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受験も大概スチャラカだったが、結果的にはオーライになった話…らびっとのスチャラカ受験体験記

私はプロフィールにもある通り、“スチャラカ専業主婦”である。

いざ仕事などすると私なりに真面目に一生懸命取り組むが、何もしたいことが見つからず、やりたいこともなく、「将来を見据えて」とかぼんやり考えても答えが見つかることもなく、気付けば昼寝をガッツリしてるようなヤツだったし、今も変わりない。

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小さい時から、「なりたい職業」というものが自分でも呆れるほど全く無かった。母にも「アンタ、将来何になりたいの?」とよく聞かれたが、いつも返答に困っていた。

そこで散々考えた挙げ句、私が目指したいものは「お嫁さん、お母さんになりたい」だった。

「そんなもん、誰でもなれる夢やんか!!そういうことを聞いてるんじゃない!!」と随分怒られたが、怒られようと怒鳴りつけられようと、それが私の本心であり、願いなのである。

そう思ったのには、私なりに根拠がある。両親の話をこちらでもくだらない話を含め出しているが、どういう形であれ、私にとっては「居心地の良い家庭、家族」であり、「両親が作ったような温かい家庭を作ること」が、私の夢だと幼心おさなごころに確信したのである。いくら考えても、その後数年経ってもこの答え“一択”であった。

しかし、いよいよそれが“本心”であったとしても、公の場で言えなくなる場面がやってくるのである。

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幼稚園に通いだして、月一順番に「私の夢」というのを、皆の前で発表しなければならなかった。

幼稚園児にも関わらず、「これは困ったことになった……!」とずっと悩んでいた。ちなみに私の順番は、最後の最後3月であった。…「まだ時間はある。ゆっくり3月までに考えれば良い」と思っていたが、一年経っても全く他の“なりたいもの”は見つからず、答えは“一択”のままだった。

そして3月の発表時、大方の子が答えていた「幼稚園の先生になりたい」という答えをするかどうか、ギリギリまで葛藤したが、他に答えが見つからないため、とうとう大衆の面前でウソをつくハメになった。

ちなみに当時から今日こんにちまで、「幼稚園の先生になりたい」とは、一度も思ったことはない。

ウソはつきたくなかったが、やむを得ない。だいたい夢なんていちいち皆の前で発表するシステムがある事自体、疑問であると、今でも思っている。

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小中と公立の学校に通った。従って、私にとっての初受験は「高校受験」だった。親には経済的な事情から「絶対、公立に行ってくれ!」と言われた。

部活と塾に明け暮れた、中学生活だった。勉強がキライな私にとって、地獄のような日々だったが、母の思惑通り「塾にでも行かなければ、自ら勉強することは絶対ない!」にモロに当てはまり、正月まで塾に行って勉強するハメになった。

▽勉強嫌いの様子を書いた記事はこちら

▽部活と塾で明け暮れ、スター達の活躍も知らずに、今ようやく色々知ったグループのコンサートの話はこちら

そして、プロフィールに書いてあるように、音楽以外の副教科は壊滅的に酷かった上に、勉強も興味のあることしかやらないので、波が激しく、受験当日、苦手な所が出ると万事休すになることから、三者面談の末、母は「目標の学校の一つ下の高校を受験させます。」と担任に話した。

担任からは「まだ希望の高校でも受けられますよ。」と言われたが、私立に行かれると困る母は「いえ、一つ下の高校を受験させます。」と丁寧ながらハッキリ言った。

「ギリギリで通ったとしても、アンタのことやからどうせ勉強せぇへんから、入った後苦労するのは目に見えてる。せやから、上の方でおった方がエエとお母さんは思うねん。ギリギリやから落ちて私立行かれても困るしな!」と三者面談の帰りに言われた。

一緒に“目標高校”に行く約束をしていた友人は「らびっとやったら行けるって!!」と最後の最後まで言ってくれてたが、結局私の“不徳の致すところ”で、約束を果たすことはできなかった。

後に、友人と私の学校は合併することになったので、ある意味、今としては願いが叶ったのかもしれない…最も実家近所の“目標高校”に通っていた娘さんが偶然会った母に「一つ下の学校と合併するのがイヤです!」と言ったらしい。私が該当者であることを知らずに言ったのだろうが、母は苦笑いするしかなかったらしい。

「そこまで嫌がりますか?」と思ったが、世間的には酷だがこれが現実なのだろう。

当時も今も「はい、ごもっとも!!」としか言えないのが残念すぎる。

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受験当日、数学で案の定“私の苦手なところ”が出題された。…そのグラフの形を見た瞬間「終わった」とさえ思った記憶がある。

(これ、何やったっけなぁ~。もうこのグラフ分かったからって、将来何の役に立つん?)と相変わらず“ツッコミ”を入れながら、あーでもない、こーでもないと計算したり、答えたりした記憶があるが、“ほぼお手上げ状態”で、何とか終わらせた。

「う~ん、もうヤバいかもしれへん…!」と思いながら、合格発表を見に行くと、あった!私の受験番号!!

その当時、その近くで働いていた父も見に来てくれてた。「受かったやん!良かったな!!」

わざわざ仕事の合間に見に来てくれた父に感謝した。とても嬉しかった。

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今度は大学、短大受験である。

まだパソコンやインターネットがなかった時代で、相変わらず情報収集のやり方は分からないし、なりたいものは“お嫁さん、お母さん”であった。

母には推薦、本受験含め、4校しか受けさせないと宣告されていた。

なりたいものはないが、大学に行くなら「興味のあること、通いやすい近くの所」、短大なら「興味のあること、就職に役立つところ」というのは自分の中で決まっていた。

そして4校を大学2つと短大2つと推薦で受験した。

第一希望、第二希望の大学と短大、それぞれ高校を一緒に行きたいと言っていた友人も受験すると言ってたし、母もそこに行って欲しいと願っていた。他の友人もどうやら受験するらしい。

しかし根が“スチャラカ”故、なかなか勉強が捗らない。

ある国語の問題集を途中までやったが、そこでバテてしまい、寝てしまった。

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そして某希望短期大学受験で、国語の問題を見ると、あの問題集から出ていた。

(えぇえぇえぇ!ウソやろ!!)

何か見た気はするが、全く覚えてないし、分からない。

家に帰ってから、あの“バテて寝てしまった問題集”を見ると、バテた2~3ページ先にその問題がそっくりそのまま出ていた。

そして私は、唖然、呆然、脱力をしたのであった。

当然“不合格”であった。一緒に高校へ行く約束していた友人ですら不合格で、後の友人は合格していた。実は合格組の彼女達の高校は私達の学校より受験時は格下ではあったが、ものすごい勉強熱心な学校で有名だったので、高校3年間の間に、ちゃんと実力をつけていたのである。さすがだと思った。

何にせよ、勉強が行き届いてない、やってない私のせいであり、“不徳の致すところ”なのである。

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結局、短大一つのみ合格した。これにより、推薦で受験が終わるので、気兼ねなく過ごせるし、親との約束も果たした。第一勉強嫌いの私には“2年間”が期間的にもちょうど良いかもしれない。親にも大学の単純に半分の学費で済むので、ある意味、親孝行かもしれないと思った。

この学校は、4つの受験学校のうち、“就職する時に役立ちそう”というところが気に入って受けた。遠いのが難点だったが、街の中心部に通学定期券で行けることや自分の好きな電車に乗っていける所が良かったので、その点はクリアした。

結果的にこの学校に行ったお陰で、就職先で大変役に立ったのである。

▽就活の様子を書いた記事はこちら

▽就職してからの話はこちら

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結局就職まで、なりたいもの、やりたいことは見つからず、“お嫁さん、お母さん”にはその後も変わりなかった。しかも選べる選択肢が少ない状況で選択し、無我夢中に生きてきた。ずっと自分がなりたいものは分からないし、やりたいことはよく分からないままやってきた。

しかしふと気がつけば、紆余曲折はありつつも、私は“専業主婦”になっていた。しかもやりたいことの一つ“エッセイ(もどき?)を書く”も一時中断しながら趣味でやっている。時間はかかったが、夢が叶っているのである。

残念ながら“お母さん”にはなれなかったが、ここでくだらない家族話を書けるほど、自分のあんなに望んでいた「(私なりの)温かい家庭」を築くことができていたのである。

すぐには無理でも、望みを持ちながら、“焦らず腐らず”生きていると、“結果オーライ”な人生になっていることもあると、今になって思う。

人生に、正解不正解(法に触れるのはダメだが)、勝ち負けは関係ないと私は思う。各付けチェックはテレビの中だけで十分なのである。途中思い通りいかないのも人生、遠回りしたことがかえって良いこともある。

学校でうまくいかなくても、身体さえ元気で学ぶ気があれば、いつからでも、何度でもやり直せる。学校が全てではないのである。

漫才師で有名な西川きよし師匠の
「小さなことからコツコツと~!!」
精神で、これからも歩んでいきたいと思う、らびっとなのであった。

これを読んで、少しでも何かのお役に立てたら幸いである。

▽これに懲りずに“やらかした話”はこちら



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