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温故知新(2)台与(壱与 姥津媛 意祁都比売命 玉依毘売命) 和珥氏 多氏

 『魏志』倭人伝によると、卑弥呼の死後、男王が継いだが、国中が服従せず内乱が続き、卑弥呼の宗女(一族の娘)で 13歳の台与(臺與)が擁立され、ようやく混乱が収まったと記されています。台与も、卑弥呼(豊玉姫命)と同様に巫女と考えられます。

 古代エジプトの神であるトトは、女神イシスに病を治す呪文など、数多くの呪文を伝えたとされています。卑弥呼がトトに例えられているとすると、台与はイシスに例えられている可能性があると考えられます。イシスは、エジプト神話における豊穣の女神でしたが、後の神話では玉座(王権)の守護神や、魔術の女神の性格を持つようになります。イシスの名前は「椅子」という意味を持ち、エジプトの壁画では、頭頂に玉座を載せた姿で表されています(写真1)。玉座・椅子はそれ自体が地母神を表すとされています。一方、台与(臺與)の「」は、蓮台(れんだい)や台座を意味することから関連性があると推定されます。

写真1 女神イシス(紀元前1360年頃の壁画) 
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

 奈良県天理市にある西殿塚古墳は、唐古・鍵遺跡の東にあり(図1)、3世紀後半に築造された古墳時代前期前半の古墳で、箸墓に続く王墓と考えられ、台与の墓である可能性が高いとされています1)。

図1 唐古・鍵遺跡、西殿塚古墳、箸墓古墳、桜井茶臼山古墳

 この古墳の特徴として、後円部の頂上部に石積みの方形壇がみられ、さらに前方部先端の頂上部にも同様な方形壇がみられますが1)、これらは、イシスの玉座を表していると考えると、西殿塚古墳は、イシスに例えられた台与の墓と思われます。卑弥呼(豊玉姫命)が晩年に唐古にいたとすると、台与も唐古にいたのかもしれません。

 女神イシスは、エジプト神話における冥界の神オシリスとの間に天空神・太陽神のホルスを成し、魔術を駆使し、乳母(うば)や老婆などに化けてホルスを助けています2)。第9代開化天皇の妃の一人に、和珥氏(わにうじ)の一族の姥津媛(ははつひめ)がいますが、姥津媛の「(うば)」の由来は、イシスが乳母や老婆と関係するためと考えると、姥津媛(意祁都比売命(おけつひめのみこと))が台与と推定されます。方形壇が二つあるのは、兄弟の彦国姥津命(ひこくにおけつのみこと)も祀られているためと思われます。御食津大神(みけつかみ)や大気津比売神(おおげつひめのかみ) も名前に「けつ」がありますが、木村鷹太郎氏は、「けつ」とはギリシャ語の「Gety ゲツ」で、凡て物の本元、源頭を意味する語としています3)。

 開化天皇と姥津媛の皇子は、彦坐王(日子坐王 ひこいますのおう)で、イシスの子であるホルス(天空神・太陽神)に相当します。西殿塚古墳(姥津命と姥津媛の墓と推定)に続くとされる桜井茶臼山古墳(外山茶臼山古墳)(図2)には、刀剣の他に、大型の鏡なども副葬され、被葬者は、政治・軍事とともに祭祀も担った男王と考えられており、彦坐王の墓と思われます。彦坐王の後裔には、息長帯比売命(神功皇后)がいます。

 古代エジプト人は、農業などナイル川に深く依存していたため、ワニが神格化されエジプト神話のセベクとなりました。「和珥(わに)」の由来が、創造神や太陽神ラーと関連づけられたセベク(ワニ)とすれば、和珥氏は、天津神系の豪族と推定されます。ワニをだまして島渡りする『古事記』の「因幡の白兎」(稲羽の素兎)の話は、おさな子ホルスをあらたな太陽として認めさせるために、ワニのたくさんいるナイルを渡って中の島へ渡った女神イシスの姦計の話に相当するという説もあります4)。西殿塚古墳とギョベクリ・テペを結ぶラインは、「因幡の白兎」の神話に登場する白兎神社の近くを通ります(図2)。

図2 西殿塚古墳とギョベクリ・テペを結ぶラインと白兎神社

 『古事記』には、出雲神話が多く記載され、因幡の白兎や、鵜茅草不合命の段で、和珥氏を鮫(わに)で暗示しているのは、『古事記』の作者の太安万侶が多氏の一族で、国津神系の豪族であるためと考えられます。多氏は、神武天皇の子の神八井耳命の後裔とされ、『古事記』によると、多朝臣、意富臣、小子部連、坂合部連など中央豪族で繁栄した系統、火君(火国造)、大分君(大分国造)、阿蘇君(阿蘇国造)、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、伊余國造など九州を中心に繁栄した系統、科野国造、道奧石城國造、常道仲國造、長狭国造、伊勢船木直、尾張丹波臣(丹羽県主)、嶋田臣など東国に繁栄した系統があり、国造や県主になっている例も多くあります。

 帝政ローマのギリシア人著述家で、晩年にギリシャのデルポイにあるアポロン神殿の神官を務めたプルタルコスによると、オシリスという名は、エジプト語でos-は「多い」、-iri-は「目」を意味するようです2)。多氏一族のまつる多坐弥志理都比古神社(おおにますみしりつひこじんじゃ)の名前の由来は、オシリスと関係があると推定されます。

 鳥取県淀江町の角田遺跡から出土した土器には、ゴンドラ型の船とそれに乗る頭に羽を付けた人物や、高い建物が描かれています(図3)。頭の羽飾りはオシリスの象徴で、プルタルコスによると、オシリスは大地から最も遠いところにあり、清浄にして汚されず、人間の魂が、清浄の世界に行くとその魂を支配するとのことです2)。大国主命を祀る出雲大社は、かつて高さが48メートルもあったと言われていますが、高く作られたのは、このためかもしれません。

 a鹿 c樹木?+銅鐸? d高床式建物 e やぐら状建物 b太陽 f 船と人物
図3 角田遺跡出土の弥生式土器に描かれた線刻絵画の復元図(佐原,春成1997)
出典:https://yamauo1945.sakura.ne.jp/yayoikaiga.html

 千葉県長生郡一宮町にある上総国一宮 玉前神社(たまさきじんじゃ)は玉依姫命を祀っていますが、北緯35度22分にあり、出雲大社(北緯35度24分)とほぼ同緯度にあり、これらを結ぶラインには伊吹山(北緯35度25分)や富士山(北緯35度21分)などがあることからレイラインとされています。女神イシスは、オシリスと結婚したとされ、玉依姫(姥津媛 台与)が結婚した鸕鶿草葺不合尊(開花天皇)は、大国主命と同じく、多氏(国津神系)と推定されます。そのため、和珥氏などの天津神系の豪族をまとめることが難しかったと思われます。

 木村鷹太郎によると、卑弥呼の後継者である台与(壱与(いよ))はエジプトの伝説上の女王イオ (Io) としていますが、イオは古代ギリシャの都市国家アルゴスの王女で、エジプトでは、女神イシスと同一視されたようです。アルゴス平野周辺はミケーネ文明が栄えた土地でした。イシスは、豊穣の女神から、後に玉座(王権)の守護神となっていることから、台与は元は「イヨ」と呼ばれていて、邪馬台国の女王となってから「トヨ」と呼ばれたのかもしれません。

 エジプト十字「アンク」(写真2)は「イシス女神の結び目」と呼ばれ「連結」という意味を持ち、イシスは橋渡しを行う神です。玉依姫には「神霊が依り憑く巫女」の意味があり、卑弥呼(豊玉姫命)や台与(姥津媛)は玉依姫で、菊理媛神(くくりひめのかみ)でもあると思われます。ツタンカーメンの厳密な表記は、トゥトアンクアメン(トゥト・アンクアメン)です。トゥト(twt)は、トト(ギリシャ語:Θωθ、エジプト語:ḏḥwty(ジェフティ))と関係があるとすると、トト神とアメン神を結び付ける意味があるのかもしれません。

写真2 エジプト十字「アンク」 出典:NPO法人ニューアクロポリスhttps://www.acropolis.jp/articles/16

文献
1)白石太一郎 2018 「古墳の被葬者を推理する」 中央公論新社
2)プルタルコス著 柳沼重剛訳 1996 「エジプト神イシスとオシリスの伝説について」 岩波文庫
3)木村鷹太郎 2001 復刻版 「星座とその神話」 八幡書店
4)門田眞知子 2008 「因幡の白兎神話の謎」 今井出版