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温故知新(12)元伊勢(豊受大神 天照大神 豊鍬入姫 倭姫) 正勝吾勝々速日天之忍穂耳命(加具土命) 黒媛

 元伊勢(もといせ)は、三重県伊勢市に鎮座する伊勢神宮(皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮))が、現在地へ遷る以前に一時的に祀られたという伝承を持つ神社・場所です。丹後一宮 元伊勢 籠神社(このじんじゃ) は、主祭神として彦火明命(ひこほあかりのみこと 饒速日命)、相殿に豊受大神、天照大神、海神、天水分神が祀られています。豊受大神宮(外宮)に奉祀される豊受大神は、須佐之男命と神大市比売との間に生まれた宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)と習合し、同一視されているので、籠神社で祀られている天照大神は、須佐之男命(孝霊天皇)の后の神大市比売(大日孁貴 倭国香媛)と推定されます。豊受大神宮(外宮)は、岡山県倉敷市児島にある瑜伽山(由加山)と同緯度(北緯34度29分)にあります(図1)。

図1 瑜伽山(由加山)と豊受大神宮(外宮)を結ぶライン

 『丹後国風土記』逸文には、奈具社の縁起として、真奈井で水浴をしていた8人の天女の1人が老夫婦に羽衣を隠されて天に帰れなくなり、しばらくその老夫婦の家に住み万病に効く酒を造って夫婦を富ましめたとあり、この天女が豊宇賀能売命(とようかのめ)で、豊受大神であるといわれています。

 京都府福知山市(丹波国)の皇大神社(元伊勢内宮)と豊受大神社(元伊勢外宮)は、伊勢神宮の元宮といわれ、天岩戸神社とともに元伊勢三社として知られています。皇大神社と天岩戸神社は、ほぼ元伊勢 籠神社と豊受大神社を結ぶライン上にあります(図2)。皇大神社の伝承によると、皇大神は、倭笠縫邑を出られたのち、最初に但波(丹波)へ遷ったとされます。

図2 元伊勢 籠神社と豊受大神社(元伊勢外宮)を結ぶラインと皇大神社(元伊勢内宮)、天岩戸神社

 岡山市北区番町にある伊勢神社(いせじんじゃ)は、第10代崇神天皇の代に皇女豊鋤入姫命が創建したとされ、天照皇大神と豊受大神が祀られています(図1)。『倭姫命世記』にある元伊勢の第五である「名方浜宮」の候補地の一つで、元伊勢として二千有余年の歴史を持っています。岡山市南区浜野に、内宮(ないくう)と呼ばれる天照大御神、倭姫命、大己貴命を祭神とする神社があります(図3)。由緒をみると創祀は伊勢の内宮鎮座の40年前にあたるようです。江戸時代に土肥経平が著した寸簸の塵(きびのちり 吉備の地理の意)という書物の中に「外宮は出石郡(兵庫県北東部)にあり。内宮は鹿田庄浜野村にありて式内の神なり。皇大神宮即ち是なり。」とあるようです。内宮とオリンポス山を結ぶラインの近くに鹿田本町があります(図3)。

図3 内宮とオリンポス山を結ぶラインと鹿田本町、伊勢神社、岡山神社、春日町、鹿田町

 奈良県桜井市三輪にある大神神社(おおみわじんじゃ)の摂社の檜原神社(ひばらじんじゃ)は、「倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)」の比定地のひとつで、元伊勢と伝えられています。『日本書紀』には、崇神天皇の皇女で天照大神の宮外奉斎の伝承で知られる豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)が、天照大神を「やまとの笠縫邑(かさぬいのむら)に祭る。よりて磯堅城(しかたき)の神籬(ひもろぎ)を立つ」とあります。古い形の神社は、建物の中に玉垣を設けて常盤木を立てて神の宿る所とし、後にはこの常盤木(ときわぎ)を神籬と呼ぶようになったそうです。大和(奈良)の春日大社は鹿と縁がありますが、倭国の都があったと推定される岡山市北区には、春日町の隣に鹿田(しかた)町(古くは御野郡に存在した鹿田庄)があります(図3)。ここは地盤が良く、弥生時代から鹿田遺跡があったようです(岡山城展示資料)。したがって、鹿田本町に鹿田城(しかたき)があり、そこにあった神籬を笠縫邑に移したと推定されます。

 大崎神社は、津山市と美作市の間に3社ありますが(図4)、岡山県津山市中原にある大崎神社の由緒には、「崇神天皇の五年に和州笠縫邑に大国魂神・大物主神を勧請して、三輪明神と崇めたので、流行していた疫病は治った。」とあります。和州は大和国(やまとのくに)の異称です。森家明神帳によれば、三條天皇の時代(1015年)に金井郷内に疫病が流行し、当時の美作守源道方が宮内卿も兼務していたため、この例に倣って金井郷に大國魂神を勧請したとされています。勝田郡勝央町にある大崎神社の由緒は不明ですが、勝田郡勝央町の「勝」は、瓊瓊杵尊の父である正勝吾勝々速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)の「勝」に由来し、加具土命を祀っていたのかもしれません。大崎神社(勝央町)とアナトリア地方南部にあるチャタル・ヒュユクを結ぶラインの近くに津山市一宮にある美作國一之宮中山神社(図4)があり、中山神社の祭神は金山彦命とされたことがあります。

 津山市には、仁徳天皇の妃で、吉備の海部直(あまべのあたへ)の娘の黒媛の出身地(津山市新野山形)があります。新野山形には、黒媛塚と伝わる水原古墳がありますが、水原古墳とオリンポス山を結ぶラインの近くにサムハラ神社 奥の宮(津山市加茂町)があります(図4)。新野山形は、日前神宮・國懸神宮とオリンポス山を結ぶライン上にあることから(図5)、美作国(みまさかのくに)に笠縫邑があったと推定され、仁徳天皇が黒媛を慕って新野山形まで行幸したことが理解できます。

図4 大崎神社(勝央町)とチャタル・ヒュユクを結ぶラインと中山神社、大崎神社(中原、金井)、オリンポス山と水原古墳(黒媛塚)を結ぶラインとサムハラ神社 奥の宮
図5 日前神宮・國懸神宮とオリンポス山を結ぶラインと新野山形

 美濃国だった岐阜県大垣市に笠縫の里があり、大垣市笠縫町にある若宮八幡神社の祭神は仁徳天皇なので、「笠縫」は、黒媛と関係があると思われます。岐阜県には、山県市(やまがたし)があり、古くは「山方」と表記されたようです。津山市新野の「山形」も、元は「山方」だったのかもしれません。

 美作地方には、孝元天皇の陵墓と推定される備前車塚古墳と同様な初期の前方後方墳が複数確認されています。岡山県勝田郡勝央町植月東にある植月寺山古墳(うえつきてらやまこふん、観音寺古墳)は、美野平野を南に一望できる丘陵の頂上にあり、この地域を治めた首長の墓と考えられています。また、津山市二宮にある美和山古墳群の美和山一号墳は、美作最大の前方後円墳で、奈良盆地東南部のオオヤマト古墳群にある行燈山古墳の3分の1モデルという見方があります。かつては吉備国(きびのくに)だった美作国と備前国に同様な前方後方墳があり、美作国に大和地方と同様の前方後円墳が共存することは、備前車塚古墳が孝元天皇(大国主命と推定)の陵墓で、箸墓古墳が倭迹迹日百襲姫命(卑弥呼と推定)の墓と推定されることと整合します。

 元々の笠縫邑は、徳島県美馬市美馬町にある天都賀佐比古神社(あまつかさひこじんじゃ)付近にあったのではないかという説もあります。讃岐忌部氏は、手置帆負命(たおきほおひのみこと)を祖神とし、『日本書紀』には、手置帆負命は作笠者(かさぬい)と記され、『古語拾遺』では、「手置帆負命が孫、矛竿を造る。其の裔、今分かれて讃岐国に在り。」と記されています。讃岐忌部氏は、崇徳天皇の時代(1123~1142年)まで、朝廷に毎年調庸(みつきもの)の他に800本の竿を貢じてきたとされています。

 坂田神明宮(さかたしんめいぐう)は滋賀県米原市宇賀野に鎮座する神社(神明神社)で、元伊勢の伝承地である坂田宮(内宮)と、式内社論社である岡神社(外宮)の両宮からなります(図6)。社伝によれば、孝安天皇の時代に宇賀野魂命(うかのみたまのみこと その別称が豊受毘売命)が降臨し、時を同じくして筑摩村に御食都神(みけつかみ)、岩脇村に大歳神が降臨、この3神を合わせて「筑摩三所の神」と称したといい、また鎮座地「宇賀野」は「宇賀野魂」という神名に因んだものであるそうです。

 滋賀県東近江市神郷町に、豊遠迦比売命(豊岡姫命)を主祭神とし、白山比売(白山比咩神)を配祀する乎加神社があります。豊遠迦比売命(とよおかひめのみこと)は、豊受大神(豊宇気毘売神)として知られ、白山比売は、菊理媛神(くくりひめのかみ)と同一神で、「括り(複数のものを一つの範疇にまとめること)」の意とされることから、各地に祀られている豊受大神をまとめる媛神の意味があるのかもしれません。本殿の北側に3世紀頃の前方後方墳である神郷亀塚古墳があり、古墳の後方部には2基の木槨墓があります。神郷亀塚古墳とギョベクリ・テペを結ぶラインは白髭神社を通ります(図6)。白髭神社は、近江最古の大社で、猿田彦命を祀っていますが、社記によると垂仁天皇25年に、倭姫命が社殿を創建したとされています。神郷亀塚古墳の被葬者は、第10代崇神天皇の皇女の豊鍬入姫命と、第11代垂仁天皇の第四皇女の、倭姫命かもしれません。

図6 神郷亀塚古墳とギョベクリ・テペを結ぶラインと白髭神社、坂田神明宮

 伊勢市にある元伊勢23番目(倭姫命の17番目)に矢田宮(やたのみや)があり、神宮神田(三重県伊勢市楠部町 北緯34度28分)の近くに位置し、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)を祀っている伊弉諾神宮(北緯34度27分)や、須佐之男命を祀っていたと推定される対馬国一宮海神神社(北緯34度27分)とほぼ同緯度に位置しています(図7)。

図7 神宮神田(矢田宮)と伊弉諾神宮と海神神社を結ぶライン

 奈良県大和郡山市矢田町にある矢田坐久志玉比古神社(やたにますくしたまひこじんじゃ)は、久志玉比古神(櫛玉饒速日命)と后の御炊屋姫命(櫛玉姫命)を祀っていますが、神大市比売(天照大神 大日孁貴神)の墓と推定される楯築遺跡と同緯度(北緯34度39分)にあります(図8)。これらのことから、倭姫命は、矢田宮に櫛玉饒速日命(瓊瓊杵尊)を祀っていたと推定されます。

図8 楯築遺跡から矢田坐久志玉比古神社を結ぶライン

 三重県度会郡大紀町滝原にある皇大神宮別宮 瀧原宮(たきはらのみや)は、内宮(皇大神宮)の別宮とされ、倭姫命が内宮よりも先に天照大御神を祀った場所という伝承があります。別宮は他に、月読宮(つきよみのみや)、伊雑宮(いざわのみや)、倭姫宮、月夜見宮の別宮があります。Googleマップ(距離の測定)を使って、籠神社貴船神社を結ぶラインを引き、延長すると、瀧原宮と伊雑宮の間を通ります(図9)。

図9 籠神社と貴船神社を結ぶラインの延長線と瀧原宮と伊雑宮

 籠神社や瀧原宮には「龍」の字が含まれ、籠神社に近い天橋立の景色は飛竜観と呼ばれています。貴船神社の祭神の高龗神(たかおかみのかみ)は竜神であり、貴船神社には龍穴があることなどから、籠神社と貴船神社を結ぶラインは、龍脈(ドラゴン・ライン)と思われます。Googleマップを使って、貴船神社からオリンポス山へラインを引くと、籠神社を通ります(図10,11)。

図10 貴船神社とオリンポス山を結ぶラインと籠神社
図11 貴船神社とオリンポス山を結ぶライン

 オリンポス山と瀧原宮を結ぶラインは、京都府福知山市(丹波国)にある豊受大神社(とゆけだいじんじゃ)を通ります(図12)。豊受姫命は、雄略天皇の時に丹波国から遷宮して伊勢神宮外宮に祀られたとされています。豊受大神社は、主祭神として豊受姫命を祀り、豊受大神宮(伊勢神宮外宮)の元宮であるとの伝承から、「元伊勢外宮」とも称されます。また、同じラインは、丹波国一宮の出雲大神宮の近くも通ります(図12)。出雲大神宮の主祭神は、大国主神と三穂津姫尊で、配祀神は、天津彦根命と天夷鳥命(建比良鳥命)なので、豊受姫命と加具土命を結び付けていると思われます。出雲大神宮の近くにある御蔭山は、古くは国常立尊(くにとこたちのみことが)が鎮まる神体山として祀られています。

図12 オリンポス山と瀧原宮を結ぶラインと豊受大神社(元伊勢外宮)、出雲大神宮

 オリンポス山と伊雑宮を結ぶラインは、三重県多気郡明和町にある斎宮寮(さいぐうりょう)の遺跡である斎宮跡(さいくうあと)の近くを通ります(図13)。斎宮跡は、伊勢神宮の祭祀を行うために皇室から派遣された斎宮が執務した場所とされています。斎宮(いはいのみや)は、元は月読命(加具土命)の祭祀とも関係があったと推定されます。

図13 伊雑宮とオリンポス山を結ぶラインと斎宮跡

 斎宮と伊雑宮を結ぶラインの近くには、皇大神宮(伊勢神宮 内宮)や高倉山古墳があります(図14)。高倉山古墳は、古墳時代後期の6世紀後半(または6世紀中葉)頃の築造と推定され、「高倉山」の名前から孝元天皇と関係があるのかもしれません。

図14 斎宮と伊雑宮を結ぶラインと皇大神宮(伊勢神宮 内宮)、高倉山古墳、豊受大神宮(伊勢神宮 外宮)、神宮神田

 伊雑宮からギョベクリ・テペへラインを引くと、稲荷山の近くを通ります(図15)。伏見稲荷大社は、帰化氏族の秦氏が、和銅4年(711年)稲荷山(伊奈利山)三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮したことに始まるとされ、稲荷山の神は宇迦之御魂神(豊受大神)としています。豊受大神は、加具土命(月読命)の后と推定されるため、倭姫命は、稲荷山を基準にして伊雑宮(祭神は月読命と推定)の位置を決めたのかもしれません。

図15 伊雑宮とギョベクリ・テペを結ぶラインと稲荷山

 籠神社の「」には、こもるという意味があり「」と関係がありそうです。葛籠(つづら)は、元来、「つづらふじ」のつるで編んだ蓋つきの籠の一種ですが、『古事記』に記された出雲健の刀にも「黒葛(つづら)」が巻かれています。「葡萄(ぶどう)」や「(つた)」は、ディオニュソスの聖樹なので、つる性植物の「葛藤(つづらふじ)」も聖樹と思われます。ディオニュソスは、エジプトではオシリスと同一視され、オリンポス十二神の一柱に数えられることもあります。三輪山の蛇、鹿島神宮や春日大社の牡鹿、稲荷神社の狐、氣比神宮(けひじんぐう)のイルカなどは、いずれもディオニュソスの聖獣です。ディオニュソス神の由来は、ギリシア語の成立時期より古いようです。エーゲ文明のナクソス島にあるアポロナの未完のクーロス巨像は、ディオニュソス像と推定されていますが、『古事記』に記された須佐之男命と同様なあごひげを蓄えています。

 聖ミカエルラインは、イングランドの東側と西側を結ぶレイラインで、ドラゴンに関する遺跡がつながりドラゴン・ラインとも呼ばれます。5月1日の太陽が昇る方位に沿って引かれた線です。もうひとつのヨーロッパのレイラインは、アポロ・アテナ・ラインで、アイルランドから始まり、ケルト人が信仰する聖地だったモンサンミシェルなどの聖ミカエルと聖マリアにちなんだ土地を通り、ギリシャに至るとデルポイなどアポロ神とアテナ神にちなんだ神殿を通っています1)(図16)。

図16 アポロ・アテナ・ライン 出典:http://www.ancient-wisdom.com/stmichael.htm

 徳川家康公を祭神とする久能山東照宮日光東照宮は富士山を挟んで、直線上に配置していますが、徳川家康の遺訓にある「及ばざるは過ぎたるよりまされり」は、デルポイのアポロン神殿の入口に刻まれた古代ギリシアの格言の「過剰の中の無」と似ています。「汝自身を知れ 」とは、自身の習慣・道徳・気質を自覚し、自分がどれだけ怒りを抑制できるかを把握する、といったようなことを指しているものとされるので、家康の遺訓の「堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え」などと似ているように思われます。聖徳太子の「和をもって貴しとなす」とも類似しています。

「汝自身を知れ」
「過剰の中の無」(多くを求めるな)
「誓約と破滅は紙一重」(無理な誓いはするな)

出典: 「デルポイ」Wikipedia

 日光の東照宮薬師堂(本地堂)の内陣天井には、「鳴き竜」が描かれています。日光東照宮は、真南に江戸城があり、南面に立つ陽明門の真上に北極星が輝くように作られています。設計には、天海僧正が係わっていたと推定されますが、須藤光暉氏は、天海僧正は、船木兵部少輔景光の息子と結論づけているので、多氏の船木氏の後裔かもしれません。

 天海僧正は、江戸に、目黒、目白、目赤、目青、目黄という不動尊を祀った寺を建てています2)。伝説では、天海僧正の提言を受けた徳川幕府3代将軍家光が、江戸の鎮護・天下泰平を祈念して、四神相応の地である東西南北と中央の5ヵ所に建てさせたとされています。幣立神宮の「五色人祭」は『竹内文書』の「五色人」に由来し、1964年の東京オリンピックの際に始まったようですが、「五色」は、籠神社の高欄上の五色(青、黄、赤、白、黒)の座玉(すえたま)にも見られ、陰陽五行思想(木・火・土・金・水)に相対する五色や、中国神話の四神である東の青龍(青)、西の白虎(白)、南の朱雀(赤)、北の玄武(黒)と中央の黄龍または麒麟(黄)とも対応しています。古代エジプトでは、色(iwen)は、その色、外観、性格、存在または自然を意味し、五色のうち、黄色は太陽の色でもあり、金と並んで完璧を表したようです。エジプト神話では、「ホルスの目」の左目である「ウアジェトの目」は、全てを見通す知恵」や「癒し・修復・再生」の象徴(シンボル)とされ、守護神としてのウアジェトの性質から、守護や魔除けの護符として用いられたようです。天海僧正の不動尊の「目」は、古代エジプトの「ウアジェトの目」に由来するのかもしれません。もしかすると、船木氏の「フナキ」は、「フェニキア」に由来するのかもしれません。

 古代エジプトにおいてオリオン座の帯は、冥界の神オシリスと同一視され、三大ピラミッドの配置は、オリオン座の帯に位置する三つ星に呼応するといわれています。クフ王のピラミッドには、王の間と王妃の間と呼ばれる部屋があり、それぞれの部屋から北と南に孔(シャフト)が開けられています。王の間から北に伸びるシャフトは、約4800年前の天の北極であったりゅう座α星(トゥバン)を指していることが知られています。下記のブログによると、他のシャフトは、オリオン座の三ツ星やおおいぬ座のシリウスなどが南中する位置を指しているようです。

オリオンの三ツ星とピラミッドの深い関係?2

出典:https://plus.chunichi.co.jp/blog/asada/article/282/2119/

 住吉大社は、海の神である筒男三神(底筒男命(そこつつのおのみこと) 、中筒男命(なかつつのおのみこと) 、表筒男命(うわつつのおのみこと)) と神功皇后を祭神とし、古墳時代から、航海の神・港の神として祀られた神社です。「筒」を星の意とし、オリオン座中央の三つ星のカラスキ星(唐鋤星、参宿)と関連づける説があります。大和岩雄氏は、オリオン座の三つ星が、初冬海上から直立縦列に昇るさまが住吉神社の三社縦列に並ぶさまに重なるとする説を主張しています。

 住吉大神(筒男三神)は、スサノオとする説がありますが、「スミヨシ」の語義は、『摂津国風土記』によると、筑紫からお連れした住吉神がこの地に住む言ったことに由来するとされ、筒男三神の異名である五御魂(いつのみたま)が、天穂日命、オシホミミを暗示しているとされています。また、氣比神宮の伊奢沙別命が天筒の嶺に降臨したと伝承され、伊奢沙別命は月読命と推定されることから、住吉大神は月読命と推定されます。

 「月読命」は、「月を読む」ことから暦と結びつける説がありますが、豊鋤入姫命の後、倭姫命が引き継いで、船木氏と協力し、別宮を定めるまでにおよそ90年かかったのは、月食の測定で位置を決めたからかもしれません。緯度より経度の測定は難しいようですが、日食や月食が起こる日時を事前に予測できれば、航海中に食が起きた時間と、予測していた食の時間の差を見ることで経度が求められ、古代ギリシャの天文学者のヒッパルコスも月食を使って経度を求める案を出していたようです。しかし、これには、ギリシャのアンティキティラ島沖で発見された古代の難破船から回収された、食の予測ができるアンティキティラ島の機械や正確な時計が必要と考えられます。2 地点で太陽が南中した時刻を比較すれば、その 2 地点間の経度差が分かりますが、やはり携帯できる高精度の時計が必要と考えられます。

 アンティキティラ島の機械の中央にある大きな歯車は、「丸に十字」をデザインしているように見えます。一般的には、1575年にドイツで初めて使われたとされる「差動歯車機構」が使われていて、アンティキティラの機械で月の軌道を調べてみると、わずか100分の1しか誤差がなかったようです3)。

 歴史上に最初に登場する星座は、エジプトが発祥地で、デカンと呼ばれる太陽の昇る位置に作られた36の星のグループは、正確な時刻を知るための道具である星時計などにその姿が刻まれていたようです4)。また、星と星が昇る「間」に1時間という単位を与え、1日=昼12時間、夜12時間という時間の概念も古代エジプトの時代にできあがっていたようです。しかし、航海に使用できる揺れや温度変化に強い高精度の携帯用ぜんまい時計(クロノメーター)が開発されたのは、18世紀後半の1759年です。

 古代の天文学者や占星術者が用いた天体観測用の機器であるアストロラーベは、太陽、月、惑星、恒星の位置測定、三角測量、時刻や位置測定にも使われ、平面アストロラーベは地上や凪いだ海上での緯度経度の測定はできたようです。アストロラーベの発明者は古代ギリシアの数学者・天文学者であるアポロニウス (紀元前225 年頃)とされています。

 日本の律令制では中務省に属する機関のひとつとして、陰陽寮(おんようりょう、おんようのつかさ)が置かれ、安倍晴明のような陰陽師(おんみょうじ おんようじ)の他に、天文観測に基づく占星術を行使・教授する天文博士、暦の編纂・作成を教授する暦博士、漏刻(水時計)を管理して時報を司る漏刻博士が置かれていました。陰陽師は、式盤という紙に書いた天球儀(平面アストロラーベ)をもっていたようです。青銅製の平面アストロラーベには、耐久性があったと考えられるので、古代にギリシャから日本に使い方も併せて伝わっていたのかもしれません。

文献
1)ジョイス・ハーグリーヴス 斎藤静代/訳 2009 「ドラゴン 神話の森の小さな歴史の物語」 創元社
2)不二龍彦 (監修) 2020 「真説日本史ミステリー 地図帳で明かす天皇家の謎100」 宝島社
3)歴史の謎を探る会(編) 「古代の謎を解いた偶然の大発見」 河出書房新社
4)長島晶浩/ORG 1999 「星空の神々 全天88星座の神話・伝承」 新紀元社

参考 Googleマップを使う前に、オリンポス山を特定した方法
 地球儀と糸を使って、貴船神社と籠神社を結ぶラインの延長上にある場所の見当をつけてから、地理院の測量計算サイトの「距離と方位角の計算」で調べたところ、貴船神社から籠神社と、貴船神社からオリンポス山の方位角が一致し、貴船神社と籠神社を結ぶラインの延長上には、オリンポス山が位置していることがわかりました(表1,2)。

表1 貴船神社から籠神社の方位角(314度59分)
★貴船神社→オリンポス山
表2 貴船神社からオリンポス山の方位角(314度59分)

注)Googleマップは、以前のように滑らかな曲線が描けなくなり、ここに記載した図の再現はできなくなりました。