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温故知新(13)高天原(須佐之男命 天照大神(神大市比売 大日孁貴 倭国香媛) 豊受大神(宇迦之御魂神 倉稲魂命 大気津比売神 保食神)) 吉備津神社 由加神社 楯築弥生墳丘墓 鯉喰神社弥生墳丘墓

 『古事記』の大国主神の根の国訪問のところで、須佐之男命が大穴牟遅神(大国主命)に「おれ大國主神となり、また、宇都志國玉神となりて、その我が女(むすめ)須世理毘賣を嫡妻(むかひめ)として、宇迦(うか)の山の山本に、底つ石根(いはね)に宮柱ふとしり、高天の原に氷椽(ひぎ)たかしりて居れ」と言ったことが記されています。このことから、「高天の原」には「宇迦の山」があったと推定されます。

 出雲大社の末社である釜社(かまのやしろ)に、食物を守る神の宇迦之魂神(うかのみたまのかみ)が祀られています。宇迦之御魂神(倉稲魂命)は、『古事記』では、須佐之男命が櫛名田比売の次に娶った神大市比売との間に生まれ、同母の兄に大年神(おおとしのかみ)がいます。宇迦之魂神は、『延喜式』(大殿祭祝詞)には、豊受大神の別名ともされています。

 加茂岩倉遺跡とギョベクリ・テペを結ぶラインは荒神谷遺跡の近くを通り、オリンポス山と加茂岩倉遺跡を結ぶラインは、奥宇賀神社の近くを通ります(図1)。「宇迦の山」は、出雲大社(杵築(きずき)大社)の北東部の、出雲郡宇賀郷(うかごう)の山とされ、出雲市の国富町北端・口宇賀町(くちうがちょう)南部・奥宇賀町南部・別所町東部付近にあるとされています。口宇賀町には、大己貴命・綾門姫命を祀る宇賀神社があります。

図1 加茂岩倉遺跡とギョベクリ・テペを結ぶラインと荒神谷遺跡、オリンポス山と加茂岩倉遺跡を結ぶラインと奥宇賀神社、口宇賀町、奥宇賀町、別所町

 新井白石は、『古史通』で「天」は「海」に通じるとしています。「」は、古代語では実際の高さを示す意が薄らいで、ほめことばとして用いられる場合もあるようです。「高天原」は、「海を臨むすばらしい平原」という意味かもしれません。豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)は、高天原と根之堅洲国の中間にあるとされる場所で、根之堅洲国は、山陰地方の伯耆国(鳥取県西部)と考えられ、「根」は「子(ね)」で北の方角を意味すると推定されることから、高天原は伯耆国の南にあり、山陽地方の吉備国(岡山県)の瀬戸内海沿岸にあったと推定されます(図2)。

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図2 鳥取県の紹介        
https://withdragon.rec.seta.ryukoku.ac.jp/tottori/about/

 岡山県の足守川流域(写真トップ)は、古代吉備の中心地で、岡山市北区吉備津に三備一宮吉備津神社(写真1)、北区一宮に吉備津彦神社があります。吉備の中山にある中山茶臼山古墳(なかやまちゃうすやまこふん)は、3世紀後半~4世紀)の前方後円墳で、大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)の墓に治定されています。大吉備津彦命は、孝霊天皇(須佐之男命)の皇子の彦五十狭芹彦命で、桃太郎のモデルの吉備津彦命(きびつひこのみこと)です。

写真1 三備一宮 吉備津神社

 吉備津彦神社には、「君が代」に歌われている「さざれ石」があります。「さざれ石」は、橿原神宮、籠神社、鹿島神宮、諏訪大社、鶴岡八幡宮観音寺(飯能市)、西大寺(岡山市)などにもあります。天太玉命を祀る阿波一宮大麻比古神社とオリンポス山を結ぶライン上の近くに、吉備津彦神社や吉備津神社、宇賀神社が位置しています(図3)。吉備の中山は、古くから神奈備山として崇められてきました。豊受大神や吉備津彦神社に祀られている神と、天太玉命(伊弉諾尊と推定)との関係を示していると推定されます。

図3 大麻比古神社とオリンポス山を結ぶラインと吉備津彦神社、宇賀神社

 出雲大社の本殿の高さは、社伝によると最古は32丈(約96m)あり、その後16丈(約48m)になったといわれ、『口遊』に登場する平安時代の出雲大社は、16丈の壮大な建物であったといわれています。2000~2001年に「金輪御造営差図」のとおりに、鎌倉時代の出雲大社の巨大柱「心御柱」「宇豆柱」が発掘され、出雲大社が高層神殿であった可能性が高まりました。古代メソポタミアでは、ジッグラトと呼ばれる日干しレンガを用いて建築された神殿がありました。高さは90メートルに達するものもあったようで、バベルの塔のモデルではないかともいわれています。頂上には神殿が備えられていたと考えられ、神がいる天上界に近づけるためできる限り高く作ろうとしたと考えられています。日本は雨が多いので、かつての出雲大社のような木造の高層建築としたのかもしれません。神社の朱塗りの柱などに用いられる水銀朱は、硫黄と水銀の化合した赤土(辰砂)で、防腐剤としての効果もあったと思われます。

 吉備津神社の本殿は出雲大社の約2倍以上の広さがあり、亀腹(白漆喰の檀)の高さは、中世神社建築の中で最も高いとされ、床を支える構造は、軒を支えるための肘木と巻斗からなる組手と同じ構造をしています(写真2)。また、本来なら縁の下で縁側を支えるはずの縁束が無く、代わりに、「挿肘木(さしひじき)」という耐震性にすぐれた組物が縁側を支えています。このことから、かつての本殿は、床下が見える高い位置にあったと思われます。拝殿の横には、一直線に伸びる長さが360メートルある回廊があります(図4)。これが階段だったとすると、吉備津神社の本殿は、かつての出雲大社のような高層神殿だったのかもしれません。

写真2 吉備津神社の本殿の亀腹と床を支える構造 出典:国宝建造物 吉備津神社本殿及び拝殿
図4 吉備津神社と宇賀神社

 吉備津神社の近くの神池にある島に、備中一の古社稲荷である宇賀神社があります(図4、写真3)。宇賀神社の祭神は、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)で、豊受大神と同神と考えられます。

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写真3 宇賀神社

 倉敷市児島にある由加山(瑜伽山(ゆがさん))の由加神社本宮(写真4)には磐座(写真5)があり、境内社の稲荷宮に倉稲魂命が祀られています。

写真4 由加神社本宮(右)と稲荷宮(左)
写真5 稲荷宮の磐座と菅原道真像

 和気郡和気町にある由加神社(ゆがじんじゃ)は、和気氏所縁の神社で、豊受媛神/豊宇気毘売神(とようけびめ)が祀られ、宇迦之御魂神/倉稲魂命と同義としています。「瑜伽山」の「瑜伽」は「結びつくこと」「結びつけること」の意で、菊理媛(くくりひめ)と関係があり、「宇迦」は「穀物・食物の意味」なので、保食神(うけもちのかみ)や大気津比売神と関係があると推定されます。倉敷市児島にある「瑜伽山(由加山)」は「宇迦の山」と推定されます。

 瑜伽山(由加山)とオリンポス山を結ぶラインは、出雲大社の本殿裏の八雲山を通り(図5)、八雲山の麓には素鵞社(そがのやしろ)があります。かつて出雲大社は祭神が須佐之男命になっていた時代があり、八雲山が神奈備で、須佐之男命の娘が豊受姫命(豊受大神)とされることから、由加神社本宮のある瑜伽山(由加山)と八雲山を関連付けていると思われます。

図5 瑜伽山(由加山)とオリンポス山を結ぶラインと八雲山

 岡山県南部は、津島遺跡の堆積した沖積層などの調査から、弥生時代中期から後期にかけて急速に沖積化が進んだと考えられています。宇都志國玉神は大国主命(孝元天皇)で、須世理毘賣は卑弥呼と推定され、倭国(やまとのくに)の宮は、岡山神社付近にあったと推定されるので、岡山県南部に広がっていた平原が高天原だったのかもしれません。

 総社市三輪の「三輪山」の近くにある百射山(ももいやま)神社に合祀されている三輪神社には大物主が祀られていますが、三輪山には、宮山型特殊器台で知られる宮山墳墓群があります。宮山墳墓群とオリンポス山を結ぶラインは、出雲大社の北東部にある宇賀郷の「宇迦の山」付近を通ります(図6)。宮山墳墓群には、弥生時代後期から古墳時代初頭の墳墓群で、前方後円形の墳丘墓もあります。和気町にある由加神社は、初め宮山にあり、由加大明神といって須佐之男命と豊受大神を祀っていたようです。豊受大神は、大物主(加具土命 月読命と推定)の后と推定され、宮山古墳群には、豊受大神(宇迦之御魂神)が葬られていると推定されます。

図6 宮山墳墓群とオリンポス山を結ぶラインと宇賀神社(口宇賀町)

 宮山墳墓群と岩船神社(松江市)を結ぶラインの近くの島根県安来市に、金山彦神(かなやまひこのかみ)、金山姫神(かなやまひめのかみ)ほか15柱を祀り、古来タタラ製鉄七守護神として知られる金屋子神社や、磐船神社があります(図7)。

図7 宮山墳墓群と岩船神社を結ぶラインと金屋子神社、磐船神社

 岡山県倉敷市西尾にある王墓山の南の端に建速須佐之男命を祀る真宮神社が鎮座しています。真宮神社の近くに、方形の弥生墳丘墓としては全国最大級の規模の鯉喰神社弥生墳丘墓があります。三世紀前半のもので卑弥呼の墓という説もありますが、みつかった特殊器台は、宮山型より古いとされる向木見型で、方形で出雲との関連があると考えられます。真宮神社とオリンポス山を結ぶラインは、鯉食神社と船通山の近くを通ります(図8)。風土記抄では「スサノヲノミコト、志羅伎国(しらぎのくに)より五十猛命(いそたけるのみこと)を師いて東せし埴舟此の山に止る。故に俗に船通山という」と述べています。

図8 真宮神社とオリンポス山を結ぶラインと鯉食神社、船通山

 古代ペルシャの首府「スサ(スーサ)」と鯉喰神社を結ぶライン(図9)は、須佐之男命の御子神・五十猛命を祀る大田市五十猛町の五十猛神社(いそたけじんじゃ)を通ります(図10)。したがって、鯉喰神社弥生墳丘墓は、須佐之男命(孝霊天皇)の陵墓と推定されます。高天原に須佐之男命の墓があるとすると、須佐之男命が高天原を追放されたというのは史実ではなさそうです。

図9 古代ペルシャの首府「スーサ(スサ)」と鯉喰神社を結ぶライン
図10 スーサと鯉喰神社を結ぶラインと五十猛神社(大田市五十猛町)

 倉敷市の楯築弥生墳丘墓(写真6)のご神体となっている弧帯文石(写真7)には、人の顔が描かれていますが1)、発掘調査を行った岡山大学の宇垣 匡雅氏は、集団が共通して崇めた神の顔だと評価しています。包帯で巻かれているようにも見えることから、オシリスを表しているのかもしれません。

楯築遺跡
写真6 楯築弥生墳丘墓
写真7 御神体の「弧帯文石」

  弧帯文石の包帯の一部は、S字状になっています。ダブルスパイラル(S字文)は、楯築弥生墳丘墓などの吉備の祭祀で用いられた特殊器台縄文土器隼人の楯にも見られますが2)、安田氏によると、もともとは2匹の蛇がとぐろを巻いた姿であり、蛇の脱皮は命の生まれかわりのシンボルで、ダブルスパイラル(S字文)の連続文様は、この宇宙は生命の誕生と死を永劫にくりかえす世界であることを物語っていると言われています3)。「渦巻文様」は、クレタ島のクノッソス宮殿の王妃の間の壁画や、マルタ島やアイルランド島の先史時代の遺跡にも見られ、南米アンデス高原の神殿跡からも見つかっています。

 御神体の「弧帯文石」の他に、楯築墳丘墓からは、焼かれて断片になった小振りの「弧帯文石」が見つかっています。これは、バラバラになったオシリスを再生させる儀式に使われたのかもしれません。エジプトでは、セド祭と呼ばれる最も起源が古いとされる神事があり、王の肉体的・魔術的力の復活を祈願する儀式で、「形式的な王の死」という王殺しを備えた神事だったたようです。『古事記』の五穀の起原で記されている大気津比売神(おほげつひめのかかみ)は、豊受大神(保食神(うけもちのかみ))と推定され、須佐之男命(書紀の一書では月夜見尊)に殺されたとされていますが、プルタルコスは『モラリア』4)の中で、エジプト人が神の話をするときに、例えば神々が放浪したとか、八つ裂きにされたというのは、本当にそういうことがあったと信じてはいけないと述べています。

 縄文土器にもみられる唐草文様の起原は古代エジプトの睡蓮の文様にあるといわれ、古代エジプトの柱頭には、やしの葉、蓮、パピルスのつぼみなどをデザイン化したものが見られます。クノッソス宮殿の王妃の間のベランダの柱をみると、柱頭にふくらみがあり、特殊器台に特殊壺を載せた状態に似ています。特殊壺の底には穴が開いているので、木の棒を通して柱を固定したのかもしれません。古代ギリシャでは、女神像が柱になっていますが、日本では、神様を数えるときに「」を使うことと関係があるかもしれません。

 楯築弥生墳丘墓からは、大量の水銀朱の中から、鉄剣一口の他に、三連の玉類と小ぶりな歯の一部が見つかっていることや1)、クノッソス宮殿の王妃の間の装飾との類似性から、楯築弥生墳丘墓の被葬者は、須佐之男命の后である神大市比売(かむおおいちひめ)で、天照大神(あまてらすおおみかみ)、別名大日孁貴(おおひるめのむち)と思われます。クノッソス宮殿のグリフィンに左右を守られた玉座に座っていたのは女王・女神官だったとする説も有力のようです。クノッソス宮殿は、北緯35度17分にあり、出雲大社(北緯35度24分)、氣比神宮(北緯35度39分)、鹿島神宮(北緯35度58分)とほぼ同緯度にあります(図11)。出雲大社と氣比神宮と鹿島神宮はほぼ直線状に並んでいて、このラインは、北に5度ほど傾いています(図12)。

図11 クノッソス宮殿(赤印)、出雲大社、氣比神宮、鹿島神宮の位置関係
図12 出雲大社と鹿島神宮を結ぶラインと氣比神宮

 神大市比売は、孝霊天皇の妃の倭国香媛と推定されます。倭国香媛は、『古事記』では第3代安寧天皇の曾孫で淡路島出身とされています。楯築遺跡と日前神宮・國懸神宮を結ぶラインの近くに、淡路島にある天照大神が隠れた天岩戸とも伝わる巨石を御神体とする岩戸神社があります(図13)。日前神宮の祭神である日前大神は天照大神の別名なので、楯築遺跡の被葬者は、天照大神(神大市比売 倭国香媛)と推定されます。

図13 楯築遺跡と日前神宮・國懸神宮を結ぶラインと岩戸神社

 王墓山には磐座があり、吉備の中山にも、吉備津彦神社元宮磐座があります。総社市にある神明神社の神使は、天岩戸で天照大神を誘い出したことで知られる鶏(長鳴鳥)です。真宮神社には、環状列石(スト―ン・サークル)があります。松木武彦氏の日本とイギリスの古代遺跡を比較した本がありますが、イギリスのオークニー諸島には、紀元前2000年~2500年頃とされるストーン・サークルがあります5)。平津豊氏は、ブログ「岡山の磐座と古墳」に、足守川から真宮神社まで全長約800メートルの王墓山自体がサーペント・マウンドのような蛇を模った遺構だったのではないかと書いています。木村鷹太郎氏によると、おのころ島はアポローンの生まれたデロス島と合致するとされ、瀬戸内海を地中海と見なすと、吉備は、位置的には、デルポイやオリンポス山のあるギリシャにあたるように思われます。

 徳島県阿南市に天照大御神の生誕地とされる賀志波比売神社(かしはひめじんじゃ)がありますが、賀志波比売神社とオリンポス山を結ぶラインの近くに大日靈女命を祀る天石門別八倉比売神社(徳島市国府町)や瑜伽山があり、メンフィスと天石門別八倉比売神社を結ぶラインの近くに須佐之男命を祀る須佐神社(広島県三次市)があります(図14)。天石門別八倉比売神社の社伝には天照大神の葬儀の様子が記されているようで、神社にある円墳の上に作られている五角形の石積みの祭壇は、一説には卑弥呼の墓といわれますが、楯築遺跡に葬られる前の大日靈女命の墓かもしれません。

図14 賀志波比売神社(徳島県阿南市)とオリンポス山を結ぶラインと天石門別八倉比売神社(徳島市国府町)、瑜伽山、メンフィスと天石門別八倉比売神社を結ぶラインと須佐神社(広島県三次市)

文献
1)福本 明 2007 「シリーズ「遺跡を学ぶ」034 吉備の弥生大首長墓・楯築弥生墳丘墓」 新泉社
2)上田正昭 2012 「私の日本古代史(上)」新潮選書
3)安田喜憲 2001 「龍の文明 太陽の文明」 PHP新書
4)プルタルコス著 柳沼重剛訳 1996 「エジプト神イシスとオシリスの伝説について」 岩波文庫
5)松木武彦 2017 「縄文とケルト」 ちくま新書