memento mori その4 当たり前過ぎて意識しなくなっていること
宗教という古典的なソリューションが今でも有効な場合もあるというお話。
経緯
私の人生は幸せだったと言い切って他界されたというお話の続編。
大人の絵本ブームの火付け役といわれるヨシタケシンスケさんの長編作品「メメンとモリ」との出会い。
その作品とラテン語の「いつか死が訪れることを忘れるな」という言葉の件が引っかかったというお話と、そもそもこのラテン語をnoteでの作品を通じて教えてくださったmemento Mori(モリ)さんのお話、おニ人の力強い生き方、個性に脱帽したというお話。
奇しくもその翌日に身近な人がコロナウイルスに感染して、既往症を悪化させて他界。しかも実は昨年末にも上述の既往症がコロナウイルスで悪化という全く同じパターンでのコロナ禍が身近で起こっていて、同じことが繰り返されていることを悔しく思ったというお話。
私の人生は幸せだったと言い切って他界された方に生前充分そう言える人生のお手伝いができたというお話。
今回は、そのパートナーの方が静かな心でその運命の日を迎えられたというお話です。
静かな1日…
そのパートナーの方は元々本邦でのキリスト教の礎を作られた方の家系で、特に日本語の讃美歌編纂にご尽力されたと聞いています。
因みに私は宗教という古典的なソリューションは利用せずに、物理屋なので何もなくただ自然体で生きています。
宗教という古典的なソリューションを採られているそのパートナーの方は、正に静かにそのパートナーの方の他界を見送られました。曰く、
心の準備は既に整っていたので心静かにその時を迎えました。働けるだけ働いたので年金も沢山貰えていて、私が生きていれば子供たちの生活の足しにもなるだろうから、もう少し生きてみる…
淡々とした感じでした。
そして儀式
極々身内でのクリスチャニティのお作法に則った自然な流れ。親族も生まれながらに身についたごく自然な所作で儀式は流れていきました。
子供や孫たちが寄ってたかって亡骸(なきがら)のリンパを流したりしてとても美しい顔姿にしてのお見送り。
儀式でのパートナーの方の挨拶は順番が狂ったとの前置きで経緯の説明、後に締めは何と
過ぎたるパートナー
の一言。
圧巻
つづく
蛇足
おっと、こんな時刻に・・・
ネタバレですが、
牧師さんが同窓同期、理工学部の隣の学科
愛は双方向 特に授かることで授けた相手を幸せにするという話し
そもそもイエスキリストは宇宙からあるいは時空を遡って来たのでは?
など盛りだくさんな儀式でした。
頭を整理してお伝えしますね。