温故知新(6)伊都国 スサ 須佐之男命(一大率 都市牛利 牛頭天王) 大歳神 大御神社 志賀海神社 和多都美神社 平原遺跡 須玖遺跡群 阿曇(安曇)氏 宗像氏
伊都国(いとこく)は、『魏志』倭人伝にみえる倭国内の国の一つで、糸島平野の地域に伊都国があったとする説が有力で、三雲南小路遺跡・平原遺跡などがあり、漢倭奴国王の金印が見つかった志賀島も近くにあります(図1)。邪馬台国は、伊都国に魏の刺史と同様な役所を常設し、一大率(いちだいそつ)に諸国を検察させていました。今宿五郎江遺跡(いまじゅくごろうえいせき)(図1)は、弥生時代後期前半の伊都国の衛星集落の一つと考えられ、「瀬戸内系土器」受容の拠点とされています。若井氏は、吉備から派遣された一大率がこの遺跡に駐在し始めたと推定される時期と一致するとしています1)。『魏志』倭人伝によれば、魏の景初3年(239年)に卑弥呼が使いを魏におくったときの次席使者が「都市牛利(つしごり)」です。
「天皇」の名称は、旧来の「大王(おおきみ)」に代わって、7世紀頃に定められたといわれています。『日本書紀』の神功皇后の条で、新羅の王は「吾聞く、東に神国(かみのくに)有り。日本(やまと)と謂ふ。亦聖王(ひじりのきみ)在り。天皇(すめらみこと)と謂ふ。・・」といっているので、「スメラミコト」という呼び名は、遅くとも4世紀頃には使われていたと推定されます。「スメラ」を「シュメール」のこととする説も古くからあります。シュメール人の宗教制度では、天の神「アヌ」、地球の神「エンリル」、水の神「エンキ」の3人を特にあがめたとされ、それぞれ、『古事記』に記された、高天の原を治めた「アマテラス」、夜の食國を治めた「ツクヨミ」、海原を治めた「スサノオ」の三貴子と類似しているように思われます。
木村鷹太郎氏によると、須佐之男命の「すさ」は古代ペルシャの首府「スサ(スーサ)」を指し、「スサの男」はスサ人たるを示すものとしていますが、「スサノオ」は「スサの王」に例えられたのかもしれません。須佐之男命は、祇園精舎の守護神とされた牛頭天王(ごずてんのう)と習合しましたが、その理由は、スーサから出土した戦勝碑にある、地中海沿岸や北方山岳地域などに遠征したナラム・シン王(写真1)のように、牛のような角のある兜を被っていたためかもしれません2)。
シュメール初期王朝時代(紀元前2900年~紀元前2335年)の円筒印章印影図には、ヤマタノオロチに似た、七つの長い首の上に七つの頭をもつ蛇が見られますが、やはり2本の角のある兜を被った、ニンウルタ神が退治する図像があります3)。
「都市牛利」の「都市」が、都市国家だった「スサ」や「伊都国」を表し、「牛利」が、地方の役人である「郡吏」の郡を、牛頭天王の「牛」に変え、「吏」を「利」に変えたとすると、「都市牛利」は、須佐之男命を表し、卑弥呼が共立された後、伊都国の「一大率(いちだいそつ)」となり、卑弥呼を支えたと考えられます。
『古事記』によると、大年神・大歳神(おおとしのかみ)は、須佐之男命と神大市比売の子で、兄弟神である稲荷神・宇迦之御魂神(うかのみたま)と共に豊穣神とされることもあるようです。神大市比売は、『古事記』にのみ登場する神で、大山津見神の子で、櫛名田比売の次に須佐之男命の妻になったとされています。岡山県倉敷市茶屋町にある稲荷神社は、主祭神が宇賀御靈神で、須佐之男命、大市比賣命(神大市比賣命)を祀っています。大年神は、牛頭天王の八王子では、太歳神(たいさいしん)に当たるとされています。大年神の「年」は「都市」に由来するのかもしれません。長崎県、福岡県、兵庫県などでは、都市(といち)という苗字がみられます。
宮崎県延岡市にある神戸神社とシチリア島のシラクサを結ぶラインの近くに筑前国一之宮 住吉神社(福岡市博多区)、「金印」が見つかった志賀島にある志賀海神社(しかうみじんじゃ)、対馬市にある和多都美神社(わたづみじんじゃ)があります(図2)。志賀海神社は、全国の綿津見神社、海神社(わたつみじんじゃ)の総本社を称し、祭神のワタツミ(海・綿津見・少童)三神は、『古事記』『日本書紀』の神産みの段で、禊ぎにおいて住吉三神とともに生まれた神としるされています。ワタツミ三神は、須佐之男命と推定されるので、レイライン上に「金印」を埋めたのも、須佐之男命と関係があると思われます。このラインの近くには、野生のモアイ(モアイ岩)(大分県竹田市次倉)や平川家住宅(福岡県うきは市浮羽町)があります(図2)。
宮崎県日向市の天照大御神を祀る大御神社(おおみじんじゃ)とシチリア島のパレルモを結ぶラインの近くには、高千穂峡、神龍八大龍王神社(熊本県菊池市龍門)、伊都国の王墓と考えられる古墳を中心とした糸島市の平原遺跡(ひらばるいせき)、対馬市の天狹手依比女神・表筒男命・中筒男命・底筒男命をまつる都々智神社 (旧本宮跡)があります(図3)。都々智神社の「都々」は筒男命の「筒」と推定され、「筒」は塩土老翁の「土」の転とされます。大御神社の近くには、鵜戸神社(竜宮)があり、北には大綿津見神を祀る海神社(龍王権現)があります(図3)。これは、伊都国の「一大率」が須佐之男命と推定されることと整合します。大御神社とパレルモを結ぶラインは、河内阿蘇神社(熊本市西区)と宇佐神宮(大分県宇佐市)を結ぶラインとほぼ直角に交差し、交点付近に神龍八大龍王神社があります(図3)。大御神社と宇佐神宮を結ぶラインの近くには鶴見岳があり、河内阿蘇神社と大御神社を結ぶラインの近くには、夫婦神の浮島神社(熊本県上益城郡嘉島町)があります(図3)。
福岡県春日市に、奴国の中枢部だったと考えられている弥生時代中期~後期の大集落「須玖遺跡群」(すぐいせきぐん)があります(図4)。須玖遺跡群、平原遺跡、志賀海神社 沖津宮を頂点とする三角形を描くと、平原遺跡と志賀海神社 沖津宮を結ぶラインは、須玖遺跡群とスサを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図4)。須玖遺跡群とスサを結ぶラインの近くには神功皇后ゆかりの住吉神社(長崎県壱岐市)があり、須玖遺跡群と平原遺跡を結ぶラインの近くには、誉田別命・伊弉冉命・玉依姫命を祀る飯盛神社(福岡市西区)があり、志賀海神社 沖津宮と須玖遺跡群を結ぶラインの近くには志賀海神社があります(図4)。須玖遺跡群は、住吉三神(筒男命)やワタツミ三神と関係があり、須佐之男命と関係があると推定されます。
志賀海神社を氏神とする阿曇氏(あずみうじ、安曇氏とも)は、海神である綿津見命を祖とする地祇系氏族で、『古事記』では「阿曇連はその綿津見神の子、宇都志日金柝命(うつしひかなさくのみこと)の子孫なり」と記され、『日本書紀』の応神天皇の項には「海人の宗に任じられた」と記されています。また、『新撰姓氏録』では「安曇連は綿津豊玉彦の子、穂高見命の後なり」と記されています。長野県(信濃国)の佐久郡(さくぐん)の地名由来として、宇都志日金拆命が開拓したので「拆(さく)」となったという説があります。長野県安曇野市穂高に、穂高見命を祀る穂高神社(ほたかじんじゃ)があります。
安曇氏あるいは安曇部によって、隠岐国、備中国、周防国、阿波国、伊予国から海産物が貢納されていることから、安曇氏は海人集団として西日本を中心に分布していたとされています。安曇氏の一族は「磐井の乱」では、磐井に味方したことから、全国に拡散したようです。
宗像大社(むなかたたいしゃ)の祭神は、天照大神の三女神(市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)、湍津姫神(たぎつひめのかみ)、田心姫神(たごりひめのかみ))で、宗像市の辺津宮(へつぐう)、大島の中津宮(なかつぐう)、沖ノ島の沖津宮(おきつぐう)にそれぞれ祀り、この三宮を総称して宗像大社といいます。三女神の神名とその鎮座地は、記紀の諸伝間で異なっていて、多岐都姫命は湍津嶋姫命と同一神で、『古事記』では辺津宮に祀られています。辺津宮とパレルモを結ぶラインの近くには、中津宮と対馬市の宗像神社があります(図5)。沖ノ島にある沖津宮は、ラインからやや離れています。対馬市の宗像神社の近くには、宇麻志麻治命(珍彦)を祀る内野神社や、豊玉姫(多岐都比売命)を祀る豊﨑神社、志自岐神社(古津麻神社境内)があります。宗像大社を奉じる宗像氏は、上代より宗像の地を支配した海洋豪族です。
安曇氏や宗像氏は、オリオンの三ツ星の信仰を持ち、宗像三女神と関係があると推定され、三つ星の神格化ともされる住吉三神を祀った神功皇后も三ツ星の信仰を持っていたと推定されます。平戸藩松浦家の肥前松浦氏は、嵯峨源氏渡辺氏流というのが定説で、守護神として諏訪神社を祀り、家紋の「松浦星」は、オリオンの三ツ星にちなんでいます。
ギルガメシュ(アッカド語)またはビルガメシュ(シュメール語)は、古代メソポタミア、シュメール初期王朝時代の伝説的な王です。シュメール文明を築いた、世界最古の書『ギルガメッシュ叙事詩』に出てくる海洋民族ディルムンは、ヨーロッパの学説では、モヘンジョダロかハラッパ遺跡の付近にあったマドゥラを海都としていたとあるようです4)。竹内氏によると、インドネシアの港にも「マツウラ」があり、「マドゥラ」が転化して「マツゥラ」から「松浦」になったとしています4)。
大分県日田市日高町のダンワラ古墳から、弥生時代中期の鉄鏡「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさく がんしゅ りゅうもん てっきょう)」が見つかっています。ダンワラ古墳は、一説には当時の日田地方の豪族日下部氏の古墳とも言われ、魏の曹操(155ー220年)が同様な金錯鉄鏡を持っていたことから、高位の支配層の所持物だったと考えられています。漢代の書体で「長宜子孫」(子は欠落)の4文字が金で刻まれ、漢代のものと考えられています。賀川光夫氏は、鉄鏡に金銀を錯人する技術は本来西方のスキタイ系遊牧種族の武器や馬具などの動物衣裳を基本とするものと考えられるとしています。大分県日田市(豊後国日田郡)付近には、伊勢皇太神を祀る大神宮が多数分布しています(図6)。
大分県には、天照大御神を祀る伊勢系列の天祖神社(てんそじんじゃ)や天之御中主神や素盞鳴男命を祀る天祖神社があります(図7)。
大分県玖珠郡玖珠町(くすまち)四日市の天御中主大神外2柱を祀る木牟田天祖神社(大神宮・お伊勢様)とパレルモを結ぶラインの近くには長崎県対馬市の天神多久頭魂神社(てんじんたくずだまじんじゃ)があります(図8)。天道信仰の中心地で、この神社には社殿が無く、天道山を遙拝する形で原初的な祭祀の形を残した神社です。境内の入口には鳥居と石積みの石塔があり、奥まったところに鏡が置かれているようです。平安時代末期以降の本地垂迹思想によって、本地は大日如来、垂迹は天照大神となったようです。
大分県には、金鉱山が分布し、玖珠郡にも金山があったようですが、玖珠郡には硫化鉄鉱床があります。「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」は、この付近で作られたのかもしれません。これらのことから、天神多久頭魂神社や、「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」は、天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)と関係があると推定されます。玖珠町の町域の多くは耶馬日田英彦山国定公園に指定されています。英彦山(ひこさん)は古くから霊験あらたかな山として知られ、修験道の聖地でした。
チャタル・ヒュユクと宇佐神宮を結ぶラインは、天神多久頭魂神社、宗像大社 沖津宮の近くを通り、白山多賀神社(山王権現)を通ります(図9)。京都郡苅田町の白山多賀神社には、伊邪那岐命、伊邪那美命、豊玉姫命が祀られています。白山系の神社では祭神は通常「菊理姫」が祀られていますが、ここでは「豊玉姫命」となっています。菊理媛の原形は祖霊信仰における巫女(霊媒)ではないかと考えられていて、豊玉姫命(卑弥呼)や玉依姫命は、菊理媛(くくりひめ)と思われます。
幣立神宮とイタリアのブリンディジを結ぶラインの近くには、住吉神社(長崎県壱岐市)、対馬市の天道大神神社や乙和多都美神社があります(図10)。天道大神神社付近の竜良山原始林は天道信仰の聖地とされていました。乙和多都美神社は、社伝によると、神功皇后が当港に船を泊め自ら祀ったとされ、また、山本和幸氏のブログにあるように、宮ノ岳山の山頂が御神体ともいわれています。
長崎県対馬市厳原町豆酘(つつ)に多久頭魂神社(たくずだまじんじゃ)があり、近くの浅藻にも神社があります。多久頭魂神社の祭神は天照大神など5柱とされていますが、本来の祭神は対馬特有の神である多久頭神で、「たく」には、古語で「船を漕ぐ」の意味があるので、多久頭神は船頭の神なので、須佐之男命と関係があると思われます。幣立神宮とシラクーサを結ぶラインの近くに大己貴命、少名彦命、素盞嗚命を祀っている白石大明神(佐賀市富士町)、猿女命を祀る塞神社(長崎県壱岐市)があります(図11)。
岡山県岡山市中区および北区に祇園という地区があり、かつて上道郡祇園村(ぎおんそん)で、祇園や高島など付近一帯は、備前国の中枢でした(図12)。
龍ノ口山南西麓には大己貴命(大国主命)を祀る備前国総社宮があり、備前国総社宮とシラクーサを結ぶラインの近くには、繩久利神社・本宮(島根県安来市)、素戔嗚尊を祀る出雲國一之宮の熊野大社があります(図13)。
中区祇園には、素盞鳴神社があり、素盞鳴命の他、稲田姫命と豊玉姫命(卑弥呼)を祀っています。また、岡山県倉敷市児島には、祇園神社(ぎおんじんじゃ)があり、祭神の「素戔嗚命」を祀っています。
京都市東山区にある八坂神社は、全国にある祇園社の総本社です。祇園信仰(ぎおんしんこう)は、牛頭天王・スサノオに対する神仏習合の信仰で、「祇園祭」は、平安時代に成立した御霊信仰を背景に、行疫神を慰め和ませることで疫病を防ごうとしたのが始まりとされています。「スサノオ」には、『日本書紀』と同じく「素戔嗚」を使っていますが、「戔」には小さいという意味があり、「素盞鳴」の「盞」には小さい盃という意味があります。東京都荒川区南千住にある素盞雄神社は、修験道の開祖役小角(えんのおづぬ 役行者)の高弟である黒珍(こくちん)の創建とされます。岡山市中区祇園にある素盞嗚神社は、岡山城の丑寅鬼門に当るので、城主池田綱政が造営したものです。
広島県福山市にある素盞嗚神社は、『備後風土記』に見られる蘇民将来伝説の舞台で、神社の敷地は、武塔神(素盞嗚尊)に滅ぼされた弟将来(巨旦将来)の屋敷跡といわれます。吉備真備が唐から帰国した後の天平6年(734年)に備後から素盞嗚命を播磨の広峯神社に勧請したとされていますが、広峯神社は、『播磨鑑』に「崇神天皇の御代に廣峯山に神籬を建て」とあり、古くから農業の神として崇拝され(広峯信仰)、本殿内に薬師如来を本地仏として祀っていたとされるので、由来は異なると思われます。広峯神社の主祭神は「素戔嗚尊」ですが、南北朝期に祇園社が広峯社の領家となったためと思われます。広峯社の檀那は主に播磨・但馬・丹後・備前・備中・備後・美作・因幡・摂津・丹波などで確認できるようです。
祇園祭は、イスラエルのジオン祭と関係があるという説があります。旧約聖書の「ノアの方舟」伝説では、大洪水の後、方舟がアララト山に漂着した日が7月17日で、ノアの家族8人が生き残ったとされています。アスファルトは、縄文時代から使われていたので、方舟を作る際にも使われたかもしれません。旧約聖書で、イスラエル民族の祖であるアブラハムがカナンの地に移る前に住んだ場所とされる地がギョベクリ・テペの南にあるハッラーン(ハラン)です。タカマガハラ(高天原)は、ターガマ州のハランに由来するともいわれています。祇園祭は、7月17日に行われる山鉾のご巡行でクライマックスを迎え、須佐之男命の御子神は八柱で、八王子神社(はちおうじじんじゃ)などで祀られています。元々は、牛頭天王の8柱の子(八王子)を祀っていて、明治の神仏分離の際、須佐之男命と天照大神との誓約(うけい)で化生した五男三女神に変えられたようです。
文献
1)若井正一 2019 「邪馬台国吉備説からみた初期大和政権」 一粒書房
2)小林登志子 2020 「古代メソポタミア全史」中公新書
3)岡田明子 小林登志子 2008 「シュメル神話の世界」中公新書
4)竹内一忠 2020 「ペテログリフが明かす超古代文明の起源」 玄武書房