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温故知新(39)ピラミッド レイライン スンダランド 沖縄 台湾 グヌン・パダン アンコールワット チチェン・イッツァ アグアダ・フェニックス遺跡 テオティワカン

 岐阜県揖斐郡揖斐川町と福井県今立郡池田町との境界上にある冠山は揖斐川及び九頭竜川支流の足羽川の源流となる山で、冠山の名は、山頂部に露出した岩の形が烏帽子(えぼし)に似ていることに由来します。冠山と「太古日本のピラミッド」説のある葦嶽山(広島県庄原市)を結ぶライン上には、古くは「木山牛頭天王」と呼ばれた木山神社(岡山県真庭市)があり、ラインの近くには元伊勢内宮皇大神社や美作國一之宮中山神社があります(図1)。

図1 冠山と葦嶽山を結ぶラインと元伊勢内宮皇大神社、中山神社、木山神社

 冠山と葦嶽山を結ぶラインは、孝元天皇の陵墓と推定される備前車塚古墳スカラ・ブレイを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図2)。備前車塚古墳と冠山を結ぶラインの近くには、兵庫県丹波市の白毫寺(びゃくごうじ)や加茂神社(福井県大飯郡おおい町)があり、備前車塚古墳とスカラ・ブレイを結ぶラインの近くには伯耆稲荷神社(鳥取県東伯郡琴浦町)があります(図2)。

図2 備前車塚古墳と冠山を結ぶラインと白毫寺、加茂神社、冠山と葦嶽山を結ぶラインと元伊勢内宮皇大神社、中山神社、備前車塚古墳とスカラ・ブレイを結ぶラインと伯耆稲荷神社

 備前車塚古墳とラス・ダシャン山を結ぶラインは、葦嶽山や八咫烏の伝説が残っている石見國二之宮 多鳩神社(島根県江津市)の近くを通ります(図3)。アレクサンドリアやロドス島ともつながっている葦嶽山は、これらのレイラインの指標のために造られた、自然の山を加工したピラミッドと推定されます。冠山も同様なピラミッドかもしれません。

図3 備前車塚古墳とラス・ダシャン山を結ぶラインと葦嶽山、多鳩神社

 図3の備前車塚古墳と多鳩神社を結ぶラインと、多鳩神社と藻岩山を結ぶライン、藻岩山と備前車塚古墳を結ぶラインで三角形を描くと、多鳩神社と藻岩山を結ぶラインは備前車塚古墳とアルテミス神殿を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図4)。藻岩山と備前車塚古墳を結ぶラインの近くには、三柱神社(兵庫県豊岡市)があり、備前車塚古墳とアルテミス神殿を結ぶラインの近くには奥宇賀神社があります(図4)。

図4 備前車塚古墳と多鳩神社を結ぶライン、多鳩神社と藻岩山を結ぶライン、藻岩山と備前車塚古墳を結ぶラインと三柱神社、備前車塚古墳とアルテミス神殿を結ぶラインと奥宇賀神社

 葦嶽山などの「日本ピラミッド」の発見者である酒井勝軍(さかいかつとき)によれば、ドコノ森(田子町・三戸町)もピラミッドで、並木伸一郎氏は、三内丸山人が東北ピラミッドゾーンにかかわっていると推定しています1)。オリンポス山とドコノ森を結ぶラインは、亀ヶ岡石器時代遺跡を通り、ドコノ森とマラケシュを結ぶラインは、三内丸山遺跡の近くを通ります(図5)。

図5 オリンポス山とドコノ森を結ぶラインと亀ヶ岡石器時代遺跡、ドコノ森とマラケシュを結ぶラインと三内丸山遺跡

 秋田県鹿角市の黒又山もピラミッドといわれていますが、東北のピラミッドといわれる山々はレイラインで結ばれていることが知られています(日高見国と岩手の伝承の内緒話)。五葉山とマラケシュを結ぶラインの近くには、早池峰山姫神山靄山(もややま)があります(図6)。靄山山頂には、岩木山神社を勧請した脇元岩木山神社 が鎮座しています。磯前神社(秋田県山本郡三種町)と駒形神社(青森県三戸郡新郷村)を結ぶラインは黒又山を通り、五葉山とマラケシュを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図6)。駒形神社と五葉山を結ぶラインの近くには、三戸大神宮(青森県三戸郡三戸町)があります(図6)。

図6 五葉山とマラケシュを結ぶラインと早池峰山、姫神山、黒又山、靄山

 同志社大学の辻維周(つじまさちか)氏は、黒又山の東西南北に神社があり、南北ラインが西に5度ほど偏っていることを見つけ、さらに、アメリカのスミソニアン研究所が作成したソフトを用いて、時間軸を遡ると紀元前2,011年に5度の偏位が無くなることを見つけています1)。この頃に東北ピラミッドゾーンがつくられたと推定されますが、出雲大社、氣比神宮、鹿島神宮を結ぶ東西のラインの偏りとも一致しています。紀元前2000年頃の中期ミノア期クノッソス宮殿が建てられています。この頃のエジプトは、メンフィスを拠点とした古王国の権力が失われ、上流のテーベに成立した中王国時代(紀元前2,040年~紀元前18世紀頃)になっていました。

 姫神山とパレルモを結ぶラインの近くには、護國山 観音院 久渡寺(青森県弘前市)、岩木山、日照田観音(高倉神社)(西津軽郡鰺ヶ沢町)があります(図7)。太陽礼拝所として古代から使われていたと考えられている大石神ピラミッド(青森県三戸郡新郷村)と大台神社(秋田県南秋田郡井川町)を結ぶラインは、大湯環状列石の近くを通り、姫神山とパレルモを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図7)。姫神山は、二つのレイライン(図6、7)の指標となっています。

図7 姫神山、大台神社、大石神ピラミッドを結ぶラインと大湯環状列石、姫神山とパレルモを結ぶラインと護國山 観音院 久渡寺、岩木山、日照田観音(高倉神社)

 酒井勝軍は、葦嶽山と東北ピラミッドゾーンのつながりを示していますが1)、縄文時代の三内丸山遺跡と葦嶽山を結ぶラインは、大湯環状列石とオリンポス山を結ぶラインとほぼ直角に交差し、大湯環状列石とオリンポス山を結ぶラインの近くには、岩木山神社があります(図8)。

図8 大湯環状列石、葦嶽山、三内丸山遺跡を結ぶライン、大湯環状列石とオリンポス山を結ぶラインと岩木山神社

 千貫森(福島市飯野町)もピラミッドといわれますが、千貫森とパレルモを結ぶラインの近くには環状列石(山形県長井市)があり、このラインは、千貫森と同緯度にある彌彦神社と早池峰山を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図9)。彌彦神社と早池峰山を結ぶラインの近くには、成島三熊野神社・毘沙門堂(岩手県花巻市)があります(図9)。早池峰山は、二つのレイライン(図6、9)の指標となっています。

図9 千貫森、彌彦神社、早池峰山を結ぶラインと成島三熊野神社・毘沙門堂、千貫森とパレルモを結ぶラインと環状列石(山形県長井市)

 環状列石(山形県長井市)に比較的近い富神山(山形市)は端正な三角錐の山で、付近にはストーンサークルや古墳が見つかっています。環状列石(長井市)と富神山を結ぶラインは、熊野神社(熊野大社)(南陽市)とモン・サン・ミシェルを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図10)。熊野神社(熊野大社)(南陽市)とモン・サン・ミシェルを結ぶラインの近くには、水上八幡神社(鶴岡市)があります(図10)。富神山もピラミッドかもしれません。

図10 熊野神社(熊野大社)、環状列石(長井市)、富神山を結ぶライン、熊野神社(熊野大社)とモン・サン・ミシェルを結ぶラインと水上八幡神社

 酒井勝軍に感化され、飛騨地方にあるピラミッドの発見・調査を精力的に行った上原清二は、位山(岐阜県高山市)、日輪神社(高山市丹生川町大谷)などをピラミッドとしています1)。日輪神社と伊吹山を結ぶラインは、岩屋岩蔭遺跡とパレルモを結ぶラインとほぼ直角に交差し、岩屋岩蔭遺跡、伊吹山、日輪神社を結ぶラインの近くに、三輪神社(岐阜県揖斐郡揖斐川町三輪)、巨石群のある位山、飛騨一宮水無神社(岐阜県高山市一之宮町)があります(図11)。

図11 岩屋岩蔭遺跡、伊吹山、日輪神社を結ぶラインと三輪神社、位山、水無神社、岩屋岩蔭遺跡とパレルモを結ぶライン

 富山大学の教授が実地調査の結果ピラミッドであると結論した尖山(とがりやま)(富山県中新川郡立山町)1)と冠山を結ぶラインは、位山とオリンポス山を結ぶラインとほぼ直角に交差し、これらのラインの近くには九頭竜湖(福井県大野市)、石仏と奇岩群(岐阜県高山市)、猿ヶ馬場山(岐阜県大野郡)、御堂山(石川県金沢市)があります(図12)。位山は、二つのレイライン(図11、12)の指標となっています。

図12 位山、冠山、尖山を結ぶラインと九頭竜湖、石仏と奇岩群、位山とオリンポス山を結ぶラインと猿ヶ馬場山、御堂山

 科学的調査の結果、人工造山(ピラミッド)であることが確認され1)、世界最大で最古のピラミッド説のある皆神山(長野市松代町)には、熊野出速雄神社や富士浅間神社があります。日輪神社、皆神山、富士山を結ぶラインを引くと、日輪神社と皆神山を結ぶラインは、富士山とモン・サン・ミシェルを結ぶラインとほぼ直角に交差し、これらのラインの近くには、大山祇神社(長野県塩尻市奈良井)、甲斐善光寺(山梨県甲府市)、権現岳(山梨県北杜市)、聖山(長野県長野市)があります(図13)。

図13 富士山、日輪神社、皆神山を結ぶラインと大山祇神社、甲斐善光寺、富士山とモン・サン・ミシェルを結ぶラインと権現岳、聖山

 酒井勝軍がピラミッドとする東谷山(名古屋市)とパレルモを結ぶラインは、尾張國二ノ宮 大縣神社(愛知県犬山市)や冠山の近くを通り、このラインは、沖の白石の近くを通る小野神社(滋賀県大津市)と日輪神社を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図14)。日輪神社は、三つのレイライン(図11、13、14)の指標となっていますが、冠山も三つのレイライン(図2、12、14)の指標となっているので山を加工したピラミッドかもしれません。

図14 東谷山、小野神社、日輪神社を結ぶラインと沖の白石、東谷山とパレルモを結ぶラインと尾張國二ノ宮 大縣神社、冠山

 「ピラミッド・ストーン」や「ペトログラフ(古代岩刻文字)」で知られる岐阜県恵那市の笠置山は、静岡市の登呂遺跡とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くにあり、このラインは、笠置神社(恵那市)、岐阜県大和町三柱鳥居、九頭竜湖、白龍神社(福井県大野市)、永平寺(福井県吉田郡)の近くを通ります。また、このラインは、皆神山と豊受大神宮(外宮)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図15)。皆神山は、二つのレイライン(図13、15)の指標となっています。

図15 登呂遺跡、豊受大神宮(外宮)、皆神山を結ぶライン、登呂遺跡とギョベクリ・テペを結ぶラインと笠置山、笠置神社、岐阜県大和町三柱鳥居、九頭竜湖、白龍神社、永平寺

 ピラミッドともいわれる九州の久住山多良岳4)と葦嶽山をラインで結び三角形を描くと、多良岳と葦嶽山を結ぶラインは、久住山とマラケシュを結ぶラインとほぼ直角に交差し、久住山とマラケシュを結ぶラインの近くには、宗像大社(辺津宮、中津宮、沖津宮)があります(図16)。多良岳と葦嶽山を結ぶラインの近くには、須佐能袁神社(福岡県久留米市)、英彦山神宮(福岡県田川郡添田町)があり、葦嶽山と久住山を結ぶラインの近くには八幡竈門神社(大分県別府市)があります(図16)。葦嶽山は、三つのレイライン(図2、8、16)の指標となっています。

図16 久住山、多良岳、葦嶽山を結ぶラインと須佐能袁神社、英彦山神宮、八幡竈門神社、久住山とマラケシュを結ぶラインと宗像大社(辺津宮、中津宮、沖津宮)

 縄文系のC1a1系統は、旧石器時代に、東南アジアからスンダランドを北上して、日本列島に初めてやって来た人々であるともいわれ、大穴牟遅神(大国主神)が登場する因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)の説話にある、ワニをだます話は、マレー半島やインドネシアなどにも類話があるようです2)。スンダランドは、大スンダ列島の付近にあったタイの中央を流れるチャオプラヤー川が氷期に形成した広大な沖積平野の呼称で、紀元前12,000年頃から紀元前4,000年にかけての海面上昇により海底に没したといわれています。かつての瀬戸内海は平野で、瑜伽山のある倉敷市の下津井沖の備讃瀬戸海底からは、 日本に約250,000~16,000年前に生息していたナウマンゾウなどの化石が産出しています。

 古モンゴロイドとされる縄文人は、新モンゴロイド優性の東アジアの他集団と異なり、「スンダランド型」の歯列を持つものが多いという特徴があるようです。地中海からスンダランドに移動した人々は、スンダランドも大部分が水没したため、日本やアジア北東部に移住したのかもしれません。要石の信仰は、大陸経由の渡来人ではなく、海中に没した場所から渡来した民族の信仰だったと思われます。

 C1系統人集団は、新石器時代の貝文文化を日本列島にもたらした可能性が推定され、上野原遺跡は、約7,300年前の鬼界カルデラの噴火で滅亡したようです。しかし、熊本県宇土市の轟貝塚(とどろきかいづか)では、縄文時代早期末(約7,500年前)から後期中葉(約3,500年前)にかけて同じ系統の土器が見つかっていることから、九州の縄文人は全滅は免れたようです。韓国の釜山(プサン)にある東三洞(トムサンドン)貝塚からは、熊本県の阿高(あだか)貝塚から見つかった約5,000年前の貝面とよく似たものが見つかっています。

 インドネシアのジャワ島で見つかったグヌン・パダン遺跡は、インドネシアの地質学者ダニー・ヒルマン・ナタウィジャヤによると、9,000年から20,000年前に巨大なピラミッドとして建設されたとしています。北海道斜里郡斜里町にある斜里朱円周堤墓群は、土堤が円環状にめぐる縄文時代後期の遺跡ですが、斜里朱円周堤墓群とグヌン・パダン遺跡を結ぶラインは、大湯環状列石の近くを通り、徳島県阿波市沖縄県沖縄市を通ります(図17)。

図17 斜里朱円周堤墓群とグヌン・パダン遺跡結ぶラインと大湯環状列石、阿波市、沖縄市

 グヌン・パダン遺跡亀ヶ岡石器時代遺跡を結ぶラインは、沖縄本島の近くを通り、ギョベクリ・テペオリンポス山ラス・ダシャン山とつながっている岡山県倉敷市の瑜伽山(由加山)や、メンフィスとつながっている熊山遺跡の近くを通ります(図18)。

図18 グヌン・パダンと亀ヶ岡石器時代遺跡を結ぶラインと沖縄、瑜伽山(由加山)、熊山遺跡

 亀ヶ岡式土器は、遮光器土偶が出土した亀ヶ岡遺跡(青森県つがる市)の土器を基準とする縄文時代晩期の東北地方、南北海道の土器の総称で、奈良県橿原市の橿原遺跡などからも見つかっていますが、2017年には亀ヶ岡遺跡から約2,000km離れた沖縄市に近い沖縄県北谷町の平安山原B遺跡からも出土しています。これらのライン上の遺跡や都市は、古代には密接な関係があったと推定されます。亀ヶ岡石器時代遺跡が沖縄やスンダランドとつながっていることは、「甕の神(アラハバキ神)」と推定される遮光器土偶の目がウミガメの目を表していると推定されることと整合します。

 亀ヶ岡石器時代遺跡からは、土器についた炭化米が発見されています。プラントオパール分析の第一人者の総合地球環境学研究所教授の佐藤洋一郎氏は、縄文時代にすでに東南アジアや台湾から伝わったと考えられる熱帯ジャポニカ種が焼畑で栽培されており、それが縄文晩期に水田稲作へと移行したと主張しています3)。 

 図18のラインは、榎原神社(よわらじんじゃ)(宮崎県日南市)、青島神社(宮崎市)、西日本最高峰で日本七霊山の一つの石鎚山由加神社(岡山県和気町)、久久比神社(兵庫県豊岡市)、函石浜遺跡(京丹後市)の近くも通ります(図19)。

図19 図18のラインと榎原神社(宮崎県日南市)、青島神社(宮崎市)、石鎚山、瑜伽山、熊山遺跡、由加神社(岡山県和気郡和気町)、久久比神社(兵庫県豊岡市)、函石浜遺跡(京丹後市)

 大宜見猛氏は、周の太王古公の長子である太伯は、殷の通貨として用いられた宝貝の沖縄との交易に関わっていたと推定しています4)。京丹後市函石浜遺跡では、沖縄県具志頭城(ぐしがみぐすく)洞穴で発見された刀銭と同じ形状の燕の明刀銭が見つかっています。瀬戸内市邑久町の「邑久」の由来は「太伯」とされているので、邑久町で燕の明刀銭が見つかったことは、「太伯」と沖縄との関係を示していると思われます。

 沖縄具志頭村(ぐしちゃんそん)(現・八重瀬町)港川の採石場では、約18,000年前の旧石器人の港川人が発見され、Y染色体ハプロイドはC1と推定されていますが、ミトコンドリアハプロイドを調べると、現代人、弥生人、縄文人の祖先型の遺伝子を持つものの、現代人、弥生人、縄文人には直系の子孫は見つからなかったようです。元々はインドの東側にいた縄文系の森の民のD系統が、約1,300年続いたヤンガードリアス期に、北や東に移動しC1と混血し、同化していったと考えられています。琉球王のY染色体ハプログループは天皇家と同じくD系統です。ハプログループDは、現在の中国、朝鮮、東南アジアにおいて多数派的なハプログループO系統などとは分岐から7万年以上の隔たりがあるようです。

 岩田氏は、沖縄の久米島は昔から米の島として知られ、沖縄のニライカナイ信仰はメソポタミアの自然神信仰と一致することなどから、日本最初のコメはシュメール人の海人によって、インダスから南インドを経由して日本にもたらされた可能性が高いとしています5)。また、インドの西海岸にあるケララ州に伝わるカラリ・パヤットという武技は、沖縄や南九州に早くから伝えられた棒術の原型といわれているようですが、鹿島神宮の棒踊りが、鹿児島県や沖縄県黒島に残っている棒踊りとまったく同じ動きをすると指摘しています5)。鹿島神宮奥宮と沖縄市を結ぶラインの近くには、香取神宮道祖神(成田市)、姫宮神社(佐倉市)、妙見本宮 千葉神社(千葉市)、三筋山三島神社(南伊豆町青野)などがあります(図20)。

図20 鹿島神宮奥宮と沖縄市を結ぶラインと香取神宮、道祖神(成田市)、姫宮神社(佐倉市)、妙見本宮 千葉神社(千葉市)、三筋山、三島神社(南伊豆町青野)

 三戸大神宮と沖縄市を結ぶラインは、ヒスイ海岸(新潟県糸魚川市)、大日ヶ岳九頭竜湖、ギョベクリ・テペとつながる沖の白石石清水八幡宮(京都府八幡市)、ギョベクリ・テペとつながる大阪城、上野原遺跡とつながる龍宮総宮社、弘法大師(空海)ゆかりの御厨人窟・神明窟(高知県室戸市)の近くを通ります(図21、22)。沖縄県の縄文時代は約6,700年前から約2,300年前まで続き、遺跡からは、垂飾りに使われた糸魚川産のヒスイなども見つかっています。このことから、レイラインでは実際に、人や物の交流があったと推定されます。

図21 三戸大神宮と沖縄市を結ぶラインとヒスイ海岸、大日ヶ岳、九頭竜湖、沖の白石、龍宮総宮社
図22 図21のラインと石清水八幡宮、大阪城、御厨人窟・神明窟(高知県室戸市)

 福島県二本松市にある宗像三女神を祀る木幡山隠津島神社(おきつしまじんじゃ)とカンボジアのアンコール・ワットを結ぶラインの近くには、氣比神宮由加神社熊山遺跡大山祇神社報恩寺(大分県国東市)、宝八幡宮(大分県玖珠郡九重町)、岩戸神社(長崎県雲仙市)、香港などがあります(図23、24)。香港は天然の深い港湾を抱え、九龍半島を含みます。九龍は、九頭龍や八岐大蛇と関係があるかもしれません。

図23 隠津島神社とアンコール・ワットを結ぶラインと、気比神宮、熊山遺跡、岩戸神社
図24 図23のラインと気比神宮、気比の松原、由加神社、熊山遺跡、大山祇神社、報恩寺、宝八幡宮、岩戸神社

 アンコール・ワットは、12世紀前半に即位したスーリヤヴァルマン2世が、それまでの都城に代わり、隣接地に新王宮を建設した際、その南隣に国家鎮護のため建設したヒンドゥー教ヴィシュヌ派の寺院です。9世紀初頭に成立したクメール帝国(アンコール朝)はシヴァ派が主流でした。シヴァ神の偶像に描かれる姿や神話に語られる特徴は、ギリシャやヨーロッパの神々の持つ特徴と類似していることが知られています。

 沖縄市の東にある宮城島に縄文時代のシヌグ堂遺跡(うるま市)があります(図25)。シヌグ堂遺跡とアンコールワットを結ぶライン上に、台湾最大の港の高雄港があり、高雄市には、高雄関帝廟や海神の庇護に感謝するために建てられた「海神廟」があります(図25)。

図25 アンコールワットとシヌグ堂遺跡を結ぶラインと高雄関帝廟(高雄市)

 1986年に八重山諸島の与那国島(沖縄県八重山郡与那国町)南部の新川鼻沖の海底から、巨大な階段構造の海底地形が発見され、与那国島海底遺跡とも呼ばれ、人工の構造物ではないかとの議論がされています。琉球大学教授の木村正昭氏の潜水調査記録6)によると、海底遺跡からは「+」や「v」の形をした線刻石板や「牛」のレリーフと推定される円石などが見つかっています。地質学者でボストン大学准教授のロバート・ショック氏は、人工物と考えることは困難ですが、崇拝の対象とされ、人によって加工された可能性はあるとの説を唱えています。沖縄市の西にある北谷(チャタン)沖の海底からは階段状ピラミッドが見つかっているようです(日本古代史ミステリーコミュの沖縄海底ピラミッドとフェニキア人)。台湾の高雄関帝廟と神津島の月待塔(秩父山)を結ぶライン上に与那国島があります(図26)。

図26 高雄関帝廟(台湾高雄市)と月待塔(秩父山)(神津島)を結ぶラインと与那国島海底地形

 フェニキア人によって基礎が築かれたとされるパレルモとグヌン・パダンを結ぶラインは、ロドス島やインド西海岸のムンバイの近くを通ります(図27)。天然の良港に恵まれたムンバイの歴史は古く紀元前までさかのぼり、スンダランドがあった東南アジアは、インドを経由してエーゲ文明とつながっていたと推定されます。また、パレルモはイギリス南部のストーンヘンジとつながっているので、ストーンヘンジは、パレルモやグヌン・パダンを経由して大湯環状列石(図17)とつながります。

図27 パレルモとグヌン・パダンを結ぶラインとロドス島、ムンバイ

 アレクサンドリアとアンコール・ワットを結ぶラインの近くにインダス文明最大級の都市遺跡のモヘンジョダロがあります(図28)。

図28 アレクサンドリアとアンコール・ワットを結ぶラインとモヘンジョダロ

 モヘンジョダロとマチュ・ピチュを結ぶラインの近くにメンフィスがあり、マチュ・ピチュとアンコール・ワットを結ぶラインの近くに、古くから栄えたインドの西海岸の港湾都市であるマンガルールがあります(図29)。また、グヌン・パダン遺跡と先住民族の言葉で「神の国」を意味するモロッコのマラケシュを結ぶラインの近くにマンガルールやメンフィスがあります(図29)。メンフィスは熊山遺跡とつながっていますが、ピラミッドのあるグヌン・パダンともつながります。

図29 モヘンジョダロとマチュ・ピチュを結ぶラインとメンフィス、マチュ・ピチュとアンコールワットを結ぶラインとマンガルール、グヌン・パダンとマラケシュを結ぶラインとマンガルール、メンフィス

 ホモ・サピエンスが、南北アメリカ大陸に到達したのは、13,000年前ころとされ、アメリカ大陸の古代文明については、グラハム・ハンコックの著書があります7)。実松克義氏のボリビア・アマゾンにおける古代文明(モホス文明)に関する著書によると、南米の遺跡から日本の縄文土器に酷似した土器がみつかり、S字と逆S字状の文様を交差させたようなペトログリフなどが見つかっています8)。アマゾン熱帯雨林では、12,000年前の氷河時代の巨大動物など数千点の壁画も見つかっていて、ボリビア・モホス大平原にあるトリニダード周辺では、多数のロマ(土で盛り土をした場所)が発見されています。南米アマゾンにおける古代文明(モホス文明)では、紀元前4,000年ころにはトウモロコシの栽培が行なわれ、おそらくは、紀元前8,000年ころには根菜類を中心とする農業が成立していたとされています。

 メンフィスと地上絵で知られるナスカを結ぶラインの近くにクスコ、マチュピチュがあり、ナスカとマンガルールを結ぶラインの近くにトリニダードがあります(図30)。インカ帝国の前身となるクスコ王国は13世紀に成立しました。

図30 メンフィスとナスカを結ぶラインとクスコ、マチュ・ピチュ、ナスカとマンガルールを結ぶラインとトリニダード

 クスコは、インカ帝国の首都で文化の中心でした。パレルモとクスコを結ぶライン上にマラケシュがあります(図31)。 

図31 パレルモとクスコを結ぶラインとマラケシュ

 デルポイに世界の中心(へそ)があることから、オリンポス山を聖なる山とするオリエント発祥の民族が世界に広がったと思われます。アメリカ大陸へ移動する前は、ギョベクリ・テペが世界の中心(へそ)で、アララト山を聖なる山としていたのかもしれません。ギョベクリ・テペやオリンポス山とつながりがあり、九州の「へそ」にある15,000年の歴史を持つとされる幣立神宮が、世界平和を祈念していることと関係があるかもしれません。「クスコ」は、ケチュア語で「へそ」という意味なので、「へそ」は、地理的な「中心」の意味の他に、「レイラインの指標となる地点」を意味したのかもしれません。「クスコ」は、アイマラ語では山の神の化身でもある「フクロウ」を意味するようです。

 およそ2,000年前に描かれたナスカの地上絵を調査したシカゴのアドラー天文台のフィリップス・ピルガー博士は、巨大なクモはオリオン座のモデルとして描かれていること、そのまわりにある何本かの直線は、オリオン座のベルトにある星を追跡するためにつくられていることを示しました9)。ナスカ近郊の手を加えられた石や古代の道について、年老いたインディオたちの話として、インカ人が彼らを支配する以前に、灌漑水路を造り、農業や家畜の飼い方なども教えてくれたビラコチャと呼ぶ人々のためにつくったという話が残っています9)。青山和夫氏は、人工衛星、飛行機、ドローンから撮影された画像解析や現地調査によって、地上絵の種類が、神殿(ピラミッド)や山や居住地を結ぶルート(ネットワーク)と関係があることを示しています10)。モアイのあるイースター島もレイライン上にあるとする説があり、メンフィスとイースター島を結ぶラインは、ナスカやクスコの近くを通ります(図32)。

図32 メンフィスとイースター島を結ぶラインとクスコ、ナスカ

 ナンマトルは、ミクロネシア連邦のポンペイ州に残る人工島群の総称で、玄武岩の枠の内側をサンゴや砂で埋めて造ったものです。西暦500年頃から築かれ始め、ポンペイ島全土を支配する王朝(シャウテレウル王朝)が成立した1,000年頃から建設が本格化し、1,200年頃から1,500年(または1,600年)頃までに多数の巨石記念物が作り上げられました。その景観は「ミクロネシアのアンコールワット」などとも呼ばれますが、アンコールワットとナンマトルを結ぶラインは、ナンマトルとクスコを結ぶラインと直線でつながります(図33、34、35)。かつてアンコールワットの人々は、ナンマトルを経由して太平洋を横断したのかもしれません。

図33 アンコールワットとナンマトル、ナンマトルとクスコを結ぶライン
図34 アンコールワットとナンマトルを結ぶラインとナンマトルとクスコを結ぶライン(Google Earth使用
図35 ナンマトルとクスコを結ぶライン(Google Earth使用)

 紀元前1,000年頃から、スペインに侵略・破壊される16世紀まで、2,500年以上栄えたのがマヤ文明です。マヤ文明を代表するピラミッドが、チチェン・イッツァ遺跡のエル・カスティージョです11)。メンフィスとチチェン・イツァを結ぶラインの近くにシラクーサがあり、チチェン・イッツァとラス・ダシャン山を結ぶラインの近くにマラケシュがあります(図36)。このことから、エーゲ文明と古代アメリカ文明は古くから交流があったと推定されます。ドネリーは、エジプトのピラミッドとマヤのピラミッドは、共通の起源であるアトランティスに遡るとしています。日本のピラミッドもマラケシュとつながっているので、ピラミッドのルーツはマラケシュかもしれません。

図36 メンフィスとチチェン・イッツァ遺跡を結ぶラインとシラクーサ、チチェン・イッツァ遺跡とラス・ダシャン山を結ぶラインとマラケシュ

 2,020年に『ネイチャー』に発表された巨大基壇のあるアグアダ・フェニックス遺跡は、ほぼギョベクリ・テペとチチェン・イッツァを結ぶラインの延長線上にあり、このラインはスケリッグ・マイケルの近くを通ります(図37、38)。放射性炭素年代測定により、アグアダ・フェニックス遺跡の巨大基壇は、紀元前1,100年頃から建造され、紀元前750年頃まで増改築され続けたことがわかっています。巨大基壇は、人工的に整形された「神聖な山」で、その上には神殿ピラミッドや公共広場が配置されていました10)。形は異なりますが、ギョベクリ・テペと用途は似ているように思われます。

図37 アグアダ・フェニックス遺跡とギョベクリ・テペを結ぶラインとチチェン・イッツァ、スケリッグ・マイケル
図38 ギョベクリ・テペとアグアダ・フェニックス遺跡を結ぶラインとチチェン・イッツァ

 沖縄市とアグアダ・フェニックス遺跡を結ぶラインは、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)の近くを通り(図39)、沖縄市とチチェン・イッツァを結ぶラインは、熊野本宮大社(和歌山県田辺市本宮町)や日光東照宮(栃木県日光市)の近くを通ります(図40)。縄文人は、ベーリング海ルートを移動してアメリカ大陸にたどり着いたといわれています。米国オレゴン州中部のフォートロック洞窟(図40)からは、およそ1万500年前の世界最古のヨモギの樹皮を編んで作られたサンダルが見つかっています。

図39 沖縄市とアグアダ・フェニックス遺跡を結ぶラインと鹿島神宮
図40 沖縄市とチチェン・イッツァを結ぶラインと熊野本宮大社、日光東照宮

 オレゴン州のペイズリー洞窟(Paisley Five Mile Point Caves)では、14,500年前に生きた人間の糞が発見され、遺物のDNA分析の結果、縄文人と同じものだったようです12)。沖縄市とペイズリー洞窟を結ぶラインは、富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)や筑波山神社(茨城県つくば市)の近くを通ります(図41)。

図41 沖縄市とペイズリー洞窟を結ぶラインと富士山本宮浅間大社、筑波山神社

 富士山本宮浅間大社は、全国に祀られた1,300余の浅間神社の総本宮と称され、元の山宮(現在の鎮座地より北方約6キロ)は、社殿が無く古木・磐境を通して富士山を直接お祀りする古代祭祀の形を残しています。筑波山神社は、筑波山の南面中腹に拝殿があり、これより山上の境内地「筑波山」を御神体として拝する古代の形が維持されています。

 メキシコのテオティワカンの遺跡には、南北を縦断する「死者の道」と呼ばれる大通りがありますが、この道を延長するとハドソン湾に達することが知られています13)。約10,600年前からの遺跡がある上野原遺跡上野原縄文の森)とテオティワカンの太陽のピラミッドを結ぶラインは、剣山、おのころ島神社、石清水八幡宮(京都府八幡市)、南宮大社岩代国一之宮 伊佐須美神社(福島県大沼郡会津美里町)の近くを通ります(図42、43)。

図42 上野原縄文の森とテオティワカンの太陽のピラミッドを結ぶラインと岩代国一之宮 伊佐須美神社
図43 図42のラインと上野原縄文の森、剣山、おのころ島神社、石清水八幡宮、南宮大社、伊佐須美神社

 1961年に米国の考古学者クリフォード・エヴァンスらは、エクアドルのバルディビア丘陵の貝塚から、ペルー地方で発掘された土器片とよく似た様式の土器片を見つけ、その後の調査で、この土器片は九州南部で出土する縄文土器と同型であることを発見しています1)。三内丸山古墳と太陽のピラミッドを結ぶラインのほぼ延長線上にバルディビアがあります(図44)。

図44 三内丸山遺跡とバルディビア(エクアドル)を結ぶラインと太陽のピラミッド(テオティワカン)

 NPO法人国際縄文学協会の佐治 芳彦氏によると、環太平洋学会では、日本のピラミッドと同じ様式の遺跡が、韓国やインドネシア、太平洋諸島、さらに中南米に散在していることから、古代の環太平洋文明の存在の可能性を主張しています。ランド・フレマスの「アトランティス・ブループリント理論」14)は、かつての世界規模の海洋文明においてアトランティス人が中心的な役割を果たし、世界の聖なる遺跡は、各地で独立して造られたものではなく、全地球的な壮大なる設計図により配置されていたとしています。古代オリエント、エーゲ文明、古代アメリカ文明などの遺跡と日本の神社や遺跡との直線的な(最短距離での)つながりは、地球レベルのネットワークがあったことを示していると考えられます。

文献
1)並木伸一郎 1998 「不思議発掘! 縄文超文明と日本ピラミッドの謎」 二見書房
2)門田眞知子(編) 2008 「因幡の白兎神話の謎」 今井出版
3)河合 敦 2019 「世界一受けたい 日本史の授業」 二見レインボー文庫
4)飛鳥昭雄(プロデュース)、大宜見猛(著) 2014 「沈んだ大陸 スンダランドからオキナワへ」 ヒカルランド
5)岩田 明 2004 「消えたシュメール王朝と古代日本の謎」 学習研究社
6)木村正昭(編著) 2000 「与那国島海底遺跡・潜水調査記録」 ザ・マサダ 
7)グラハム・ハンコック 大地舜・榊原美奈子/訳 2020 「人類前史(上)失われた文明の鍵はアメリカ大陸にあった」 双葉社
8)実松克義 2004 「衝撃の古代アマゾン文明」 講談社
9)コリン・ウィルソン 川瀬 勝(訳) 1997 「アトランティスの遺産」 角川春樹事務所
10)青山和夫(編) 2023 「古代アメリカ文明」 講談社現代新書
11)志村史夫 2023 「古代世界の超技術」 改訂新版 講談社
12)田中英道 2022 「日本国史 上」 育鵬社
13)コリン・ウィルソン 松田和也(訳) 2006 「アトランティスの暗号」 学習研究社
14)コリン・ウィルソン、ランド・フレマス 松田和也(訳) 2002 「アトランティス・ブループリント」 学習研究社