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温故知新(15)垂仁天皇(高野御子大神 狩場明神 神奴君) 金蔵山古墳 狭穂彦王 狭穂姫命 日葉酢媛命 五十瓊敷入彦命 鐸石別命(聖徳太子) 弘法大師(空海) 土師氏

 丹生氏の系図から、第10代崇神天皇が「豊耳命」とすると、御子である「神奴小牟久(神奴君)」が、第11代垂仁天皇(すいにんてんのう)と推定されます。「神奴(かみやっこ)」は、神社で雑役に従事した者をいいますが、垂仁天皇は、『古事記』に、石棺を作る部民や赤土で種々の器を作る部民を定めたとあります。『魏志』倭人伝や『日本書紀』などに、古代の日本では殉葬の風習があり、『日本書紀』では、野見宿禰日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める代わりに埴輪を発明したという話が載っていますが、日本では、それを実証する考古学的事実はないようです。垂仁天皇は、自ら天皇(大王)の後を追って殉死することを禁じたのではないかと思われます。

 垂仁天皇の名前は、『日本書紀』では、活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)で、「目」や「イリ」は、オシリスと関連すると思われます。「いさち」は、「幸が多い」という意味かもしれません。『上宮記』では、伊久牟尼利比古(いくむにりひこ)大王と記され、「小牟久」と関連付けているように思われます。

 大阪府富田林市龍泉にある咸古神社(こんくじんじゃ)は、神八井耳命を祀っていて、この一帯はかつて紺口県(こむくのあがた)と呼ばれていたことから、「神奴小牟久」の「小牟久」は「紺口」で、地名と考えられます。『新撰姓氏録』河内国皇別に神八井耳命の後裔であるという「紺口県主」が登載されていて、この氏族が紺口県を支配したようです。南河内郡河南町に寛弘寺古墳群(4世紀中頃〜7世紀後半)があります。『新撰姓氏録』では、神奴氏は、摂津国神別・天神・神奴連とされ、天兒屋根命の後裔のようです。神奴(かみやっこ、しんど)という苗字は、大阪に比較的多く分布しています。

 『古事記』には、旦波(たには)の氷羽洲比賣命(ひばすひめのみこと 日葉酢媛命)の御子の印色入日子命(いにしきのいりひこのみこと 五十瓊敷入彦命)が、血沼(ちぬ 茅渟)池、狭山池、日下(くさか)の高津池を作ったと記されています。第16代仁徳天皇は、灌漑用水として感玖大溝(こむくのおおみぞ、大阪府南河内郡河南町辺り)を掘削し、広大な田地を開拓したといわれています。河南町の南西4kmほどの所に咸古神社があり(図1)、咸古神社とギョベクリ・テペを結ぶラインは、丹生津姫命(稚日女尊)を祀っていると推定される生田神社(神戸市中央区)の境内を通ります(図1)。ラインの近くには、大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)のある百舌鳥古墳群(もずこふんぐん)があります。ヤマト政権が実行した大規模な治水工事が、仁徳天皇の業績に仮託された可能性も指摘されていますが1)、感玖大溝の工事は、垂仁天皇の代より始まっていたと思われます。

図1 咸古神社(富田林市)とギョベクリ・テペを結ぶラインと生田神社(神戸市)、
土師神社(鳥取県智頭町)、百舌鳥古墳群、土師町、河南町

 古代豪族だった土師氏は、古墳時代の古墳造営や葬送儀礼に関った氏族で、天穂日命の末裔と伝わる野見宿禰が埴輪を発明し、第11代垂仁天皇から土師臣(はじのおみ)の姓を与えられたと言われています。備前国邑久郡土師郷一帯は、飛鳥京跡出土の木簡では「大伯郡土師里」と呼ばれ、「土師寅」が米を送ったことが墨書されており、土師氏が本拠地としていた所です。また、備前市南部から瀬戸内市内には古墳時代から平安時代にかけての須恵器窯跡が点在し「邑久古窯跡群」と呼ばれています。

 もともとは備前焼(写真1)は伊部焼(いんべやき)と呼ばれ、備前焼の発祥には忌部が関わっていると考えられています。忌部の人々は、朝廷の祭祀や儀式で用いる祭具を作っていました。備前市伊部にある天津神社(あまつじんじゃ)(図2)は、少彦名命、菅原道真、天太玉命、大巳貴命を祀っていますが、天津神社の境内末社の一つで、天津神社の西、伊部北大窯跡の近くにある忌部神社は、陶祖の天太玉命を祀っています。天津神社の北、和気町大田原に由加神社(ゆがじんじゃ)があります(図2)。

図2 天津神社(備前市伊部)、由加神社(和気町)

 卑弥呼の墓と考えられる箸墓古墳で見つかった特殊な土器は、吉備の工人によって作られたという説があります。密教における宝瓶は「ほうびょう」と読み、入門の儀礼である灌頂で使う水瓶(すいびょう、みずがめ)のことだそうです。十一面観音は水瓶を持ち、その中には功徳水という使ってもなくならない水が入っているといわれます。仏教では自然を構成する「地・水・火・風・空」を五大元素とし、観音菩薩は水の化身とされています。

写真1 備前焼 宝瓶(ほうひん)金重陶陽作(人間国宝)1896-1967

 紀元前2世紀に古代ギリシャで制作されたアテネの古代アゴラで見つかったアフロディーテ像も、水瓶を手に下げて持っています。ミロのヴィーナスはその体重移動や構成から「水瓶を持ったヴィーナス」であったとされている説が有力のようです。また、クレタ島のクノッソス宮殿から見つかった壁画には、水瓶を持った女神 または 女神官と推定されている女性が描かれています(写真2)。

写真2 クノッソス宮殿の壁画 イラクリオン考古学博物館
出典:http://yuuhis.travel.coocan.jp/queenelizabeth.hp/queen9cretemuseum.htm

 岡山県の長船町や健部町などに「土師」という地名があります。咸古神社とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くに、鳥取県八頭郡智頭町埴師にある土師神社(はじじんじゃ)があります(図3)。また、八頭郡八頭町土師百井に「白兎神社」の摂社の土師百井神社があり、兵庫県たつの市、福知山市にも土師という地名があります(図3)。たつの市揖西町土師は一族が居住した地で、土師神社(はぜじんじゃ)があります。大阪府堺市に土師町(図3)があり、羽曳野市・藤井寺市に、古市古墳群(ふるいちこふんぐん)がありますが、藤井寺市、三ツ塚古墳を含めた道明寺一帯は、「土師の里」といわれています。土師氏は、垂仁天皇の代以降に、吉備から河内に移動したと推定されます。

図3 土師という地名、土師神社

 咸古神社に隣接する高野山真言宗の寺院「龍泉寺」は推古天皇二年(594年)に蘇我馬子が創建したと伝えられていますが、下記の縁起によると、蘇我馬子は龍信仰ではなかったようです。

伝説ではかつて、嶽山の中腹、この寺の境内にある池には悪龍が棲んでいたと伝えられている。寺伝によれば推古天皇2年(594年)に蘇我馬子が勅命を受けて建立したとされる。しばらくののち、悪龍の報復により境内の池と麓の水脈が枯れてしまったと伝えられる。弘仁14年(823年)に空海(弘法大師)がこの地を訪れたと伝えられ、祈祷によって雨水を得て、境内の池には水が湛えられ、この時池の中に3つの小島ができたとされる。空海はこの島に小さな社を建て、聖天、弁才天、叱天を祀り、牛頭天王を鎮守としたという。

出典: 「龍泉寺」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 丹生氏の系図によると、神奴君は、「祭丹生都比売大神 高野神為神奴奉仕」とあり、丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)を奉斎したようです。弘法大師空海高野山金剛峯寺を開いた際に地主神たる丹生都比売神社から神領を譲られた、とする伝説が知られています。また、『金剛峯寺建立修行縁起』によると、弘仁7年(816年)に空海は、高野御子大神(たかのみこのおおかみ 狩場明神)の化身である「南山の犬飼」という2匹の犬を連れた猟者に案内されたといわれています。高野御子大神(狩場明神)は、神奴君(垂仁天皇)と推定されます。

 『丹生大明神告門(のりと)』によると、ニウツヒメはイザナミの御子で、はじめ紀井国伊都郡庵田(あんだ)に天降り、神地を求めて遷幸し、最後に天野原の現在地に至り鎮座したといわれ、その後、応神天皇から紀ノ川から南、有田川に至る広大な土地を神領として与えられたといわれています2)。『日本書紀』には、神功皇后が紀伊の古老から「天野の祝(はふり)」(丹生都比売神社の神職)をめぐる伝承を聞く場面があります。

 丹生都比売神社(写真3、4)は、埴山姫命を祭神とする三重県多気郡多気町丹生に鎮座する丹生神社と罔象賣神、建岩龍命を祭神とする大分市佐野の丹生神社を結ぶラインの近くにあり、このラインの近くには丹生川上神社(中社、上社、下社)や剣山があります(図4)。このラインは、ほぼ中央構造線に沿っています。また、丹生都比売神社は、伊弉諾尊、伊弉册尊を祀る三峯神社奥宮鹿児島県上野原遺跡を結ぶラインの近くにあります(図5)。上野原には、縄文時代の早期から縄文文化が築かれていました。また、このラインの近くには、巨大な磐座で知られる徳島県阿南市の龍宮総宮社があります(図5)。

写真3 丹生都比売神社
写真4 丹生都比売神社
図4 丹生神社(三重県多気町)と丹生神社(大分市佐野)を結ぶラインと丹生都比売神社、丹生川上神社(中社、上社、下社)、剣山
図5 三峯神社奥宮と上野原遺跡を結ぶラインと丹生都比売神社、龍宮総宮社(阿南市)

 空海(弘法大師)は、816年に、第52代嵯峨天皇(在位809~823年)より、高野山の地を賜っています。高野山金剛峯寺(写真5)とオリンポス山を結ぶライン上には丹生都比売神社や、瓊杵命(饒速日命)と丹生津姫命(市杵島姫命)の墓があると推定される天王山古墳群があります(図6)。

写真5 高野山金剛峰寺
図6 金剛峯寺とオリンポス山を結ぶラインと丹生都比売神社、天王山古墳群

 阿南市の舎心ヶ嶽は弘法大師(空海)が19歳のときに虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)修行をした聖地ですが、阿南市の大楠の御神木がある大宮八幡神社と富士山を結ぶライン上に高野山金剛峰寺があります(図7)。ほぼこのラインに沿って高野山奥之院に続く参道(写真6)があり、ラインの付近には長谷丹生神社(紀美野町)、丹生神社(高野町湯川)、丹生川上神社(中社、上社、下社)などが分布しています(図8)。

図7 大宮八幡神社(阿南市)と富士山を結ぶラインと高野山金剛峰寺
写真6 高野山奥之院参道
図8 大宮八幡神社(阿南市)と富士山を結ぶラインと高野山金剛峰寺、奥之院、長谷丹生神社(紀美野町)、丹生神社(高野町湯川)、丹生川上神社(中社、上社、下社)

 阿南市にある峯神社は、富士山に祀る浅間神社の本宮に当たりますが、富士山頂上の浅間大社奥宮と峯神社を結ぶラインは、丹生川上神社上社や、高野山の近くを通ります(図9)。

図9 富士山頂上浅間大社奥宮と峯神社(阿南市)を結ぶラインと丹生川上神社上社、高野山

 弘仁12年(821年)の満濃池の築造でも知られているように、弘法大師(空海)は、高度な治水技術も持っていたようです。空海は、『新撰姓氏録』によると景行天皇の皇子稲背入彦命の子孫の佐伯直の姓をもつ、讃岐の国造佐伯家に生まれました。佐伯直系の氏族は、蝦夷の後裔集団である佐伯部を管掌していました3)。母方のおじ阿刀大足(あとのおおたり)に教育を受けましたが、阿刀氏の氏名(うじな)は、物部氏が本拠としていた阿都(河内国渋川郡跡部郷)にちなむと考えられていて3)、阿刀氏は『先代旧事本紀』では饒速日命の孫を祖とし、物部氏(のち石上氏)と同祖伝承を有しています。したがって、弘法大師(空海)は丹生氏と同族と考えられます。

 高野山の壇上伽藍の西の端に地主神(丹生明神、高野明神、総社)を祀る御社(みやしろ)と山王院(写真7、8)があります。山王院とは地主の神を山王として礼拝する場所(拝殿)の意味だそうです。

写真7 山王院と御社(奥)
写真8 山王院の扁額と奉納額

 高野山(和歌山県伊都郡高野町)とギョベクリ・テペを結ぶライン上に、賀茂神社(和歌山県紀の川市)や、美作國一之宮 中山神社(津山市)や、アララト山やがあり、オリンポス山と高野山を結ぶラインの近くに青谷上寺地遺跡 (あおやかみじちいせき)があります。また、高野山とクレタ島の古代都市ラトを結ぶライン上に、丹生都比売神社那岐山(なぎさん)があり(図10、11、12)、那岐山は、ラト(北緯35度10分)と同緯度にあります。「ラト」の名前はギリシア神話のアポロンとアルテミスの母である女神レトにちなんで名づけられたと考えられているので、丹生津姫命と女神レトを関係付けていると推定されます。

図10 高野山(和歌山県伊都郡高野町)とギョベクリ・テペを結ぶライン(下)、オリンポス山と高野山を結ぶライン(上)、高野山とクレタ島の古代都市ラトを結ぶラインと丹生都比売神社、金剛峯寺、壇上伽藍、奥之院
図11 高野山とギョベクリ・テペを結ぶラインと賀茂神社(紀の川市)、中山神社(津山市)、オリンポス山と高野山を結ぶラインと青谷上寺地遺跡、高野山とクレタ島の古代都市ラトを結ぶラインと丹生都比売神社、那岐山
図12 図10、11のラインと、ギョベクリ・テペとオリンポス山を結ぶライン
図13 高野山とクレタ島の古代都市ラトを結ぶラインとクノッソス、クノッソス宮殿

 奥之院とアテネのパルテノン神殿を結ぶラインは、天王山古墳群と倭文神社の近くを通ります(図14)。オリンポス十二神の一柱であるアテナは、「都市の守護女神」として崇拝され、アテネのアクロポリスにパルテノン神殿を持っていました。大日如来は、他の如来と異なり、頭に宝冠をのせ、ネックレスなどを着けた菩薩のような姿ですが、アテナと関係があるかもしれません。

図14 奥之院とパルテノン神殿を結ぶラインと天王山古墳群、倭文神社

 岡山市沢田にある金蔵山古墳(かなくらやまこふん)は、古墳時代前期末(西暦4世紀末)の前方後円墳で、墳長165 m、後円部径110 mと大きく、各段のテラスには埴輪がめぐり、斜面には葺石があります。埴輪は、円筒埴輪のほかに、家・鶏・短甲・楯・きぬがさなどの形象埴輪があります。垂仁天皇は、武器奉納、相撲、埴輪、鳥飼といった様々な文化の発祥に関わったとされるので、金蔵山古墳は垂仁天皇の陵墓と推定されます。兵庫県多可郡に高野山真言宗の金蔵山金蔵寺があり、垂仁天皇の陵墓と推定される金蔵山古墳の名前と一致します。金蔵山古墳は、北緯34度39分にあり、神大市比売(大日孁尊)の墓と推定される楯築遺跡と同緯度にあります(図15)。

図15 金蔵山古墳と楯築遺跡を結ぶライン

 垂仁天皇は、即位2年に彦坐王(天皇の伯父)の娘の狭穂姫命を皇后としています。即位5年に皇后の兄の狭穂彦王が反乱を起こし、皇后もこれに従って兄と共に焼死したとされています。奈良盆地東南部のオオヤマト古墳群にある初期王墓のうち、箸墓古墳は卑弥呼、西殿塚古墳は台与、外山茶臼山古墳は彦坐王の墓と推定されますが、外山茶臼山古墳に続くとされるメスリ山古墳(図16)は、銅鏡片や腕輪形石製品が、鉄製の武器・武具の断片などとともに出土していて、彦坐王と同様な性格の被葬者と考えられるので4)、狭穂彦王の墓と推定されます。

図16 畿内における大型古墳編年図 
出典:白石太一郎 「古墳の被葬者を推理する」 中央公論新社3)

 4世紀前半頃の行燈山古墳(あんどんやまこふん 現崇神陵 東経135度50分)は、メスリ山古墳(東経135度50分)の真北に位置し(図17)、築造時期も近く(図16)、両古墳の被葬者には親族関係があると推定されます。行燈山古墳からの出土品として、銅板1枚が知られ、拓本が残されていますが、銅板の片面には内行花文鏡に似た文様があり、他面には田の字形の文様があります。行燈山古墳の被葬者は、台与に続く祭祀女王で、垂仁天皇の最初の皇后の狭穂姫命と思われます。

図17 メスリ山古墳と行燈山古墳を結ぶラインと外山茶臼山古墳、箸墓古墳、渋谷向山古墳、
西殿塚古墳

 皇子誉津別命(本牟智和気御子)の生母で、同母兄に狭穂彦王(沙本毘古)がいます。メスリ山古墳の被葬者と推定される狭穂彦王と狭穂姫命は、別々の古墳に葬られているとすると、反乱により同時に亡くなったというのは史実ではないと考えられます。『先代旧事本紀』によれば、景行天皇の時代に狭穂彦の後裔の塩海の足尼(しおつみのすくね)が、甲斐の国造に任命されたとされ、『古事記』や『日本書紀』でヤマトタケルが甲斐の酒折の宮で歌った時の「夜警の篝火をたき守る老人」が、塩海の足尼とされているようです。これは、狭穂彦の反乱が史実でないことと整合します。『日本書紀』の狭穂彦や狭穂姫の「」は、心のせまい意を表し、素戔嗚尊の「」の少ないという意味に類似しています。狭穂彦の反乱の話は、須佐之男命の高天原追放と同様に、創作されたものと思われます。

 行燈山古墳に続く渋谷向山古墳(図15)もメスリ山古墳のほぼ真北に位置し(図16)、狭穂彦王の親族と推定されます。4世紀後半頃(古墳時代前期)の築造と推定され、出土品としては、円筒埴輪・形象埴輪のほか、江戸時代に出土したと伝わる石枕(国の重要文化財)等があります。垂仁天皇の次の皇后である日葉酢媛命は彦坐王の子である丹波道主王の娘で、狭穂姫命の姪に当たります。渋谷向山古墳は、日葉酢媛命の墓と思われます。

 大阪府和泉市にある和泉黄金塚古墳(北緯34度30分)は、メスリ山古墳(北緯34度29分)や、由加神社本宮(北緯34度30分)や由加山蓮台寺のある瑜伽山(由加山)とほぼ同緯度にあります(図18)。和泉黄金塚古墳からは、短甲や鉄刀や画文帯四神四獣鏡などが出土し、鏡には景初三年(239年)の銘があるようです。垂仁天皇と日葉酢媛命の皇子の五十瓊敷命は、河内に遣わされ、高石池(大阪府高石市)・茅渟池(ちぬいけ:大阪府泉佐野市)を造ったとされるので、和泉黄金塚古墳は、五十瓊敷入彦命(印色入日子命)の墓と推定されます。

図18 由加神社本宮とメスリ山古墳を結ぶラインと和泉黄金塚古墳

 和気町の由加神社(ゆがじんじゃ)は、素盞鳴命、豊受大神を祀っていましたが、延暦9年(790年)に和気公が方の上八幡宮を合祀し、和気氏の祖弟彦王も配祀して、由加八幡宮と称したといわれています。紀伊国一之宮日前神宮(ひのくまじんぐう)・國懸神宮(くにかかすじんぐう)とギョベクリ・テペを結ぶラインは、和気町の由加神社の近くを通ります(図19)。両神宮は、天照大御神の御鏡を御神体としているので、天照大御神(大日孁貴)と由加大神(豊受大神)との親族関係を示していると推定されます。

図19 日前神宮・國懸神宮とギョベクリ・テペを結ぶラインと由加神社(和気町)

 また、由加神社(和気町)は、伊弉諾命・伊弉冉命を主祭神とするおのころ島神社とオリンポス山を結ぶラインの近くにあります(図20)。

図20 おのころ島神社とオリンポス山を結ぶラインと由加神社(和気町) 

 『新撰姓氏録』によると右京の「和気朝臣」は、「垂仁天皇皇子鐸石別命之後也」とあり、和気氏の祖先は、垂仁天皇の皇子・鐸石別命で、命の曾孫の弟彦王が、神功皇后の三韓征伐の帰国時に忍熊王の反逆を播磨で鎮圧したのち、和気氏は備前・美作の地を治めたとされています。押熊王と麛坂皇子が、反乱の成否を占う狩を行った際に、麛坂皇子が猪に襲われて薨去したとされていますが、鐸石別命や弟彦王を祀る和気神社では、狛犬がわりに「狛いのしし」が拝殿前・隋神門前で守護しています。

 2022年に岡山大学のドローンによる測量で6世紀後半の前方後円墳であることがわかった鳥取上高塚古墳は、崇神天皇社のある靭負神社とギョベクリ・テペを結ぶライン上にあり、和気神社や金蔵山古墳と同程度の距離にあるので(図21)、弟彦王の子孫の墓と思われます。和気氏には、8世紀に、備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)出身の和気清麻呂(わけのきよまろ)がいます。

図21 靭負神社とギョベクリ・テペを結ぶラインと鳥取上高塚古墳

 兵庫県揖保郡太子町には、斑鳩寺があり、『日本書紀』によると推古14年(606年)に、聖徳太子が法華経の講義を岡本宮で行ったため、天皇から播磨国の水田100町を与えられ、斑鳩寺(法隆寺)領として納めたとあります。太子町の斑鳩寺は、土師一族の居住した地とされるたつの市揖西町土師にある土師神社とほぼ同緯度にあり、オリンポス山と斑鳩寺を結ぶラインの近くに井関三神社(いせきさんじんじゃ)があります(図22)。兵庫県たつの市(旧揖保川町)の井関三神社は、井関大明神として天照国照彦火明櫛玉饒速日命、八瀬大明神として瀬織津姫命を祀っていますが、社伝によれば、崇神天皇2年に四道将軍道主命に勅して、播磨国揖保郡亀山(きのやま)に天照神社(あまてるじんじゃ)として創祀したとされています。『播磨国風土記』の揖保郡稲置山(稲積山)は峰相山に比定されています。井関三神社の真南7.4kmのヤッホの森には、金剛山古墳群があり、弥生時代、古墳時代前期のものもあるようです。金剛山古墳群は、由加神社(和気町)と同緯度にあり(図22)、金剛山古墳群には、垂仁天皇の皇子の鐸石別命が葬られていると推定されます。

図22 オリンポス山と斑鳩寺、土師神社、井関三神社、金剛山古墳群、由加神社(和気町)を結ぶライン

 大宝令の注釈書『古記』(738年頃)には上宮太子の諡号を「聖徳王」としたとあるようです。崇神天皇(豊耳命)が上宮王家の祖だったとすると、崇神天皇の孫の鐸石別命も、聖徳太子と呼ばれた可能性が考えられます。斑鳩寺には、聖徳太子所縁の宝物として「地中石(ちちゅうせき)」(聖徳太子の地球儀)と呼ばれるものが伝わっていて、江戸時代に作られた物のようですが、聖徳太子は「地球が丸い」ことを知っていたのではないかという逸話と関係がありそうです。

文献
1)千田 稔(監修) 「地形と地理でわかる古代史の謎」 宝島社新書
2)古川順弘 2016 「「日本の神々」の正体」 洋泉社
3)山折哲雄(編) 2022 「空海に秘められた古寺の謎」 ウェッジ
4)白石太一郎 2018 「古墳の被葬者を推理する」 中央公論新社