚あり、この墓に葬られた人物は女王ではないかと考えられています。『魏志』倭人伝によると「女王国は北側に一大率を置いた」とされ、一大率は須佐之男命と推定されるので、平原遺跡には、宗像三女神の母親と推定される稲田姫命が葬られているのかもしれません。吉野ケ里遺跡から発見された石棺にある線刻は、織姫・彦星などの星座を表しているとも考えられているので、吉野ケ里遺跡が女王国で、女王の稲田姫命が住んでいて、石棺は平原遺跡に古墳を作る間、稲田姫命を葬った墓かもしれません。 

 『古事記』の須佐之男命の勝さびの段で、天の服織女(はたおりめ)が亡くなっており、さらに、次の天の岩屋戸の段では、須佐之男命は、高天原を追放されています。『日本書紀』神代記上七段の第一の一書に登場する稚日女尊(わかひるめのみこと)は、高天原の斎服殿(いみはたどの)で神衣を織っていた時亡くなり、それを知った天照大神(大日孁尊)は天岩戸に隠れてしまいます。織姫神は、稚日女尊と推定され、丹生都比売神社では、祭神で、水神・水銀鉱床の神である丹生都比賣大神(にうつひめのおおかみ)の別名が稚日女尊としています。『播磨国風土記』によれば、神功皇后の出兵の折、丹生都比売大神(稚日女命)の託宣により、衣服・武具・船を朱色に塗ったところ戦勝することが出来たため、これに感謝し応神天皇が社殿と広大な土地を神領として寄進されたとあります。

 神戸市中央区の生田神社では、稚日女神を祀っています。由緒には、神功皇后元年、三韓外征の帰途、今の神戸港にて船が進まなくなったために神占を行ったところ、稚日女尊が現れ、「私は活田長峡国に居りたい」と申されたので、海上五十狭茅という者を神主として祀られたとあります。

 丹生都比売大神は、不老長寿、農業・養蚕・織物の守り神なので市寸島比売命や織姫神(稚日女尊)と同一神格と考えられます。市寸島比売命は、弁財天と同一視されていますが、水神や祓神である瀬織津姫命(せおりつひめ)も弁財天と同一視されています。したがって、市寸島比売命は、瀬織津姫命で、また、瀬織津姫命は、水神である丹生都姫命とも同一人物だったと推定されます。兵庫県たつの市(旧揖保川町)の井関三神社(いせきさんじんじゃ)は、井関大明神として天照国照彦火明櫛玉饒速日命、八瀬大明神として瀬織津姫命を祀っています。丹生都比売神は和歌山県伊都郡の旧天野村の丹生都比売神社に鎮座していますが、伊都の地名は、丹生一族と共に邪馬台国の伊都からこの地に移って来たことによるともいわれています1)。伊都国の「一大率」が、丹生津姫命(市寸島比売命)の父親の須佐之男命(孝霊天皇)であれば、説明がつきます。

 「吉野」は紀伊半島の中部に位置し、吉野川流域からは、縄文時代から弥生時代にかけての土器や遺跡が発掘されています。北九州の「吉野ケ里」は、丹生津姫命(市寸島比売命)の里という意味かもしれません。『古事記』には、神武天皇が東征のおり、吉野で出会った女神に井氷鹿(いひか)が記され、光る井から出て来た上に、尾のある人(有尾人)であったとしています。「光る井」は水銀採掘坑、「尾」は龍神(水神)を表し、井氷鹿は丹生津姫命と推定されます。

 兵庫県南東部(針間国、明石国)には、六甲山系に連なる丹生山系(たんじょうさんけい)があり、丹生・帝釈山系とも呼ばれています。丹生山(たんじょうさん にぶやま)の山頂には坂本丹生神社(さかもとたんじょうじんじゃ)があり、主祭神は瓊瓊杵命で、配祀神は、丹生津姫命と月弓命です。瓊瓊杵命の后は、丹生津姫命(市寸島比売命)と推定され、瓊瓊杵命は、市寸島比売命を后とした饒速日命と同一人物だったと推定されます。

 『古事記』の天孫降臨の段には、「天の浮橋にうきじまり、そり立たして、竺紫の日向の高千穂のくじふる嶽に天降り」とあり、さらに「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞來通りて、朝日の直刺國、夕日の日照る國なり」とあります。丹波国は、律令制以前は但馬、丹後も含み、日本海側が韓国に向かい「此地は韓國に向ひ」の条件を満たすので、「天の浮橋」は「天橋立」のことと推定されます。

 筑紫国は九州ですが、筑波山が「紫峰」と呼ばれるように、「竺紫」は固有名詞ではないと考えられます。筑波山の名前の由来は、「波が寄せる場」すなわち「着く波」や波を防ぐ堤防の役割である「築坡」(つきば)などの説があります。また、「高千穂」は、高く秀でた山をさします。したがって、「竺紫の日向の高千穂」は、瀬戸内海沿岸の山で、山が紫色になることから、朝日や夕日が射し、天橋立の南にあるとすると、六甲山付近が候補になります。

 「日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究」(出典:籠神社が元伊勢の吉佐宮に選定された理由をレイラインから解明 中島 尚彦)にもあるように、天橋立に近い元伊勢籠神社(東経135度11分)と紀伊國一之宮日前神宮・國懸神宮(東経135度12分)は、南北のライン上にあり、兵庫県神戸市灘区の六甲山地の中央に位置する摩耶山(東経135度12分)も、ほぼ同じライン上に位置します(図3)。日前大神は、天照大御神とされることから、須佐之男命の妃の神大市比売(大日孁貴)と推定されます。

図3 日前神宮・國懸神宮と籠神社を結ぶラインと摩耶山

 兵庫県宍粟市にある播磨国一宮伊和神社(いわじんじゃ)は、大己貴神(大国主命)を祀っていますが、伊和神社は、摩耶山とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くにあります(図4)。摩耶山は、大国主命(孝元天皇)とも関係があると推定されます。摩耶山は、海岸に近く、古くは八つの国が見渡せるため八州嶺と呼ばれ、「高千穂」に相応しいと思われます。

図4 摩耶山とギョベクリ・テペを結ぶラインと伊和神社

 摩耶山の近くの神戸市灘区高羽町にある丹生神社(にぶじんじゃ)は、罔象売神(みづはのめのみこと)を主祭神とし、奈良県東吉野村の丹生川上神社の中社を本社とする神社です。丹生神社は、瓊瓊杵命と丹生津姫命を祀る坂本丹生神社と丹生川上神社中社を結ぶライン上にあります(図5)。このことから、罔象売神は丹生津姫命と推定されます。このラインの近くには、摩耶の石舞台、素戔鳴尊と奇稲田姫命を祀る大津神社(大阪府羽曳野市)、允恭天皇の陵墓と推定される岡ミサンザイ古墳(藤井寺市)があります(図5)。

図5 坂本丹生神社と丹生川上神社中社を結ぶラインと摩耶の石舞台、丹生神社(灘区高羽町)、大津神社、岡ミサンザイ古墳

 『魏志』倭人伝に、倭の地は「其の山には丹有り」と記されていることから、丹生山のある明石川流域も倭国(邪馬台国)だったと推定されます。丹生神社は、かつて、岡山県和気郡和気町日笠下や、邑久郡長船町福岡にもあり、辰砂(水銀)を産出していました。

 奈良県大和郡山市矢田町に矢田坐久志玉比古神社(やたにますくしたまひこじんじゃ)があり、久志玉比古神(櫛玉饒速日命)を祀っています。したがって、丹生氏紀氏の系図にみえる久志多麻命(くしたまのみこと)は、饒速日命(瓊瓊杵尊)であると考えられます。『古事記』の久士布流多気(くじふるたけ)は、『日本書紀』の場合は槵触之峯(くしふるのたけ)ですが、饒速日命(瓊瓊杵命)が、久志多麻命とすると、「くし」は「奇し」「櫛」、「たま」は「魂」を表し、「奇魂が降臨した山」を表す「くしふるだけ」と推定されます。天孫降臨で瓊瓊杵命を迎えた猿田毘古神を祀る神社は、神戸市、小野市、加古川市などにあります。小野市の名前は、小野ヶ原に由来しますが、「小野」は、和珥氏を祖とする小野氏に由来するのかもしれません。

 『日本書紀』神武即位前紀に、饒速日命の降臨について、塩土老爺(しほつつのをじ)の言葉として「東に美き地有り。青山四周れり。其の中に亦、天磐船に乗りて飛び降る者有り」と記されています。大阪府交野市にある磐船神社(いわふねじんじゃ)には饒速日命が祀られています。『先代旧事本紀』には、饒速日命が天の磐船に乗って河内国河上の哮ヶ峯(たけるがみね)に降臨したとの伝承があり、磐船神社は、交野に勢力を保っていた肩野物部氏という物部氏傍系一族が、巨大な石船岩を哮峯として祀ったのが創祀とされます。『先代旧事本紀』によると、のちに饒速日命は「大倭国鳥見の白庭山」に遷ったとされ、生駒市には白庭山にちなんで名づけられた白庭台という地名があります。磐船神社と白庭台は、摩耶山の東に位置しています(図6)。饒速日命の墳墓は、生駒市白庭台にある白庭山とされています。

図6 摩耶山と磐船神社(交野市)を結ぶラインと白庭台

 京都市山科区の神明山にある日向大神宮(ひむかいだいじんぐう)は、内宮に天照大神・多紀理毘賣命・市寸島比売命・多岐都比賣命、外宮に天津彦火瓊々杵尊・天之御中主神を祀っています。日向大神宮は、神武天皇陵の真北にあります(図7)。社伝によれば、第23代顕宗天皇の治世に、勅願により筑紫日向の高千穂の峯の神蹟より神霊を移して創建されたそうです。神戸市西区に、顕宗・仁賢両帝を祭神とする顕宗仁賢神社があります。

図7 日向大神宮と神武天皇陵を結ぶライン

 弥生時代の近畿地方最古段階の土器が確認されていることで知られる吉田南遺跡や 片山遺跡は 、明石川流域 に広がる沖積地の背後 にある段丘上に位置しています。伊和神社・海神社(かいじんじゃ)・粒坐天照神社(いいぼにますあまてらすじんじゃ)は「播磨三大社」と総称され、神戸市垂水区にある海神社は、綿津見大神須佐之男命と推定)を祀っていますが、古くは日向大明神と呼ばれたようです。

 日向三代は、日本神話において、地神五代のうち、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)・火折尊(ほおりのみこと 山幸彦)・鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の3柱の神々およびそれらの神々の時代を指します。『日本書紀』の景行天皇の段に、「時に東を望して、左右にかたりてのたまわく、「この国は直く日の出づる方に向けり」とのたまう。故、其の国を号(なづ)けて日向という。」とあります。ここから、宮崎県の日向は、天孫降臨の時には、まだ名付けられておらず、景行天皇が、馴染んでいる日向は、東向きではなかったと推定されます。

 豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)は、高天原と根之堅洲国の中間にあるとされる場所で、根之堅洲国は、山陰地方の伯耆国と考えられることから、日向は、高天原があったと推定される山陽地方の瀬戸内海沿岸にあったと推定されます。中国地方の名前は、豊葦原中国に由来するのかもしれません。

 岡山県の児島半島には日向山があり、玉野市の豊玉姫命を祀る玉比咩神社(たまひめじんじゃ)とオリンポス山を結ぶラインの近くに日向神社(倉敷市藤戸町天城)があります(図8)。いわゆる神武東征の出発地の日向は九州ではなく、山陽地方の日向で、瀬戸内海の入り口にある北九州を抑えてから東遷したのかもしれません。

図8 玉比咩神社とオリンポス山を結ぶラインと日向神社、由加神社、日向山

 『古事記』の鸕鷀草葺不合命の段に、「日子穂穂手見命の御墓は、高千穂の山の西にあり」と記されています。「ほのににぎ」は稲穂が賑々(にぎにぎ)しく成熟することの意なので、天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)は、火折尊(彦火火出見尊 山幸彦)ではなく、天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)と思われます。丹生廣良氏は、「丹生」は水銀朱の生産に関わる呼称である他、「丹穂」(にほ)すなわち「赤米」にまつわる呼称でもあると記しています1)。「」は「赤い美しい玉」を表すので「赤米」を表しているのかもしれません。「(にぎ)」には「栄える、繁盛する」という意味があり、一方、饒速日命の「」には「ゆたか」という意味があるので「豊穣」を表すと推定されます。

 「高千穂の山」が摩耶山とすると、神戸市西区にある天王山古墳群に瓊瓊杵命の墓があった可能性がありそうです(図9)。古墳群のうち4号墳は、明石川流域では最古級(3世紀前半頃の築造)で、割竹形木棺2基だったので、瓊瓊杵命と丹生津姫命の夫婦墓かもしれません。木棺内からは、青銅鏡(八禽鏡)、玉類、鉄製品などと、被葬者の歯が出土しています。

図9 摩耶山と天王山古墳群を結ぶライン(約19km西南西)

 『日本書紀』には、ニニギ(天津日高彦火瓊瓊杵尊)の陵は、可愛山陵(えのみささぎ)にあるとされています。「可愛」は、広島県廿日市にありますが、「河合」は、兵庫県小野市、大阪府松原市、奈良県北葛城郡などにあります(図10)、「可愛」は「川合(かわあい かはひ)」のことで、川と川とが合流する所の意味と推定されます。天王山古墳群は、明石川水系
の支流の伊川と櫨谷川の間にあります。「久士布流多気(クシフルタケ)」は、アイヌ語で「川などの向こうの岡」という意味で、「メソポタミア」という地名は、ギリシア語で「川と川の間の地方」の意味だそうです。

図10 天王山古墳群と「可愛」と「河合」の地名

 天王山古墳群は、瓊瓊杵命の后と推定される丹生津姫命を祀る丹生都比売神社とオリンポス山を結ぶライン上に位置しています(図11)。

図11 丹生都比売神社とオリンポス山を結ぶラインと天王山古墳群

 写真1の絵馬にも描かれている、若狭湾内にある沓島(くつじま)と冠島(かんむりじま)は、籠神社の奥宮ともされ同神社の神域となっていますが、沓島と冠島を結ぶラインの延長線上に天王山古墳群があります(図12)。これは、籠神社の祭神の天火明命(饒速日命)と市寸島比売命の墓の位置を示していると思われます。瓊瓊杵命と饒速日命の墓が共に天王山古墳群と推定されるので、瓊瓊杵命と饒速日命、丹生津姫命と市寸島比売命は同一人物だったと推定されることと整合します。

図12 沓島と天王山古墳群を結ぶラインと冠島

 天王山古墳群の南側にある北別府大歳神社の祭神は、豊宇気比売尊(とようけひめのみこと)で饒速日命(瓊瓊杵命)の母(豊受大神)と推定されます。天王山古墳群(北緯34度40分)は、吉備津神社春日大社と同緯度にあり(図13)、神奈備山の吉備の中山春日山(御蓋山)を結んでいると思われます。

図13 吉備津神社と春日大社とを結ぶラインと天王山古墳群

 また、神大市比売(大日孁尊)の墓と推定される楯築遺跡(北緯34度39分)ともほぼ同緯度にあり(図14)、天王山古墳群と楯築遺跡を結ぶライン上には、大国主命(孝元天皇)を祀っていると推定される瀬戸内市邑久町尾張にある百枝八幡宮があります(図14)。

図14 天王山古墳群と楯築遺跡を結ぶラインと百枝八幡宮

 立岩(京都府京丹後市丹後町)と天王山古墳群を結ぶラインの近くには出雲大社与謝分祠(京都府与謝郡与謝野町)、石見神社(兵庫県丹波市)があります(図15)。丹生神社(神戸市灘区高羽町)とオークニー諸島にあるスカラ・ブレイを結ぶラインの近くに石見神社、久久比神社(兵庫県豊岡市)があります(図15)。

図15 立岩と天王山古墳群を結ぶラインと出雲大社与謝分祠、石見神社、丹生神社(灘区高羽町)とスカラ・ブレイを結ぶラインと久久比神社、摩耶山、坂本丹生神社

 スカラ・ブレイと坂本丹生神社を結ぶラインの延長線は、天王山古墳群と摩耶山を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図16)。したがって、これらは、レイラインで関係付けられていると推定されます。

図16 スカラ・ブレイと坂本丹生神社を結ぶラインの延長線と、天王山古墳群と摩耶山を結ぶライン

文献
1)丹生廣良 1977 「丹生神社と丹生氏の研究」 きのくに古代史研究会