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温故知新(35)明治天皇 源頼朝 織田信長 明智光秀 豊臣秀吉 徳川家康

 福井県小浜市の神宮寺は、若狭一宮 若狭彦神社の神願寺として成立しましたが、豊臣時代に寺領を没収され、さらに明治初期の廃仏毀釈によって衰微しました。神宮寺では、東大寺のお水取りに合わせて「お水送り」の儀式が行われます。東大寺の大仏の金メッキには秦氏が関わったとされ、大量の水銀が使用されたようです。神宮寺と畝傍山を結ぶ南北のライン上に、明治政府が京都遷都1100年を記念して建立した桓武天皇と孝明天皇を祀る平安神宮や、明治天皇陵があります(図1)。明治天皇陵は、豊臣秀吉の築いた伏見城の本丸跡地にあり、近くに桓武天皇陵があります。畝傍山の麓の神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされる地に、明治天皇が建立した橿原神宮(かしはらじんぐう)があります。橿原神宮の地には、以前から宇迦能御魂神を祀る長山稲荷社がありました。明治天皇の生母は権大納言・中山忠能の娘・中山慶子で、中山家は、藤原北家花山院家の支流にあたる公家・華族です。

図1 神宮寺(小浜市)と畝傍山を結ぶラインと平安神宮、明治天皇陵

 鶴岡八幡宮は、鎌倉幕府を築いた源頼朝の祖先源頼義が、京都の石清水八幡宮を勧請したことに始まり、応神天皇、神功皇后、比売神の三柱を祭神としています。鶴岡八幡宮とオリンポス山、アララト山を結ぶラインは、それぞれ、雲取山と金峰山(きんぷさん)を通ります(図2)。雲取山は三峰山の最高峰で、三峯神社の由緒は、当山大縁起によると日本武尊が伊弉諾尊・伊弉册尊を祀ったのが始まりとされます。また、金峰山は、日本武尊が東征の折、この地に鎧をおさめたという話が伝わっています。これらは、八幡宮に祀られている八幡神は、倭建命という推定と整合します。また、大物主大神大国主神と同様に、八幡神も山の神と考えられます。

 八幡神は武運の神「弓矢八幡」として崇敬を集めましたが、応神天皇はその腕の肉が弓具の鞆(ほむた)のように盛り上がっていたとされ、鞆の表側には巴/鞆絵(ともえ)が描かれています。建部大社末社の弓取神社に祀られ、弓の名人として知られる弟彦公は五百城入彦皇子と推定されますが、子である品陀真若王も弓の名人だったと思われます。応神天皇の名前(誉田別尊、品陀和気命)は品陀真若王に由来すると推定され、八幡神が倭建命とすると、八幡宮と丹生氏の紋がいずれも巴(鞆絵)紋であることが理解できます。山の神で弓術に長けていたので、アルテミスの神格に似ています。

図2 鶴岡八幡宮とオリンポス山、アララト山を結ぶラインと雲取山、金峰山

 鎌倉幕府3代将軍源実朝は、1219年に、公暁(実朝の兄である2代将軍源頼家の子)に暗殺されたとされていますが、『愚管抄』には、兜巾(山伏がかぶっている頭巾)をつけた法師に討たれたと記されているようです。公暁の乳母は桓武平氏良文流の三浦義村の妻で、公暁は、近江国の園城寺(おんじょうじ)長吏公胤から灌頂を受け、同寺で修行したのち、建保五年(1217年)に鶴岡八幡宮寺別当となっています。園城寺の本尊は弥勒菩薩で、開基は渡来系豪族と考えられている大友与多王です。

 茨城県南部には、武甕槌命を祀る鹿島神社が多くあり(図3)、土浦市沖宿町の鹿島神社は、鎌倉時代の創建とされ、江戸時代には、神祇官の卜部兼成より正一位の位を授けられたようです。卜部氏は大中臣氏より出た卜部宿禰、卜部朝臣などの子孫ともいわれます。卜部兼直は、1206年に『日本書紀』、1225年に『古語拾遺』を筆写しています。卜部兼方は、13世紀後半に『古事記』、『日本書紀』の欠を補う史料として評価が高い『釈日本紀』(しゃくにほんぎ)を残しています。卜部兼好(吉田兼好)、兼益、兼夏、兼豊、兼成、兼繁、吉田兼煕(1348-1402)という系譜があるようです。

図3 鹿島神社(沖宿町 赤印)

 『古語拾遺』では、豊玉姫命(卑弥呼)と推定される倭文神(建葉槌神)を「天羽槌雄神」(あめのはづちのおのかみ)としていますが、本書は斎部氏の正統性を回復するために天太玉命の子孫とされている斎部広成が807年に編纂したものなので、男神のような名前の「天羽槌雄神」は後世に創作されたものと思われます。「天羽槌雄神」の名前は、孝元天皇(大国主命)と推定される「欝色雄命」や、開花天皇と推定される「伊香色雄命」などの名前とも類似しています。それぞれの妹とされ、古代天皇系図に孝元天皇と開花天皇の后として載っている欝色謎命伊香色謎命も同じ氏族による創作と思われます。

 「天羽槌雄神」は、服部神社(はとりじんじゃ)の祭神になっています。大阪府豊中市服部の服部天神宮(はっとりてんじんぐう)の由緒によると、「秦氏」が允恭天皇の代に織部司に任じられ、当地を服部連の本拠としたようです。奈良市西九条町の倭文神社に常陸国から「武羽槌雄神」を勧請した中臣時風(なかとみのときふう)、秀行(ひでつら)は、秦氏と関係があったと考えられます。室町時代14世紀の『鹿島立神影図』(かしまだちしんえいず)にある武甕槌神と経津主神に従った随身は中臣時風と秀行と考えられています。春日大社の神主は中臣氏で、鹿島の神が御蓋山に迎えられたとき、お供をしてきた中臣時風・秀行の子孫といわれています。

 服部氏の系譜には諸説があり、『平家物語』によると桓武平氏忠正流とされ、楠木氏(伊予橘氏)や秦忌寸の末流とする説もあります。服部氏には、徳川家康に仕えた服部正成(服部半蔵)がいます。河内国を中心に活躍した楠木氏は『系図纂要』などでは伊予橘氏(越智氏の分家)の末裔とされ、越智氏は、大和国高市郡越智荘(現・奈良県高市郡高取町付近)を支配した豪族です。高市郡は、中臣鎌足が生まれた地で、『日本書紀』欽明天皇段に「蘇我大臣稲目宿禰等を倭国の高市郡に遣して」とあり、『古事記』雄略天皇段に「倭のこの多気知に小高る市の高処」とうたわれています。

 日本に来て秦氏と呼ばれるようになった弓月国の人々は、景教徒(ネストリウス派キリスト教徒)ではなかったかという説があります1)。弥勒信仰は、56億7千万年後に、いわばキリストに当たる弥勒仏がこの世に出現してきて、悩める衆生を救うという教えだそうです2)。広隆寺の弥勒菩薩半跏像の右手の形は、キリスト像の右手の形と似ているともいわれています(出典:京都最古の寺・広隆寺ー古代キリスト教寺院説の謎 中村 昂)。中臣氏歴代にも津速産霊命、市千魂命、伊香津臣命、雷大臣命など「雷」に関係した神名・人名が見られ、「建御雷神」(たけみかづちのかみ)や「天羽雷命」(あめのはづちのみこと)の「雷」は、ゼウスや旧約聖書のヤハウェが雷を武器に使うことに由来して付けられた名前かもしれません。

 織田信長は、ポルトガル人宣教師フロイスらの求めに応じて、キリスト教を保護し、教会の建設にも協力しました。織田家の家紋として最も知られている織田木瓜は、尾張国の守護大名で主君でもあった「斯波氏」(しばし)から下賜されたもので、織田木瓜の基になる「木瓜紋」(もっこうもん)は、奈良時代に唐から伝わったといわれています。神紋としては、八坂神社の五瓜紋を始めとする全国の祇園神社の多くが木瓜紋を神紋としています。

 豊臣秀吉が石山本願寺跡地に築いた大阪城は、多氏一族のまつる多坐弥志理都比古神社(多神社)とギョベクリ・テペ(アララト山を通る)を結ぶライン上にあります(図4)。また、水神である高龗神(たかおかみのかみ)を祀る貴船神社と、同じく水神の闇龗神(くらおかみのかみ)を祀る丹生川上神社下社を結ぶラインの近くに伏見城と多神社があります(図5)。これらのことから、秀吉は多氏だったと思われます。秀吉のY染色体ハプログループは、猿田毘古神と同じ、縄文系の日本固有種であるC1a1系統と推定されています。

図4 多坐弥志理都比古神社とギョベクリ・テペを結ぶラインと大阪城
図5 貴船神社と丹生川上神社下社を結ぶラインと伏見桃山城、多神社

 1615年に徳川家康が築かせた名古屋城は、16世紀の前半に今川氏親が、尾張進出のために築いた「柳ノ丸」が起源とされますが、名古屋城とギョベクリ・テペを結ぶライン上には氣比神宮があります(図6)。織田信長に討たれた今川義元は、清和源氏義国流足利氏系の氏族です。家康の嫡男である松平信康は、武田氏との内通などを理由に切腹させられています。信康の母親の築山殿は、今川一門の関口親永(瀬名義広)の娘で、関口親永は、松平元康(徳川家康)が、信長と同盟(清洲同盟)を結んだことで、今川氏真の怒りを買い切腹させられています。

図6 名古屋城とギョベクリ・テペを結ぶラインと氣比神宮

 岩田 明氏は、「源氏」の由来は「月氏」、「平氏」の由来は「日氏」が転訛したものと推定しています3)。「月氏」と「日氏」は古代インドで二大勢力として覇を競っていた王朝名で、月読命(月神、白)と天照大神(太陽神、赤)が対応するとしています。漢の孝文帝(在位:前180年 - 前157年)の時代に匈奴配下の右賢王の征討により、月氏王が殺され、その頭蓋骨は盃(髑髏杯)にされたようですが、織田信長は、討ち取った浅井久政・長政及び朝倉義景の髑髏を髑髏杯にしたという逸話があります。織田信長の先祖は平重盛桓武平氏 平清盛の嫡男)の子孫で「劔神社」の神主(忌部氏)の養子になったという説が有力とされ、近江浅井氏は物部姓守屋流とする説があります。ギリシアのヘロドトスは、スキタイの風習について「スキタイは、敵の将の首を取り、その頭蓋骨で酒盃をつくり、外側に牛の皮を張り、さらに内部を金箔でおおった。」と記しているようです。

 岐阜県恵那市明智町にある八王子神社の境内には、明智光秀が建立したと伝わる柿本人麻呂神社と光秀が手植えしたと伝わるカエデの木があります。柿本臣は、孝昭天皇後裔を称する春日臣の庶流に当たります。また、明知町とオリンポス山を結ぶラインは、八王子神社(岐阜県瑞浪市日吉町)、白龍神社(福井県大野市下山)、白山神社(福井県勝山市片瀬町)などの近くを通り、また、ライン上に九頭竜湖があり、加賀市の南西を通ります(図7)。したがって、明智家は、和珥氏の後裔で、白山比咩大神で龍神の豊玉姫命と関係があると推定されます。

図7 明智町とオリンポス山を結ぶラインと八王子神社、白龍神社、白山神社など

 宣教師ルイス・フロイスは『日本史』に、明智光秀の子女は「非常に美しく優雅でヨーロッパの王族を思わせるようだった」と記しているようです。光秀の娘である玉は、細川忠興の正室となり、細川ガラシャとしても有名ですが、光秀の血統は現在の皇室に強く入っているようです4)。和珥氏の後裔とされる小野篁は、『野馬台詩(歌行詩)』の注釈によれば、かぐや姫と同様に、竹から生まれたといわれます。平安時代前期9世紀頃の女流歌人小野小町は、小野篁の後裔とされています。光秀の娘が和珥氏のDNAを受け継いでいるとすると美人であったことが理解できます。

 『竹取物語』の作者とする説がある紀氏の紀貫之の墓所は滋賀県大津市比叡山中腹の裳立山にあります。比叡山は元伊勢籠神社や貴船神社とつながっているので、『竹取物語』の「竹」は元伊勢籠神社の「籠」と関係付けていると思われます。紀貫之は『竹取物語』の作者と推定され、貴船神社と関係があると推定される開花天皇(鸕鶿草葺不合尊)や和珥氏の台与(姥津媛)とも関係があると推定されます。かぐや姫が月の世界に帰るのは、月の女神のアルテミスと関係付けているのかもしれません。

 織田信長を討った明智光秀は、美濃国の源姓土岐氏流明智氏で、足利義昭に仕えた後、織田信長に仕えています。兵庫県丹波市・丹波篠山市に、光秀が築城した金山城がありました。10世紀頃から比叡山延暦寺と園城寺の対立抗争が激化し、戦国時代に入ると、織田信長と延暦寺の対立が深まり、元亀2年(1571年)に園城寺に本陣を置いた信長によって比叡山焼き討ちが行われました。発掘調査によって、比叡山で焼けたのは根本中堂や大講堂などの限られたところで、大部分の場所は火事の痕跡がなかったことが明らかになっているようです。光秀は、比叡山の焼き討ちに関わっていましたが、経典や高僧を「独断で助けた」と伝えられ、光秀が坂本城主になると、比叡山延暦寺を手厚く保護しています。

 光秀は天正10年(1582年)の山崎の戦いの後に農民の落ち武者狩りに遭い竹槍で刺されて亡くなったとされていますが、光秀が存命していたとする説がいくつかあります。比叡山の叡山文庫には、俗名を光秀といった僧の記録があり、天正10年以後に、比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っています。光秀は和珥氏の後裔と推定されますが、比叡山は貴船神社とつながりがあり、和珥氏とも関係があったと推定されます。また、図4から、貴船神社は、多氏ともつながっているので、光秀と秀吉も近い関係にあったと推定されます。

 比叡山の麓に鎮座する日吉大社は、崇神天皇7年に創祀された、全国の日吉・日枝・山王神社の総本宮です。秀吉は尾張中村に生まれ、幼名は日吉丸といいました。秀吉と家康は山王信仰が篤く、比叡山には、日吉三橋などの建造物がこの時代に構築されています。したがって、光秀、秀吉、家康は信仰でつながっていて、比叡山の焼き討ちを命じた信長は共通の敵となったと思われます。近年の発掘調査によって、本能寺は「寺」というよりむしろ「城郭」に近い構造だったことが判明し、本能寺の変は、本格的な城攻めに近い焼き討ち作戦だったと推測されていることからも、比叡山の焼き討ちの報復だったと思われます。日光に明智平と呼ばれる区域があり、家康の側近の天海僧正が名付けたという伝承があり、光秀は家康を京から逃がしたのではないかと思われます。天海僧正の墓所は、明智光秀の居城があった近江坂本の慈眼堂にあり、慈眼堂とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くに日吉大社、日吉大社奥惣社、八王子山があります(図8)。天海僧正が伊勢船木直の船木氏で、開花天皇と関係があるとすると、和珥氏の後裔と推定される明智光秀とは近い関係にあったと考えられます。

図8 慈眼堂(滋賀県大津市坂本)とギョベクリ・テペを結ぶラインと日吉大社、日吉大社奥惣社、八王子山

 秀吉が、信長に毛利攻めの応援要請をしなければ、光秀は出陣の準備ができず、本能寺の変は成立しなかったと考えられ、また、秀吉が光秀の首実検をしているので、秀吉は本能寺の変に係わっていて、織田家に隠して光秀の命を救ったのではないかと思われます。

 南北朝時代から室町時代初期の三河国松平郷の領主(あるいは国人)だった 松平信重(まつだいら のぶしげ)は、『松平村誌』の「松平氏由緒書」では賀茂氏や鈴木氏の一族といわれます。後に信濃国からこの地を訪れた旅の僧徳阿弥は、信重の末娘水女の娘婿として家を継ぎ親氏(ちかうじ)と称し、徳川家の始祖松平太郎左衛門親氏となりました。「海老すくい」を得意芸とする徳川四天王の酒井忠次は、松平氏の譜代家臣・酒井忠親の次男で、その祖先を遡ると親氏と兄弟あるいは婚姻関係での兄弟といわれます。「海老すくい」は、神楽の恵比寿舞(ゑびすまい)にも通じるとされます。

 酒井氏の家紋は新田氏以来の片喰紋で、一族や子孫は、それに装飾を加えた「丸に片喰」や「丸に剣片喰」などの家紋を用いたようです。片喰は、鏡草と言い、古代の日本では、その葉をすりつぶして鏡の表面を磨く為に使用されたようなので、天目一箇神(加具土命)と関係があるかもしれません。また、『柳営秘鑑』には、徳川家の「三つ葉葵」の家紋が、酒井氏より由来することが詳細に記載されているようです。二葉葵は賀茂氏の象徴で、葵紋は上賀茂神社の神紋として使用されていますが、植物のフタバアオイには三つ葉のものは非常にまれで、三つ葉葵は架空のものとされます。「三つ葉葵」の葉柄が左に曲がっていることから、八幡神社系の紋である「左三つ巴」を意識していると思われます。徳川家が、賀茂氏と丹生氏の血統を持つことを表しているように思われます。

  家康が祖先の地とした徳川郷(群馬県太田市尾島町)は丹生神社(富岡市下丹生)と同緯度にあり、丹生神社と徳川郷を結ぶラインの近くに多胡碑があります(図9)。また、丹生神社と尾島町を結ぶラインと徳川町とオリンポス山を結ぶラインの交点の近くに、世良田東照宮(太田市)があります(図9)。これらのラインから、新田氏や徳川氏は、丹生氏と関係があると推定されます。

図9 丹生神社(群馬県富岡市)と尾島町(群馬県太田市)を結ぶラインと多胡碑、徳川町とオリンポス山を結ぶラインと世良田東照宮、元島名将軍塚古墳、徳川忠長の墓、金山城跡

 丹生神社の近くにある丹生城(富岡市上丹生)は戦国時代は、新田景純が城主でした。多胡碑の北には徳川忠長の墓があります(図9)。金山城(太田市)は、家康が先祖筋とした新田氏の岩松家純により築城された中世の山城で、岩松家純は、天海僧正と関わりがあったようです。岩松氏の不遇に同情した下野国壬生藩・武蔵忍藩主の阿部忠秋の推挙により、岩松氏が新田氏の庶流であることが将軍徳川家綱に認められたともいわれています。阿部忠秋の祖父である阿部正勝は、徳川家康の1歳年長で、家康の幼少期から側近くに仕えた人物です。徳川譜代の阿部氏は、始祖が孝元天皇の第一皇子阿部大彦命であると自称しています。

 徳川氏(松平氏)の菩提寺の大樹寺とギョベクリ・テペを結ぶラインは熱田神宮南宮大社の近くを通り伊吹山を通ります(図10)。このことから松平信重は、伊福部氏だったと推定されます。「大樹」は征夷大将軍の唐名で、丹生氏系図の「大樹」は「品陀真若王」と推定されますが、「大樹寺」の寺号は、増上寺開山聖聡の孫弟子の勢誉愚底(せいよぐてい)が、松平氏から将軍が誕生することを祈願して命名されたと伝えられています。蔦紋(つたもん)は、松平氏が用い、8代将軍である徳川吉宗が用いたことから広まったとも言われます。

図10 大樹寺とギョベクリ・テペを結ぶラインと熱田神宮、南宮大社、伊吹山、金山彦神社

 世界中に共通の死と再生の神というモチーフがあり、ディオニュソスやオシリスもかつて農耕神であったことを反映していると考えられています。「蔦」はディオニュソスの聖樹で、『古事記』には、出雲建(品陀真若王と推定)が持っていた剣には黒葛(葛藤(つづらふじ)・葛の別称)が巻いていたと記されています。ディオニュソスは「若いゼウス」の意味なので「真若王」や「若宮」の名前と関係があると推定され、『古事記』で、出雲建と黒葛(蔦)を結びつけることで、出雲建がディオニュソス=品陀真若王であることを暗示しているのではないかと思われます。

 岡崎市には、3代将軍・徳川家光が創建した滝山東照宮(たきさんとうしょうぐう)があり、諏訪大社上社本宮と結ぶラインの近くに松平東照宮があります(図11)。徳川家康が生まれた「岡崎城」は、別名 龍ヶ城とも呼ばれ、岡崎城の北にある「大樹寺」を結ぶ約3kmの直線は「ビスタライン」と呼ばれています。

図11 滝山東照宮と諏訪大社上社本宮と結ぶラインと松平東照宮

 岡崎城(天守)と9500年前の新石器時代から金石併用時代の世界最古の都市遺跡とされるアナトリア地方のチャタル・ヒュユクを結ぶラインの近くに南宮大社や氣比神宮があります(図12)。地母神と推定される女性像の見つかっているチャタル・ヒュユクは、ギョベクリ・テペとパルテノン神殿やアルテミス神殿を結ぶラインの近くにあり、また、アララト山とロドス島を結ぶラインの近くにあります。

図12 岡崎城(天守)とチャタル・ヒュユクを結ぶラインと南宮大社、伊吹山、氣比神宮

 鹿島神宮の摂社の高房神社(たかふさじんじゃ)には、建葉槌神(倭文神)が祀られ、楼門(随神門)の方角を向いて建っています。古くから、まず高房神社を参拝してから本宮を参拝する習わしがあるようです。徳川家の始祖の親氏は丹生氏だったと思われ、徳川家康は高房神社に先祖の豊玉姫命を祀ったと思われます。

 徳川家康は、関ヶ原の合戦で、「大黒天」の頭巾を模した「歯朶具足」(しだぐそく)という兜(かぶと)を着用しています。また、家康が実際に着ていた羽織に、黄色に白い波ウサギ柄の「黄金色地葵紋波兎文辻ケ花染羽織」がありますが、菟道彦(大国主命)を表していると推定されます。家康は、今川家の人質時代は優遇されていたようです。武田信玄は甲斐源氏ですが、家康が三方ヶ原の戦いで大敗しても討たれなかったのは、源氏の氏神である八幡神(倭建命と推定)と関係があるとされたためかもしれません。家康は、勝頼父子の亡骸を埋めた場所に景徳院を建立し、信長が焼いた武田家の菩提寺の恵林寺も再建しています。徳川家康は、明治14年(1881年)に、豊玉比売命(卑弥呼と推定)、玉依比売命(台与と推定)、彦火火出見命(山幸彦 大国主命)と合祀され、玉井宮東照宮(たまいぐうとうしょうぐう)に祀られています。

 現在皇居となっている徳川家の居城だった江戸城の前身は、扇谷上杉家の家臣で摂津源氏の流れを汲む太田道灌が1457年に麹町台地の東端に築いた平山城でした。太田道灌は、武将としても学者としても一流という定評があったようです。江戸城は、氣比神宮と意富比神社(船橋大神宮)を結ぶラインの近くにあり(図13)、また、香取神宮、富士山、日前神宮・國懸神宮を結ぶラインの近くに増上寺があります(図14 写真1)。増上寺は、安土桃山時代に徳川家康が関東の地を治めるようになってまもなく、徳川家の菩提寺となっています。江戸時代には大山咋神(加具土命と推定)を徳川家の氏神としています。

図13 氣比神宮と意富比神社を結ぶラインと江戸城本丸跡
図14 香取神宮と日前神宮・國懸神宮を結ぶラインと増上寺、富士山、江戸城本丸跡
写真1 増上寺

 江戸城本丸跡とオリンポス山を結ぶラインの近くには、川越熊野神社川越氷川神社鬼鎮神社榛名神社(上野國六宮)などがあります(図15)。榛名神社は、用明天皇元年(586年)に祭祀の場が創建されたと伝えられてます。川越氷川神社は欽明天皇の時代に創建されたと伝えられ、室町時代に太田道灌が川越城を築城して以来、城の守護神・当地の総社として崇敬されてきたそうです。川越熊野神社は、家康が秀吉の命で関東に移封され、江戸城に入城した1590年に、紀州熊野から分祀された開運・縁結び・厄除けの神社です。徳川家康は、太田道灌のオリンポス山と結ばれたレイラインを継承したと考えられます。

図15 江戸城本丸跡とオリンポス山を結ぶラインと川越熊野神社、川越氷川神社、鬼鎮神社、榛名神社

 桓武平氏の三浦半島の三浦一族は滅亡しますが、義村の娘矢部禅尼の血筋が、長い年月を経て、徳川家康の側室・お万の方にたどりつくとされ、お万の方の子は、紀伊藩と水戸藩の祖となり、徳川光圀のほか、紀州藩出身の徳川将軍8代吉宗から15代慶喜までが、血筋にあたるようです。徳川光圀の名前にある「圀」の字は武周の「則天文字」の一つです。奈良県天理市に紀州徳川家が寄進した阿保親王在原業平(ありわらのなりひら)を祭神とする在原神社(在原寺跡)がありますが、阿保親王は、平城天皇の子で桓武天皇の孫です。

 徳川家康は、江戸に幕府を開くにあたり、江戸・芝桜田山(東京都港区、愛宕山)に防火の神様として愛宕神社を勧請したとされていますが、元は「勝軍地蔵菩薩」を観請したのが始まりのようです。徳川家康の「しかみ像」は、徳川美術館の台帳記録によると紀伊徳川家から嫁いだ従姫(よりひめ)の所持品で、徳川美術館の学芸員だった原史彦氏は、片手を頬に当て片足を組んだ仏像のようなポーズなどから、「武神として礼拝向けに描かれたと見なす方が合理的」と話しています。「しかみ像」は、弥勒菩薩に似た半跏姿の藤原鎌足の「大織冠像」と似ています。

 『大日本史』は、江戸時代に御三家のひとつである水戸徳川家当主徳川光圀によって開始され、光圀死後も水戸藩の事業として二百数十年継続し、明治時代に完成しています。編纂に当たって、光圀は林鵞峰を藩邸に招いて幕府政治の正統性などについて面談しています。林鵞峰は、藤原惺窩(ふじわら せいか)の門弟である林羅山の三男で、藤原惺窩は、藤原北家御子左家(二条家)の流れを汲む公家の冷泉為純の三男です。また、日本へ亡命した明朝遺臣である朱舜水を招聘していますが、特に、南北朝時代の南朝方武将楠木正成の忠誠心を示唆されたようです。楠木正成を滅ぼした足利尊氏を逆賊とする評価は、江戸時代に徳川光圀が創始した水戸学に始まります。

 岡山県和気郡和気町日笠下や、邑久郡長船町福岡にあった丹生神社は、江戸時代に辰砂はご禁制の石だったこともあり、儒教を信奉した藩主の池田光政により神捨てにあったようです。池田光政の曽祖父の池田恒興織田信長の重臣で、池田光政は、岡山城並びに城郭の鎮守として徳川家康を祀る東照宮を勧請するにあたり、豊玉比売命を祀る玉井宮を遷座しています。岡山城を築城した宇喜多秀家は「丸に剣片喰」を家紋としていますが、池田侯の定紋は「蝶」で桓武平氏の代表的家紋です。1666年には、水戸藩や岡山藩で寺院破却(廃仏毀釈)が行われています。

 戊辰戦争では、会津藩主・松平容保や庄内藩主・酒井忠篤は、朝敵とされました。荘内神社(山形県鶴岡市)は、宝永5年(1708年)に鶴ヶ岡城内に創建された神社で、酒井家四柱を祀っていますが、徳川四天王の初代酒井忠次、2代家次は家康の家臣です。3代忠勝は最初の荘内領主で、9代忠徳は荘内藩主です。荘内神社は、三峯神社奥宮と藻岩山を結ぶラインの近くにあり(図16)、三峯神社奥宮は、丹生都比売神社を介して上野原遺跡とも結ばれているので、酒井氏は丹生氏と関係があると推定されます。新潟県東蒲原郡阿賀町にある御神楽岳(みかぐらだけ)は、神々への奉納神楽が聞こえる山といわれ、古くから信仰の対象とされてきた山で、福島県会津美里町にある伊佐須美神社縁起によると、四道将軍大毘古命建沼河別命の親子が蝦夷を平定するため北陸道と東海道に派遣された際に出会った土地を「会津」と名付け、天津岳山頂に諾冉二神を祀ったのが起源とされ、のちに御神楽岳と号したといわれています。

図16 三峯神社奥宮と藻岩山を結ぶラインと御神楽岳、荘内神社

 出羽三山は、山形県の中央にそびえる羽黒山・月山・湯殿山の総称で、約1400年前、崇峻天皇(厩戸皇子と推定)の御子の蜂子皇子が開山したと言われています。荘内神社の近くには神楽館跡や神楽という地名があります(図17)。蜂子皇子は、現在の山形県鶴岡市由良にたどり着いた時、八乙女浦にある舞台岩と呼ばれる岩の上で、八人の乙女が笛の音に合わせて神楽を舞っているのを見て、その美しさにひかれて、近くの海岸に上陸したといわれています。「蜂子」の「蜂」は、天津神の吉数の「八」と関係があると思われますが、もしかすると、アルテミスと融合した女神キュベレーの象徴である「蜂」と関係があるかもしれません。

図17 三峯神社奥宮と藻岩山を結ぶラインと荘内神社、神楽館跡、神楽、羽黒山、月山、湯殿山

 荘内神社と橘寺を結ぶラインは、彌彦神社蓮華岳日輪神社大鳥神社の近くを通ります(図18)。酒井氏のルーツは崇峻天皇と関係があり、そのため、徳川家が酒井氏を荘内藩主としたのかもしれません。蜂子皇子の伝承がある鶴岡市の荘内神社が、聖徳太子の橘寺と結びついていることは、蜂子皇子の父である崇峻天皇が厩戸皇子(聖徳太子)と推定されることと整合します。

図18 荘内神社と橘寺を結ぶラインと彌彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村)、蓮華岳(長野県大町市)、日輪神社(岐阜県高山市丹生川町)、大鳥神社(滋賀県甲賀市)

 明治維新時、137家ある堂上家のうち93家が藤原北家だったようです。西郷隆盛の祖先は、藤原氏の菊池則隆の長男です。徳川慶喜は、藤原北家と繋がりのあった水戸藩出身なので、江戸城が無血開城された理由が理解できます。楠木正成は明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈されています。

 「王者のハプログループ」によると皇室のY染色体ハプログループはD1系統で、百済、出雲王朝はC2系統、中臣氏、藤原氏、新羅・朴氏王統、明はO1系統、北魏、高句麗、秦、漢はO2系統で、多氏と推定される豊臣秀吉は縄文系のC1a1です。古代には多氏(C系統と推定)の尾張氏(伊福部氏)が大王家(D系統)に后妃を出していますが、乙巳の変の後、蘇我氏(O2系統と推定)に代わり、中世には藤原氏(中臣氏)(O1系統)が天皇家の外戚となり、秦氏とつながった藤原北家が政治を動かすようになりました。大王家(D系統)は維持されましたが、特に白村江の戦い以降、O系統の豪族は、D系統やC系統の縄文系の豪族と天皇家との関係を歴史から排除してきたと考えられます。

 中臣氏の祖の天児屋根命のY染色体は、新羅と同じハプログループO1b2a1aであると推定され、O1b2a1a1系統は日本人集団の25%が属しているようです。言語とミトコンドリアDNA(母系遺伝子)の変異の間よりも、言語とY染色体(父系遺伝子)の変異の間の相関が密接であるという1997年の発見に基づいて、人間は父親の言語を話す傾向があるという仮説(父系言語仮説)が提唱されています。

文献
1)坂東 誠 2016 「秦氏の謎とユダヤ人渡来伝説」 PHP文庫
2)宮田 登 2023 「弥勒」 講談社学術文庫
3)岩田 明 2004 「消えたシュメール王朝と古代日本の謎」 学研
4)安藤 渉 2023 「神の社は何故そこに」 日本橋出版