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温故知新(10)狗奴国 名草彦命(海幸彦 長髄彦 兄磯城) 菟道彦(山幸彦 宇麻志摩遅命 弟磯城) 大名草比古命(饒速日命 邇々芸命 卑弥弓呼) 名草戸畔(木花開耶姫 丹敷戸畔 丹生津姫命 御炊屋姫命) 彦五瀬命(和邇日子押人命 天押帯日子命 天足彦国押人命 天照皇大神) 天児屋根命(天美佐利命 大鹿島命)

 神武天皇は、瓊瓊杵尊の曽孫で彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえず の みこと)と玉依姫(たまよりびめ)の子とされ、兄に彦五瀬命、稲飯命、三毛入野命がいたとされています。『日本書紀』の名称は神日本磐余彦天皇(かんやまといわれびこのすめらみこと)で、奈良盆地一帯の指導者長髄彦らを滅ぼして一帯を征服(神武東征)した後、遷都した畝傍橿原宮(現在の奈良県橿原市)で即位して日本国を建国したといわれています。

 山幸彦(火遠理命・彦火火出見尊)と海幸彦は、邇々芸命と木花開耶姫の子で、この神話は『記紀』において、天孫族と隼人族との闘争を表しているとされています。豊玉毘売命は、火遠理命を見て一目惚れし、父である海神も、天孫邇々芸命の子の虚空津日高(そらつひこ・火遠理命)であると知って豊玉毘売命と結婚させます。海神(大綿津見神)は須佐之男命で、娘の豊玉姫(豊玉毘売命)は卑弥呼と推定されます。

 狗奴国の「」は、「犬」を意味します。犬(縄文犬)は、縄文早期から現れ、縄文中期から縄文後期にかけて出土遺跡数や個体数が増加し、縄文後期には埋蔵事例も増えているようです。犬の移動の歴史は人類の移動の歴史と重なっていたことが明らかになっていて、現代の犬は、ニホンオオカミのDNAを受け継いでいるようです。これは、縄文人の起源が古いことを示していると思われます。

 おおいぬ座にあるシリウスは、エジプトでは、アヌビス神(犬の顔、人の姿をした神)としてまつり、ナイルの洪水の時期を知らせる農業上重要な星でした。洪水を利用したエジプト式の農業は、徳島県の吉野川下流域でのの栽培などに見られます。シリウスは、かつては、赤く輝いていて、中国では、シリウスの輝きが狼の目のようであることから、天狼星(てんろうせい)と呼ばれていました。ギリシャ神話では、ゼウスは、神犬ライラプスを空に上げておおいぬ座としたとされ、オリオンの猟犬という見方もされます。おおいぬ座は、トレミーの48星座のひとつで、古代アレクサンドリアの天文学者(90頃-168頃)のプトレマイオスが、民間伝承として伝えられてきた星のグループを自らの星図に取り込んだものです。

 奈良県磯城郡田原本町多にある多氏の氏神である「多坐彌志理都比古神社(おおにいますみしりつひこじんじゃ)」の祭神は、神倭磐余彦尊(神武天皇:神八井耳命の父)、神八井耳命(神武天皇皇子)、神沼河耳命(綏靖天皇:神八井耳命の弟)、姫御神(玉依姫命:神八井耳命の祖母)で、神八井耳命は神武天皇の第二皇子でありながら弟に皇位を譲り、「身を引いた」ことが「ミシリツヒコ」の由来ともいわれます。おおいぬ座の学名はCanis Major で、メジャーは「より大きい」「より多数派だ」という意味なので、「多坐彌志理都比古神社」の名前は「おおいぬ座にあるシリウス」を表しているとも考えられ、多氏の名前の由来かもしれません。

 大物主大神(おおものぬしのおおかみ)を主祭神とし、大己貴神(大国主命)と少彦名神(事代主神)を配祀する大神神社(写真1)の神体山である三輪山は、多坐彌志理都比古神社の真東にあります(図1)。南の橿原市大久保町畝傍山(うねびやま)の麓には神武天皇陵があり、北北東の磯城郡田原本町唐古には、約2000年前の唐古・鍵遺跡があります(図1)。

写真1 大神神社
図1 多坐彌志理都比古神社と三輪山を結ぶラインと畝傍山、大神神社、神武天皇陵、唐古・鍵遺跡

 孫 栄健氏は、魏王朝は、紀元57年の後漢の光武帝の前例に従って、239年に女王に金印を下賜したとし、女王国は奴国だったと推定しています2)。卑弥呼は晩年に唐古に居たとすると、唐古付近に奴国があったと推定されます。唐子・鍵遺跡が、初代神武天皇の治めた奴国で、後に多氏が入ったため、狗奴国と呼ばれたと推定されます。『旧唐書(くとうじょ)』倭国伝によると、倭国は古の倭の奴国であると記されています1)。孝元天皇(大国主命)は、多氏の山幸彦と推定され、狗奴国には、饒速日命の子で山幸彦の兄の海幸彦がいたとすると、海幸彦が長髄彦(ながすねひこ)と思われます。『古事記』では、饒速日命は、神武東征において那賀須泥毘古(登美毘古)が奉じる神として登場します。

 菟道彦宇摩志麻遅命 山幸彦)の父が、大名草比古命(おおなぐさひこのみこと)なので、大名草比古命は、饒速日命(久志多麻命)と同一人物と考えられます。「長髄彦」は、読みが「名草彦」に類似しているので、長髄彦が名草神社に祀られている名草彦命と推定されます。また、名草戸畔(なぐさとべ)は日本書紀での名で、地元では名草姫(なぐさひめ)ともいわれるようです。真弓常忠氏も、名草戸畔のトベはトメで女性を意味し、名草山に祭祀を行った巫女で、名草姫にほかならないとしています3)。また、『南海道紀伊国神明帳』によると、名草姫には、地祇(ちぎ)の中でも一番位が高い「従四位名草比売大神」が授けられています4)。丹生都比売神社も、859年に従四位に進んだとされ、名草戸畔(名草姫)は、丹生津姫命(丹生都比売大神)と推定されます。

 坂本丹生神社(さかもとたんじょうじんじゃ)の主祭神は瓊瓊杵命で、配祀神は、丹生津姫命と月弓命で、瓊瓊杵命の后(木花開耶姫)は丹生津姫命と推定されます。神武東征では、熊野の丹敷浦で丹敷戸畔と戦っていますが、丹敷は「にふ」と読んで丹生地名のひとつと解釈されているので5)、丹敷戸畔も丹生津姫命(名草戸畔)と同一人物と推定されます。名草戸畔(丹生津姫命 丹敷戸畔)は、名草彦(長髄彦 海幸彦)の母親で、大名草比古命(瓊瓊杵命 饒速日命)が父親と推定されます。瓊瓊杵命は、饒速日命の和魂(にぎたま)かもしれません。

 狗奴国は、女王卑弥呼に対して、男王卑弥弓呼(ひみここ)の国とされていますが、「ひこみこ(彦御子、男王)」の誤りとする説もあります。「卑弥呼」と「卑弥弓呼」は、いずれにも「卑」の字が使われていることから同族と考えられます。瓊瓊杵命は、天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)とも書かれ、「ひこ」が繰り返しているため「ひこみこ」と呼ばれたのではないかと思われます。

 愛媛県松山市八反地にある式内社の櫛玉比売命神社は、天道姫命を主祭神とし、饒速日命の妻である御炊屋姫命(三炊屋媛 みかしきやひめ)を配祀しています。御炊屋姫命は、邇芸速日命との間に物部氏、穂積氏らの祖神である宇麻志摩遅命を生んでいます。御炊屋姫命は、那賀須泥毘古の妹とされていますが、『古事記』では登美夜毘売(とみやびめ)、『日本書紀』では三炊屋媛、鳥見屋媛、長髄媛(ながすねびめ)とも記され、また御炊屋姫、櫛玉姫命、櫛玉比女命、櫛玉比売命などとも表記されます。したがって、御炊屋姫命は、櫛玉命(久志多麻命 瓊瓊杵命)の后の丹生津姫命(丹敷戸畔)で、名草彦(長髄彦 登美毘古 海幸彦)の母親の名草戸畔(名草姫)であると考えられます。

 瀬戸内海には、潮の流れが速い「瀬戸」と呼ばれる場所がいくつもあることから、彦五瀬命(いつせのみこと)は、瀬戸内海を支配していた王と考えられます。彦五瀬命は、鸕鶿草葺不合尊と玉依姫の間に生まれた長男で神武天皇(初代天皇)の長兄とされ、和歌山市にある竈山神社(かまやまじんじゃ)に祀られています。岩手県奥州市付近には、五十瀬神社(いそせじんじゃ)が多くあり(図2)、五十瀬神社は、天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)を祀る奥州藤原氏の所縁の神社ですが、奥州藤原氏藤原不比等の次男藤原房前を祖とする藤原北家の支流の豪族です。五十瀬神社は茨城県や千葉県にも多くあり(図3)、茨城県稲敷市の大杉神社にある境内社の五十瀬神社にも、天照大御神が祀られているので、彦五瀬命は天照皇大神と推定されます。

図2 五十瀬神社(岩手県、宮城県)
図3 五十瀬神社(茨城県、千葉県)

 神武東征の物語で、最初の争奪地になったのが、河内国の草香邑(くさかのゆう)で、草香は日下のことで「ひのもと」とも読み、太陽信仰にとっての聖地だったので6)、彦五瀬命は天津神と推定されます。彦五瀬命は、和珥氏の祖である第5代孝昭天皇の皇子の天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)と思われますが、天足彦国押人命は『日本書紀』『古事記』とも、事績に関する記載がなく、和邇日子押人命と推定されます。

 彦五瀬命の没年は、卑弥呼の没年(242年~248年)より前と考えられます。纏向石塚古墳(まきむくいしづかこふん)は、220年頃に造られた「古墳成立以前の前方後円形の墳丘墓」と考えられ、武光誠氏は、吉備の楯築墳丘墓にならったものと評価し、吉備から大和に移住した集団が纏向遺跡をひらいたと考えています7)。纏向石塚古墳は、「太陽の道」(北緯34度32分)にあり、斎宮と同緯度にあることから(図4)、姥津媛(意祁都比売命 台与と推定)の父親の和邇日子押人命(天押帯日子命 彦五瀬命 天照皇大神)の墓と思われます。

図4 纏向石塚古墳と斎宮

 纏向石塚古墳とオリンポス山を結ぶライン上には、粟鹿神社があり(図5)、天美佐利命(あめのみさりのみこと)や、開化天皇と姥津媛との間に生まれた皇子の日子坐王命や、日子穂穂手見尊を主祭神としています。『粟鹿大明神元記(あわがだいみょうじんもとつふみ)』は、元々は九条家の蔵に保管されていたものなので、粟鹿神社は、中臣氏が関係する神社と思われます。神紋は「抱き茗荷」ですが、秦氏の総鎮守の大酒神社(おおさけじんじゃ)(今は太秦の広隆寺)の祭りの神である摩多羅神(またらじん)のシンボルが茗荷だという説があります。垂仁天皇の時代に、天美佐利命が荒振る神であるために大彦速命が朝廷に申し出て祀ることとなったとされます。大鹿島命は『日本書紀』によると、中臣氏の祖で垂仁天皇に仕えた大夫とされているので、天美佐利命は大鹿島命と思われます。中臣氏及び藤原氏の祖神である天児屋根命の「コヤネ」には「祝詞を美しく奏上すること」の意味があるので、天美佐利命(大鹿島命)は天児屋根命かもしれません。中国には7世紀の唐の時代に、キリスト教ネストリウス派が「景教」という名で伝来し、日本にも736年に伝わった可能性があるとされるので、天美佐利命の「ミサ」は景教の影響かもしれません。粟鹿神社の祭神の彦坐王(日子坐王)の母親の姥津媛は、和邇日子押人命の娘なので、纏向石塚古墳と関係付けられていると推定されます。

図5 纏向石塚古墳とオリンポス山を結ぶラインと粟鹿神社

 『日本書紀』の天足彦国押人命は、『古事記』では「天押帯日子命」と表記されるので、中臣氏・藤原氏の祖の天児屋根命の別名である「天足別命」(あめのたらしわけのみこと)と本来の天津神である「天押帯日子命」を組み合わせた名前かもしれません。記紀神話ではアマテラスは女神であるのに対し、『ホツマツタヱ』のアマテルは男神となっていますが8)、ツングース系民族の太陽神は男神のようです。『ホツマツタヱ』と同時代のヲシテで書かれた文献には、伊勢神宮初代の神臣大鹿島命(クニナツ)が記した『ミカサフミ』、アマテルカミが編纂して占いに用いたと伝えられている『フトマニ』などが発見されています。

 『日本書紀』によると、神武東征の際に、東征軍は、対立する磐余邑(いわれのむら)の兄磯城(えしき)を弟磯城(おとしき)に説得させています。奈良県桜井市金屋にある志貴御縣坐神社(しきみあがたにますじんじゃ)は、弟磯城に由来する神社で、磯城県主を事代主神の後裔とする説などがあります。志貴御縣坐神社の真北に、物部氏の総氏神の石上神宮や大国主命を祀る大神神社があります(図6)。弟磯城は山幸彦(大国主命)を表し、兄磯城は海幸彦(長髄彦)を表していると思われます。

図6 石上神宮、大神神社、志貴御縣坐神社

 大神神社とオリンポス山を結ぶラインは、箸墓古墳の近くを通り、唐古・鍵遺跡近くの奈良県田原本町唐古を通ります(図7)。これは、大国主命や事代主神と卑弥呼の関係を示していると推定されます。

図7 大神神社とオリンポス山を結ぶラインと箸墓古墳、唐古

 『日本書紀』によると、椎根津彦(山幸彦)は、女軍(めいくさ)を遣したとしているので、ディオニュソスの女軍と関係があるかもしれません。神武東征の神話からは、尾張連の祖である高倉下命(山幸彦 大国主命)が神剣をみせて説得した結果、海幸彦の一族は、九州南部に移り、隼人(はやと)になったように思われますが、富雄丸山古墳の「造り出し」から、隼人の剣ともいわれている「蛇行剣」が見つかっています。富雄川流域である当地は長髄彦の拠点であるとする伝承が古くからあり、添御縣坐神社には、長髄彦が祀られているともいわれ、また、奈良時代には和珥氏の一族である小野氏が当地を支配したともいわれていることから、実際には、同族間の争いはなかったのかもしれません。

 唐古・鍵遺跡の東に、台与の墓と推定される西殿塚古墳があります(図8)。卑弥呼が唐古に居たとすると、台与も唐古に居たのかもしれません。

図8 唐古・鍵遺跡と西殿塚古墳を結ぶライン

 吉備の倭国(邪馬台国)の王は、須佐之男命(孝霊天皇)が大国主命(山幸彦 孝元天皇)に譲り、大国主命と卑弥呼の皇子が、崇神天皇となったと思われます。松木武彦氏(考古学者:国立歴史民俗博物館教授)は、特殊器台や楯築墳丘墓の様式考古学の分析から、2世紀前の卑弥呼がいた邪馬台国は吉備にあり、それが台与の治めた大和(纏向)に移った可能性があるとしています。

 和邇日子押人命が亡くなった後、和珥氏である台与が大和(奈良)に移り、開化天皇(鸕鶿草葺不合尊)と姥津媛(台与、玉依姫)との子である彦坐王(日子坐王)が天津神系の王になったと考えられます。鎌倉時代に藤原姓近藤氏の大友能直(おおともよしなお)が編纂したとされる『上記(うえつふみ)』は、72代続いたウガヤフキアエズ王朝があったとしています6)。『富士宮下文書』も72代としていますが、第72代白河天皇の代に藤原氏(藤原北家)が外戚の地位を確立したことと関係があるかもしれません。

文献
1)田中英道 2019 「発見 ユダヤ人埴輪の謎を解く」 勉誠出版
2)孫 栄健 2018 「邪馬台国の全解決」 言視舎
3)真弓常忠 2018 「古代の鉄と神々」 ちくま学芸文庫
4)なからい まい 2010 「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」 有限会社スタジオ・エム・オー・ジー
5)蓮池明弘 2018 「邪馬台国は「朱の王国」だった」 文春新書
6)森 浩一 2011 「古代史おさらい帖」 ちくま学芸文庫
7)武光 誠 2019 「古墳解読 古代史の謎に迫る」 河出書房新社
8)原田 実 2018 「偽書が描いた日本の超古代史」 KAWADE夢文庫