土着怪談 第十七話「K沼の大蛇伝説」其壱(下)
前回までのあらすじ
筆者は10数年前に、とある沼にまつわる大蛇伝説について研究を行っていた。
沼の名前は「K沼」。
いや、言ってしまおう。
カジカ沼。
山奥深くに隠れたその沼には、昔の大蛇伝説だけではなく、いくつもの不思議な話があった。
約30年前に筆者の叔母、幸子さんが体験した話である。
今はもう人も立ち入らなくなり、藪を漕いで足場の悪い岩場を登る秘境となっているが、30年前当時は小学校の野外観察の授業で訪れるほど整備されていた場所だった。
小学五年生の夏、幸子さんは野外観察の授業で、担任である新任の女性教師と、クラスメイト、そして案内人として近所に住んでいたお爺さん「まづ(松寺という名字が訛った)あんにゃ(年上の男性を表す方言)」とカジカ沼へ向かうこととなる。
最初の1時間は、道もながらかな登山道であったが、藪が広がる山道と九十九折りの岩場にすっかり疲れてしまった担任と生徒がヒィヒィ悲鳴をあげていると、まづあんにゃは
「ほれ、ついたぞ」
と指を指した。
その先には、水面がエメラルドグリーンに輝く、直径1キロほどの綺麗な沼が広がっていた。
K沼の大蛇伝説 其壱(下)
周囲を山に囲まれ、静かに水を蓄えるその池を見ると、幸子は子供ながらに神秘的で美しいと思った。
最後尾にいた担任がヒィヒィと息を切らしながら
「みなさん、宿題で出していたスケッチを各自行なってください。これから30分間自由時間としますので、近くの植物や生き物をよく観察して、スケッチしてください!」
声を振り絞った担任は、その後へたへたとその場に座り込み、持参している水筒を一息で飲みはじめた。
幸子は仲の良い女友達と、近くに生えていた高山植物の花をスケッチすることにした。
座り始めて15分。
やっとスケッチも形になってきたが、それにしても今日は暑い。
山の上で風こそ涼しいものの、山頂に近い為、陽を遮るものが何もなく、直射日光がジリジリと頭皮に刺さる。
当時は熱中症や水分補給もあまり浸透していなかったため、スケッチが終わった生徒はその暑さにうんざりしていた。
友達とスケッチボードを仰ぎ合いながら、涼んでいると、ふと池の向かい側に複数の男子生徒の姿が見えた。
今では池の周りも藪とぬかるみで歩くことができないが、当時は整備されており池を一周することができた。
男子生徒はクラスの中でもよく目立つ4人組だった。
その中の2人が服を脱ぎ始め、パンツ一丁になると勢いよく池に飛び込んだ。
水の波紋がゆらゆらと広がる。
飛び込んだのはクラスの大山と安田だった。
2人は泳ぎながらすぐに池の真ん中まで行き、陸に残っていた2人に手招きしていた。
残り2人も今行くと言わんばかりに服を脱ぎ始めた。
幸子と友達は、さすがにマズイと思い辺りを見渡す。
登ってきた入り口付近のベンチに、顔にタオルを当てて横たわる担任。
そして近くでスケッチをする3人のクラスメイトに熱中して何かを教えているまづあんにゃ。
2人とも泳いでいることに気づいていないようだった。
幸子は大声で叫んだ。
「まづあんにゃ!〇〇先生!池で泳いでる人たちいる!」
担任はベンチから飛び起き、まづあんにゃも振り返る。
池の中央で2人に手を振る大山と安田を見て、まづあんにゃが声を張り上げた。
「このオンツァッ(※)!!!早ぐ池から上がれ!!」
※馬鹿者という意味。
まづあんにゃは見た事もない勢いで怒鳴りつけた。
いつもサングラスから覗く優しそうな目つきは、鋭い眼光に変わっていた。
安田と大山もあまりのまづあんにゃの怒号に気押され、急いで岸に向かって泳ぎ始めた。
その瞬間であった。
ピカッ。
一瞬眩しい閃光があたり一面を照らした。
あまりの眩しさにその場の全員が目を瞑る。
ゴロゴロゴロゴロ…。
ドガーンッ!
稲妻と共に、大粒の大雨が降り始めた。
晴天だった青空もみるみるうちに曇り始め、辺りは暗くなり始める。
担任が、
「早く上がりなさい!」
悲鳴に近い叫び声で、2人へ呼びかける。
岸までは残り100mほど。
恐怖に引き攣る顔の2人は、死に物狂いで岸へ向かって泳ぎ始める。
水泳クラブに入っていた大山はリードして岸に近づいてきた。
一方安田は、泳ぎ疲れたのかペースが落ちてきて、時折手足をばたつかせている。
その時だった。
池の中央がわずかに窪み始めた。
幸子もじっと目を凝らす。
否、小さな渦を巻いている。
渦は徐々に大きくなり始めて、2人の背後に近づいてくる。
子供たちも騒ぎ始める。
「急げ急げ!」
「後ろ渦巻いてる!早ぐ、早ぐ!」
静かだった池の水は、岸辺に波打つほど激しくなり、鳴門海峡のように渦の中心には泡を浮かべている。
ゴォォォという地鳴りと共に、幸子の足元の池の水も波打ち始めた。
生徒たちもみな、声をあげて急いで上がるよう促す。
幸子も息を呑んで見守る中、大山が先に息を切らして岸へ辿り着いた。
遅れる安田はまだ池の中でばたついている。
安田の背にはすぐに水の渦が近づいていた。
大きくなった渦が今ぞ安田を飲み込もうとしたその時、なんとか渦に岸へ辿り着くことができた。
岸で息を切らす2人に追い打ちをかけるように、稲妻が轟く。
ドォォン。
地響きと共に、池にはたちまち濃霧が立ち込める。
「こっちだ、はやぐ来ォ!」
まづあんにゃが大声で、手招きし、向こう岸にいた4人も霧をかき分けながら、こちら側へ走った。
やっと合流したころには、土砂降りと濃霧、そして雷鳴がとどろき野外観察どころではない。
大急ぎで下山し、逃げるように帰路についたという。
ここまで幸子さんは話すと、
「ほんと、むがしはおっかねぇとこだったなぁ。」
と頬をついて少し笑いながら、遠くを見た。
窓の外を見やると、ぽつりぽつりと雨が降り出している。
庭のアジサイは、雨に濡れて綺麗な紫色に染まっていた。
笑い話のはずなのに、どこか物憂げな表情で話した幸子さんを見て、私はどこか違和感を感じた。
後日談
後日、祖父からK沼の大蛇伝説について聞き取り調査を行っていた時、幸子さんの話を思い出して聞いてみた。
「結局、なんでカジカ沼さは、遠足で行かねかなったんだっけか。」
祖父は囲炉裏にくべた炭をじっと見つめながら、しばらく黙っていた。
くべた炭がパチンと、跳ねる音と共に祖父は答えた。
「理人の同級生が池さ入って死んでな、それで学校でも行かなくなっただ。」
それだけ言うと、祖父はまた黙り込み、囲炉裏の灰を掻き回した。
屋根を伝って天井から、ぽつりぽつりと雨の降りだす音が聞こえ始めた。
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