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温故知新(34)足利尊氏 靭負神社 備前長船 藤原 友成 天寿国曼荼羅繍帳 三葉空木

 備前刀工の横山祐定(すけさだ)系図によれば、小野氏を祖とする横山氏の先祖は崇神天皇の6年に剣をうって献上し、その功によって位祿を賜り、第16代仁徳天皇の代に、湯桂郷(現在の瀬戸内市長船町)に勧請して、鍛冶の祖神としたのが、崇神天皇社といいます。長船から吉井川の上流10km程度に位置する奥吉原地区の辺谷製鉄遺跡などでは、6世紀後半の製鉄・鍛冶に関連する遺構・遺物が確認されています。靭負神社(崇神天皇社)にある天王社刀剣の森の松は、清和源氏の一流河内源氏義国足利氏尊氏がこの地で再起を祈願し、願いが叶った御礼に九州日向から持ち帰り寄進した松の子孫で日向松と呼ばれています。

 足利荘(あしかがのしょう)は、下野国足利郡(栃木県足利市)にあった荘園で、源義国が「八幡太郎」と称した父の源義家から伝えられた開発地を、安楽寿院に寄進したことことから成立し、河内源氏重代の家人である藤原秀郷流の藤原姓足利氏が支配しました。足利市緑町にある總社 八雲神社は、日本武尊命が東征の途中、出雲大社の祭神を勧請したのが創建と伝えられています。足利市大門通にある八雲神社とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くに足利織姫神社赤城神社(三夜沢)があり、八雲神社とほぼ同緯度に、元島名将軍塚古墳があります(図1)。源義家は7歳のとき、石清水八幡宮(京都府八幡市)で元服しているので、「八幡太郎」は、八幡神(倭建命)の子孫を表しているのかもしれません。

図1 八雲神社(足利市大門通)とギョベクリ・テペを結ぶラインと足利織姫神社、赤城神社(三夜沢)、元島名将軍塚古墳

 鎌倉時代に播磨国に移り住んだ中村氏や大河原氏が属した播磨守護赤松氏は、家紋に三つ巴があり、村上源氏の一流で鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて播磨を領した豪族です。足利尊氏に味方し、尊氏が一時形勢不利に陥り九州へ西下している間は新田義貞の勢力を赤穂郡の白旗城で釘付けにして、1336年の湊川の戦いにおいて尊氏を勝利に導く要因となりました。チャタル・ヒュユクと赤松氏のルーツである播磨国赤穂郡赤松(兵庫県赤穂郡上郡町赤松)を結ぶラインの近くには、大神山神社(鳥取県米子市尾高)、大神神社 奥宮(鳥取県西伯郡大山町)、美作國一之宮中山神社(津山市一宮)があり、赤松とパレルモを結ぶラインの近くには、サムハラ神社奥宮(津山市加茂町)、伯耆稲荷神社(鳥取県東伯郡琴浦町)、日御碕神社(鳥取県西伯郡大山町御崎)があります(図2)。

図2 チャタル・ヒュユクと赤松(兵庫県赤穂郡上郡町赤松)を結ぶラインと、大神山神社、大神神社 奥宮、中山神社、赤松とパレルモを結ぶラインと、サムハラ神社奥宮、伯耆稲荷神社、日御碕神社(兵庫県赤穂郡上郡町)

 1590年(天正18年)に起こった、吉井川の大氾濫により、長く盛隆を極めていた「備前長船派」は壊滅状態に陥り、このため新刀期(江戸時代中期、1596年~1771年)に入る頃には、各地の大名は、美濃(現在の岐阜県)の刀工を召し抱えるようになったようです。

 石川県鹿島郡中能登町の雨の宮古墳群は、和珥氏の墓と推定されますが、江戸時代に加賀、能登、越中の3国の大半を領地とした加賀藩の家老の横山家など、全国の多くの横山氏が、そのルーツは小野篁(おののたかむら)を祖とする武蔵七党の「横山党」であるとしています。小野氏は、天足彦国押人命を氏祖とする和珥氏の枝氏です。

 備前国長船では、新刀期より明治の廃刀令まで横山一派が栄えました。初代の横山加賀介祐永(横山加賀介藤原朝臣祐永)は、自ら「友成五十六代孫」と銘し、菊花紋を許され、嘉永4年(1851年)に、57歳で没しています。「藤原」の名は、鎌足の生地・大和国高市郡藤原(のちの藤原京地帯、現 橿原市)にちなむとされていますが、祐永の銘にある「藤原」は、『続日本紀』に、「和気郡は元は邑久郡の一部であり、721年(養老5年)に赤坂郡・邑久郡両郡から割譲した地域を藤原郡とし、藤原郡が東野郡(藤野郡)と名称を変えた」とあるので、靭負神社があったと推定される藤原郡に由来すると思われます。元々の「藤原」の地名は、藤蔓で作ったざるで砂鉄を選別するために2)、藤を多く植えたことに由来するのかもしれません。

 「藤原」の姓は、中臣鎌足が第38代天智天皇に賜ったとされていますが、藤原の姓は、市区町村では岡山市が最も多く、備前焼の人間国宝の藤原啓、藤原雄親子は、岡山県備前市穂浪(当時の和気郡伊里村穂浪)出身です。岡山県久米郡美咲町藤原の「藤原」は、古墳時代の天皇である第19代允恭天皇の妃だった衣通郎姫御名代部の藤原部に由来すると伝えられているようです。

 長船町土師の木鍋八幡宮(きなべはちまんぐう)は、天智天皇の皇子の第49代光仁天皇の時代に、藤原北家の備前守藤原朝臣雄依が大和国奈良郡から木閇神社に八幡宮を勧請して木鍋八幡宮としたとされます。光仁天皇は高野新笠との間に桓武天皇をもうけています。岡山市東区の窪八幡宮(くぼはちまんぐう)は、第58代清和天皇の時代に、備前国上道郡窪の庄内の領主藤原朝臣藤井左馬之進弘清が、窪庄内の氏神若宮の地に宇佐神宮より八幡神を勧請したとされます。足利尊氏が備前国福岡に滞陣中、窪八幡宮に参詣し、社領として田畑二十余町を寄進されたことが記録されているようです。

 友成(ともなり)は、平安時代中・後期の備前国の刀工で古備前派を代表する名工で最古の代表作には名物「鶯丸(うぐいすまる)」の太刀(御物)がありますが、友成の銘のある刀は作風から時代が異なり、友成は一人ではなかったと考えられています3)。初代横山加賀介祐永の「友成五十六代孫」に続き、二代横山加賀介祐永は「友成五十七代孫」、祐永の兄、祐盛の養子となった祐包(すけかね)は、俊吉、俊左衛門と称し、「友成五十八代孫」と茎(なかご)に銘を切っています(写真2)。

写真2 横山祐包「友成五十八代孫」明治3年作刀の茎の銘

 「友成」の銘は、備前鍛冶の祖である古備前友成の遺業を継いでいることを表すためとされています。「友成六十代孫」を名乗った備前長船鍛冶の流れをくむ最後の刀工、横山元之進祐定は、潜龍士(せんりゅうし)と号し、昭和天皇御成婚の記念刀などを残し、1930年に78歳で没しています4)。

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