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温故知新(25)秩父神社 宝登山神社 八意思金命(加具土命 虚空蔵菩薩) 天之御中主神(豊受姫命 妙見菩薩) 日本武尊 武蔵国造 宝莱山古墳 白井塚古墳 アルテミス神殿

 秩父神社(写真1)の主祭神は、秩父国造の始祖知知夫彦命の祖神の八意思金命ですが、思金が黒い鉄(くろがね)の意味で鉱山鍛治師の首領のことのようなので、八意思金命は加具土命と思われます。八意思金命は学問の神でもあり、知恵の菩薩である虚空蔵菩薩でもあると推定されます。虚空蔵菩薩の五つの智恵を五色で表しているので、籠神社の高欄上の五色の座玉は加具土命と関係があるかもしれません。秩父神社には、鎌倉時代に、天の中央の神ということから北極星の神格化である妙見菩薩と習合されるようになった天之御中主神が合祀されています。

写真1 秩父神社

 中世の伊勢神道では豊受大神を天之御中主神と同一視し、始源神と位置づけています。倉敷市児島にある瑜伽山(由加山)には、由加神社本宮の他に、約1300年前、行基菩薩により創建された十一面観世音菩薩を本尊とする由加山蓮台寺があります。また、瑜伽山の奥宮として、妙見菩薩を祀る妙見宮があります(図1)(写真2、3)。妙見信仰は、インドで発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星・北斗七星信仰と習合し、仏教の天部の一つとして日本に伝来したものとされます。天之御中主神は、『古事記』では、天地開闢において最初に現れる根元神とされ、妙見菩薩と習合されるようになりました。

図1 瑜伽山(由加山)にある由加神社本宮、由加山蓮台寺、妙見宮
写真2 妙見宮 入口
写真3 妙見宮

 出雲大社では『古事記』に記された、天地開闢の時にあらわれた天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神の造化の三神を含む別天津神(ことあまつかみ)の祭祀が古い時代から行われていたようです。出雲大社は、社殿は南向きであるのに対して、御神座は西向きになっています。また、出雲大社には海とのつながりを示す神事があり、古代の出雲大社の社殿は 直接海に接していたのではないかと考えられています。出雲大社の注連縄しめなわ)は、左右が逆に張られていますが、出雲大社では古来、他の神社とは反対に神様に向かって左方を上位とし、縄の綯(な)い始めを左にしているのは、尊貴第一の神である「天之御中主神」が一番左に祀られているためといわれています。御神座が西向きであるのは、出雲大社の西にある、豊受大神と結びついているギョベクリ・テペ(図2)と関係があるのかもしれません。

図2 ギョベクリ・テペと出雲大社

 ギョベクリ・テペと、武甲山(妙見山)に近い天之御中主神が祀られている秩父神社を結ぶラインは、石川県輪島市の権現岩(トトロ岩)の近くを通り、長野県埴科郡坂城町の虚空蔵山や上田市にある虚空蔵山の近くを通ります(図3)。虚空蔵山(上田市)の登山口には、保食神(うけもちのかみ)を祀る座摩神社(ざまじんじゃ)があります。秩父神社とスサを結ぶラインの近くには、長野県佐久市にある虚空蔵山や、松本市にある虚空蔵山があり、松本市の虚空蔵山の南側山腹にある岩屋社には、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が祀られています。天之御中主神が豊受姫命(保食神)とすると、これらは、加具土命(虚空蔵菩薩)と豊受姫命(妙見菩薩)の夫婦関係を示しているのかもしれません。また、秩父神社とスサを結ぶラインの近くには、八王子神社(長野県大町市)があります(図3)。

図3 ギョベクリ・テペと秩父神社を結ぶラインと権現岩(トトロ岩)、虚空蔵山(長野県埴科郡坂城町)、虚空蔵山(上田市)、武甲山、秩父神社とスサを結ぶラインと虚空蔵山(佐久市、松本市)、八王子神社

 成田山新勝寺の大本堂の回廊裏手には、大日如来、虚空蔵菩薩、聖徳太子が祀られています。密教の教義を、大日如来を中心とした諸尊の配置によって図示した曼荼羅には、胎蔵界曼荼羅金剛界曼荼羅があります。胎蔵界曼荼羅の中央の中台八葉院には、大日如来を中央に、四如来、四菩薩が描かれ、下部の虚空蔵院には、虚空蔵菩薩を中心に、計24の諸菩薩が描かれています。金剛界曼荼羅で、最も重要な成身会(じょうじんね)には、大日如来を中心に四如来などが描かれ、諸菩薩の他、四大神(地、水、火、風)も描かれています。高野山真言宗 但馬妙見 日光院のブログにもあるように、天之御中主神は、大日如来に相当するのではないかと思われます。

 東京都府中市にある大國魂神社は、武蔵国の守り神として出雲の大国主神と同神の大國魂大神を祀っています。出雲氏(出雲国造の氏族)の祖神天穂日命の後裔が武蔵国造に任ぜられ、代々の国造が社の奉仕を行ったと伝わっています。パレルモと大國魂神社を結ぶラインは、新潟県糸魚川市一の宮にある天津神社・奴奈川神社、碓氷峠、秩父神社の近くを通ります(図4)。天津神社は越後国一宮を称し、景行天皇の時代の創建と伝えられ、孝徳天皇の勅願所であったと伝えられています。能褒野神社と大高山神社は、パレルモと大國魂神社を結ぶラインに対してほぼ対称の位置にあり、秩父神社、能褒野神社、大高山神社を頂点とする三角形のラインは、翼を広げた鳥のようにも見え(図4)、出雲市の上塩冶築山古墳から出土した金銅製冠の形にも似ているように思われます。あるいは、オリンポス十二神のアテナやアルテミスは、弓術に長けた女神なので、弓と矢をあらわしているのかもしれません。秩父神社には、1953年(昭和28年)に、秩父宮雍仁親王(ちちぶのみややすひとしんのう)が合祀されています。

図4 パレルモと大國魂神社を結ぶラインと天津神社・奴奈川神社、碓氷峠、秩父神社、大國魂神社、秩父神社と能褒野神社と大高山神社を頂点とする三角形のライン

 天津神社・奴奈川神社と能褒野神社を結ぶラインの近くには、白山神社(岐阜県高山市上宝町)、飛騨一宮 水無神社(岐阜県高山市一之宮町)、尾張猿田彦神社(愛知県一宮市)があります(図5)。天津神社・奴奈川神社、能褒野神社、大國魂神社、大高山神社を結ぶとほぼ菱形になり、能褒野神社と大國魂神社を結ぶライン上には、日本仏教三大霊山の一つ身延山(みのぶさん)があります(図5)。

図5 天津神社・奴奈川神社、能褒野神社、大國魂神社、大高山神社を結ぶラインと白山神社(高山市上宝町)、飛騨一宮 水無神社(高山市一之宮町)、尾張猿田彦神社(愛知県一宮市)、身延山他

 アテナは、「都市の守護女神」として崇拝され、アテネのアクロポリスにパルテノン神殿を持ち、フクロウを自己の聖なる動物として持っていました。起源的には、ギリシア民族がペロポネーソス半島を南下して勢力を伸張させる以前より、多数存在した城塞都市の守護女神であったと考えられています。秩父神社の本殿北側の中央には、「北辰の梟」が彫刻されています(写真4)。豊受姫命(妙見菩薩)は、大日如来と関係があると推定されるアテナと関係があるのかもしれません。

写真4 秩父神社の本殿北側にある「北辰の梟」の説明書

 秩父神社とメンフィス博物館を結ぶラインの近くには、荒船山釈尊寺(長野県小諸市)、白鳥神社(長野県東御市)、信濃国分寺(上田市)があります(図6)。白鳥神社は、日本武尊の伝説を縁起とする神社です。

図6 秩父神社とメンフィス博物館を結ぶラインと荒船山、釈尊寺、白鳥神社、信濃国分寺

 日本武尊の伝説で知られる宝登山(長瀞町)からは武甲山などが展望できます(写真5)。東の麓に神武天皇(神日本磐余彦尊)・山の神の大山祇神・火の神火産霊神を祀る寳登山神社(宝登山神社)があり、宝登山の頂上付近に宝登山神社 奥宮(写真6、7)があります。奥宮の近くには、石船神社(茨城県城里町)や角掛神社(岩手県滝沢市)などにもある龍のような藤の木があります(写真8)。

写真5 宝登山から武甲山を望む
写真6 宝登山神社 奥宮
写真7 宝登山神社 奥宮の説明板
写真8 宝登山山頂付近にある藤の木

 諏訪大社上社本宮と鹿島神宮を結ぶラインの近くに秩父神社があり、寳登山神社の西に宝登山、宝登山神社奥宮、諏訪大社下社があります(図7)。また、寳登山神社の本殿の後方向には、不動山、朝日岳、天香山命を祀る彌彦神社があります(図8)。このことから、寳登山神社は、倭建命(孝元天皇 天香山命 大国主命)を祀っていたのではないかと思われます。寳登山神社には、日本武尊みそぎの泉があり、宝登山を訪れたのは、品陀真若王だったのかもしれません。

図7 諏訪大社上社本宮と鹿島神宮を結ぶラインと秩父神社、諏訪大社下社秋宮、寳登山神社
図8 寳登山神社と彌彦神社を結ぶラインと不動山、朝日岳

 秩父今宮神社は日本有数の古社で、信州諏訪の勢力が西暦100年前後に秩父に移住、武甲山からの霊泉に「水神」を祀ったのが始原といわれます。1535年に京都の今宮神社から須佐之男大神を勧請したようです。秩父今宮神社は、千木の形から女神を祀っていると考えられ、千木の下には、常陸二ノ宮静神社と同様に渦巻文様があります(写真9)。境内には八大龍王宮があります(写真10)。秩父今宮神社とアレクサンドリアを結ぶラインの近くに高良玉垂命を祀る高良神社(小鹿野町)があることから(図9)、龍上観音・龍神観音は豊玉姫命と推定され、秩父今宮神社の主祭神は豊玉姫命だったと推定されます。

写真9 秩父今宮神社
写真10 八大龍王宮
図9 秩父今宮神社とアレクサンドリアを結ぶラインと高良神社(小鹿野町)

 大國魂神社の摂社の坪宮社(国造神社)の祭神は天穂日命(月読命と推定)の8代後の初代武蔵(无邪志)国造兄多毛比命です。荏原台古墳群(えばらだいこふんぐん)は、武蔵国造本宗の墳墓と見る説があり、4世紀前半の宝莱山古墳があります。東京都大田区田園調布にある宝莱山古墳とアルテミス神殿を結ぶラインは、深大寺(東京都調布市)、小鹿神社(埼玉県秩父郡小鹿野町)、熊野出速雄神社(皆神神社)(長野市野町)の近くを通ります(図10)。大国主命(山幸彦、菟道彦、孝元天皇と推定)はアルテミスとみなされたと推定され、武蔵国造は宇摩志麻治命(大国主命と推定)を祖とする物部氏と同族なので、宝莱山古墳の被葬者は兄多毛比命と推定されます。

図10 宝莱山古墳とアルテミス神殿を結ぶラインと深大寺、小鹿神社、熊野出速雄神社

 宝莱山古墳と武蔵国分寺跡のほぼ中間にある白井塚古墳(狛江市)とアルテミス神殿を結ぶラインは、八王寺(竹寺)(飯能市)、武甲山の近くを通ります(図11)。白井塚古墳の墳頂部には、鳥居が建てられていて、その奥には稲荷大明神(豊受大神と推定)の祠が祀られています。築造は5世紀後半から6世紀前半と推定されていますが、武蔵国造の墓と推定されます。白井塚古墳は、同様にアルテミス神殿とつながっている白井塚本古墳群(兵庫県朝来市)と関係があると思われます。

図11 白井塚古墳とアルテミス神殿を結ぶラインと八王寺(竹寺)、武甲山、宝莱山古墳、大國魂神社、武蔵国分寺跡

 アルテミスは、オリンポス十二神の一柱とされますが、その名は古典ギリシア語を語源としていないと考えるのが妥当とされています。アルテミスは、ギリシアの先住民族の信仰を古代ギリシア人が取り入れたものと考えられ、元は、植物の豊穣や多産を管掌する地母神だったと推定されています。古代日本が、ギリシアの先住民族と関係があるとすると、「オノコロ」が、ギリシャ語の「オムファロス」に転訛したと推定されることと適合します。

 国造制は西日本に6世紀中葉(あるいは前半)に施行され、東日本には遅れて6世紀後半に施行されたとするのが一般的です1)。東日本を対象とした崇峻2年(589)の境界画定事業は蘇我氏が主導したもので、境部をを統括する伴造氏族として蘇我氏から境部氏(蘇我境部臣)が分出され、馬子の弟の摩理勢(まりせ)がその氏上に就任しています1)。しかし、宝莱山古墳や白井塚古墳の築造推定年から、4世紀前半から5世紀後半には、武蔵国造が就任していたと考えられます。『日本書紀』安閑元年(534)閏12月是月条にある、武蔵国造の職をめぐって笠原直使主と同族の小杵(おき)が争った結果(武蔵国造の乱)、使主が、横渟・橘花・多氷・倉樔の四処の屯倉を献上したという話は創作と思われます。

文献
1)鈴木 正信 2023 「日本古代の国造と地域支配」 八木書店