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温故知新(3)開花天皇(鸕鶿草葺不合尊 木俣神 舟木命 伊香色雄命) 八上比売命(多紀理毘売命 田心姫) 船木氏 穂積氏 天海僧正 

 系譜は存在するものの、事績が記されない第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇を欠史八代といいます。京都府木津川市の椿井大塚山古墳(つばいおおつかやまこふん)からは、卑弥呼の鏡とされる三角縁神獣鏡(備前車塚古墳黒塚古墳の出土鏡の同笵鏡を含む)が多数見つかり、また、卑弥呼の墓と推定される箸墓古墳の2分の1相似形墳で、台与の墓と推定される西殿塚古墳と同時期であることから1)、開化天皇の古墳と推定されます。また、箸墓古墳や椿井大塚山古墳の前方部の形とほぼ同型である備前車塚古墳(北緯34度42分)と椿井大塚山古墳(北緯34度45分)は、ほぼ同緯度にあり(図1)、関連があると推定されます。

図1 備前車塚古墳と椿井大塚山古墳を結ぶライン

 椿井大塚山古墳とアララト山を結ぶラインは、兵庫県丹波市青垣町にある 岩屋山を通り(図2)、岩屋山の近くには、正勝吾勝勝速日天忍穗耳命、天之菩比命、天津日子根命などを祀る八柱神社(西芦田)があります。青垣町の名前の由来には、島根県安来市あたりからの移住者が多かったので、その地に伝わる青垣山の説話から取ったという説もあるようです。

図2 椿井大塚山古墳とアララト山を結ぶラインと岩屋山

 『出雲風土記』意宇郡に、大穴持命の言葉として「我が造り坐して命(し)らす国は、皇御孫(すめみま)の命、平けく世所知(みよし)らせと依(よ)せ奉る。但、八雲立つ出雲の国は、我(あ)が静まり坐す国と、青垣山(あをかきやま)廻らし賜ひて、玉珍(たま)置き賜ひて守(も)りたまふ」があります2)。また、『古事記』の倭建命の歌に「倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(ごも)れる 倭しうるはし」があります。開化天皇は出雲と関係が深いと推定されます。

 丹波国の領域は、律令制以前は但馬、丹後も含み、現在の京都府の中部と北部、兵庫県の北部と中部の東辺に加え、大阪府の一部にも及んでいました。開化天皇が、大国主神の最初の妃である、因幡国の八上比売(やがみひめ やかみひめ)の子であれば、椿井大塚山古墳の場所の説明も付きます。八上比売は、因幡の白兎の神話に登場し、鳥取市河原町に八上姫を祀った売沼神社(めぬまじんじゃ)があります(図3)。売沼神社の近くにある都波只知上神社(つばしちがみじんじゃ)は、大己貴尊、三穗津姫命、素盞嗚尊、櫛名田比売命、八上比売命を祀っています。売沼神社と兵庫県赤穂郡上郡町大冨にある鍋倉 素盞嗚神社を結ぶラインは、都波只知上神社牛臥山(鳥取県八頭郡智頭町智頭)の近くを通ります(図3)。このことから、八上比売は、須佐之男命と関係があると推定されます。

図3 売沼神社と鍋倉 素盞嗚神社を結ぶラインと都波只知上神社、牛臥山

 島根県出雲市には、八上姫神社があります。八上比売は、大国主が須勢理毘売(すせりびめ)を正妻に迎えたため、これを恐れ、子を木の俣に刺し挟んで実家に帰ってしまいましたが、その子を名づけて木俣神(きまたのかみ、きのまたのかみ、このまたのかみ)、またの名を御井神(みいのかみ)といいます。対馬市上対馬町の瀛津島媛神(おきつしまひめのかみ)を祀る宗像神社の近くに八上比売命を祀る島御子神社(長崎県対馬市)があります(図4)。八上比売命は、須佐之男命と櫛名田比売命の娘で、須勢理毘売(多岐都比売命)の妹と推定され、宗像三女神の沖津宮(図4)に祀られる多紀理毘売命(田心姫)と推定されます。

図4 宗像神社、島御子神社、宗像大社 沖津宮

 出雲市にある御井神社(みいじんじゃ)は、八上比売命とその子である木俣神にまつわる伝承のある神社で、木俣神を祀っています。おのころ島神社とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くにあります(図5)。

図5 おのころ島神社とギョベクリ・テペを結ぶラインと御井神社(出雲市)

 『日本書紀』によれば、「鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)が誕生した産屋は全て鸕鶿(う)の羽を草(かや)としてふいたが、屋根の頂上部分をいまだふき合わせないうちに生まれ、草(かや)につつまれ波瀲(なぎさ)にすてられた。これにより、母親の豊玉姫(とよたまひめ)が「彦波瀲武鸕鶿草葺不合(ひこなぎさたけうかやふきあわせず)」と名付けた」といいます。したがって、大国主命の后の須勢理毘売が豊玉姫(卑弥呼)で、大国主命と八上比売命の子の木俣神が鸕鶿草葺不合尊(開花天皇)と推定されます。

 鸕鶿草葺不合尊の系譜をみると、両親は、彦火火出見尊山幸彦)と豊玉姫命卑弥呼と推定)で、后が玉依姫命(台与と推定)、子が神武天皇となっています(図6)。第10代崇神天皇は、神武天皇と同じ名前の、「はつくにしらすすめらみこと」と称えられていますが、『万葉集』に「志貴島の日本(やまと)の国は事靈の佑(さき)はふ國ぞ福(さき)くありとぞ」とあり、日本は言魂の力によって幸せがもたらされる国「言霊の幸ふ国」とされたことから、初代神武天皇と同じ名前が付けられたのではないかと思われます。垂仁天皇朝に見える狭穂彦王(沙本毘古王)の反乱伝承から、「崇神 - 垂仁」に対立する「彦坐王 - 狭穂彦」の皇統があったとする説もあります。国津神系と推定される崇神天皇に対して、天津神系の姥津媛(台与 玉依姫)と開花天皇(木俣神 鸕鶿草葺不合尊)との子を神日本磐余彦天皇(かんやまといわれびこのすめらみこと)とし、第2代綏靖天皇から第9代開花天皇までの事績を神代(かみよ)としたと考えると、欠史八代が生じた説明がつきます。

図6 神武天皇の系譜 出典:https://kyoto-stories.com/3_4_3_shimogamojinja/

 『古事記』に、「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命、その姨(おば)玉依毘売命を娶して」と記されていますが、姥津媛(玉依姫 台与)の「」は「うば」と読むので、「姨」は「(うば=乳母)」を暗示していると考えられ、鸕鶿草葺不合尊(木俣神 開花天皇)を、台与(姥津媛)が乳母として育て、その後、結婚して彦坐王を産んだと考えられます。

 京都市左京区鞍馬貴船町(きぶねちょう)の貴船神社(きふねじんじゃ)の祭神は「たかおかみのかみ」ですが、奥宮には玉依姫命も祀られていると伝わり、創建伝説には、「初代神武天皇の皇母・玉依姫命が浪花の津(現在の大阪湾)に御出現になり、黄船に召されて水源の地を求めて船を進められた。淀川から鴨川に至り、いよいよ貴船川をさかのぼり、ついに現在の奥宮の地にめでたく上陸された。そこに祠を営み、水神を祀って「黄船の宮」と崇められることになったのである」とあります。したがって、貴船神社は、台与(玉依姫)と関係がありそうです。台与の墓と推定される西殿塚古墳と貴船神社を結ぶラインの近くに開花天皇の陵墓と推定される椿井大塚山古墳があることからも、貴船神社は、開花天皇と台与に所縁のある神社と推定されます(図7)。

図7 西殿塚古墳と貴船神社を結ぶラインと椿井大塚山古墳

 貴船神社は、古来より「舟玉神」として船乗りから信仰され、貴船は木船とも書かれました。多氏で、元伊勢の地を巡りながら伊勢を目指す倭姫命の船旅を支えた伊勢船木直の船木氏がいますが、紀伊國造系図には、宇遅比古命(孝元天皇)の子に舟木命が記載されています。船木氏には、舟木命(開化天皇と推定)を祖とする一族もあると推定されます。北緯34度32分の「太陽の道」の最西端、淡路島の北淡町仁井に隣接する舟木地区の高台に、巨石を御神体として祀る舟木石上神社(いわがみじんじゃ)がありますが(図8)、船木氏の祭祀場が、石上神社であったと考えられています。

図8 舟木石上神社と「太陽の道」

 日光の東照宮薬師堂(本地堂)の内陣天井には、「鳴き竜」が描かれています。日光東照宮は、真南に江戸城があり、南面に立つ陽明門の真上に北極星が輝くように作られています。設計には、天海僧正が係わっていたと推定されますが、須藤光暉氏は、天海僧正は、船木兵部少輔景光の息子と結論づけているので、多氏の船木氏の後裔かもしれません。

 舟木石上神社とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くに彦波限武鵜葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)を祀る美作国二宮 髙野神社(写真1)があります(図9)。

図9 舟木石上神社とギョベクリ・テペを結ぶラインと美作國二宮 髙野神社
写真1 美作國二宮 髙野神社

 高野神社には、萬葉集を始め数々の歌集に詠まれた宇那提森(うなでがもり)のムクノキ(津山市指定天然記念物)があります(写真2)。

写真2 宇那提森のムクノキ

 高野神社の近くには、美作地方最大の前方後円墳を含む古墳群である美和山古墳群があります。サムハラ神社元宮と高野神社を結ぶラインの近くに鏡作神(かがみつくりのかみ)を祀る美作国一宮中山神社があります(図10)。

図10 サムハラ神社元宮と高野神社を結ぶラインとサムハラ神社奥の元、中山神社、美和山古墳群

 熊野本宮大社のある音無川の上流に、奥の院にあたるとも伝わる船玉神社が鎮座しています(図10)。船玉神社に並んで玉姫稲荷があり、船玉神とは夫婦神と言われています。船玉神社は、熊野速玉大社のある熊野川河口の近くの鵜殿(うどの)の船乗り衆の信仰する船の守り神であったとされています。熊野速玉大社とメンフィス(エジプト)を結ぶラインの近くに熊野本宮大社や船玉神社があります(図11)。

図11 熊野速玉大社とメンフィス(エジプト)を結ぶラインと熊野本宮大社、船玉神社、鵜殿

 奈良県天理市にある石上神宮の社伝によれば、「布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)は、物部氏の祖宇摩志麻治命により宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが当社の創建である。」とあります。熊野本宮大社とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くに岡山県赤磐市石上にある石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)があります(図12)。石上布都魂神社の祭神は、明治時代までは、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬ったときの剣である布都御魂と伝えられ、この剣は仁徳天皇の時代に大和国の石上神宮へ移されたとされています。

図12 熊野本宮大社とギョベクリ・テペを結ぶラインと石上布都魂神社、熊野速玉大社、石上神宮 

 伊香色雄命(いかがしこおのみこと)は、『古事記』では伊迦賀色許男命と表記され、崇神天皇7年に大物主神をまつる「神班物者」(かみのものあかつひと)に任じられたと伝えられています。宇摩志麻治命は、宇治比古で、菟道彦(うじひこ)すなわち、第8代孝元天皇で、伊香色雄命が、第9代開花天皇と推定されます。

 開花天皇(伊香色雄命と推定)の陵墓と推定される椿井大塚山古墳とジェッダを結ぶラインは、意賀美神社(大阪府枚方市)、伊邪那岐命を主祭神とする賀野神社 牛神宮(姫路市)、河井神社(津山市)、蒜山(ひるぜん)(鳥取県倉吉市)、三島神社(女島神社)(松江市)の近くを通ります(図13)。意賀美神社の創建年代は不詳ですが、延喜式内の古社で、貴船神社(京都市)の祭神である高龗神を祀り、開化天皇の時代には伊香色雄命の邸宅の敷地内に鎮座していたといわれます。意賀美神社の由緒には、彼の邸宅が現在の伊加賀北町のあたりにあったことが書かれているようですが、伊加賀北町は図13のラインの近くにあります(図14)。このラインは、椿井大塚山古墳の被葬者が、伊香色雄命(開花天皇)と推定されることと整合します。

図13 椿井大塚山古墳とジェッダを結ぶラインと意賀美神社、賀野神社 牛神宮、河井神社、蒜山、三島神社(女島神社)
図14 椿井大塚山古墳とジェッダを結ぶラインと意賀美神社、伊加賀北町

 三重県四日市市にある穂積神社は、物部氏族の正統とされる穂積氏の氏神で3)、饒速日尊、伊迦賀色許男命(伊香色雄命)、菅原道眞を祀っていますが、社家は船木氏だったようです。穂積氏は、熊野国造家や末羅国造家と同祖とされ、子孫の一部は「鈴木」を称し、烏紋(三本足の烏)は熊野権現の神使とされ、神官鈴木氏とその後裔が家の紋として用いたようです。

 三重県三重郡菰野町田口にある穂積神社(旧跡)は延喜式内社の由緒を誇り、饒速日命を祀り穂積氏の祖神として崇められていました。旧穂積神社とチャタル・ヒュユクを結ぶラインの近くには、船木三ッ石(ふなきみついし)とも呼ばれる沖の白石があります(図15)。また、旧穂積神社の近くにある福王山は、聖徳太子崇敬の霊場として知られています。

図15 穂積神社(旧跡)とチャタル・ヒュユクを結ぶラインと沖の白石、穂積神社

文献
1)白石太一郎 2018 「古墳の被葬者を推理する」 中央公論社
2)荻原千鶴(全訳注) 1999 「出雲国風土記」 講談社学術文庫 
3)原田常治 1984 「古代日本正史」 同志社