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日蓮大聖人の言葉『千日尼御前御返事』せんにちあまごぜんごへんじ 25
内典の仏法に入りて五千七千余巻の小乗大乗は、女人成仏かたければ悲母の恩報じがたし。小乗は女人成仏一向に許されず。大乗経は或は成仏、或は往生を許したるやうなれども仏の仮の言にて実事なし。ただ法華経計りこそ女人成仏、悲母の恩を報ずる実の報恩経にては候へと見候しかば、悲母の恩を報ぜんために此の経の題目を一切の女人に唱えさせんと願す。
弘安元年(1278)7月28日執筆
『昭和定本日蓮聖人遺文』154
日蓮大聖人の言葉『法華取要抄』ほっけしゅようしょう 23
此の土の我等衆生は五百塵点劫より已来、教主釈尊の愛子なり。不孝の失に依りて今に覚知せずといえども、他方の衆生には似るべからず。有縁の仏と結縁の衆生とは、譬えば天月の清水に浮かぶが如し。文永11年(1274)5月24日執筆
『昭和定本日蓮聖人遺文』812頁
(訳)
この娑婆世界にいる私たち衆生は、五百億塵点劫というはるか昔から、教主釈尊の愛子であります。その教えにそむいた不孝のとがによって、今日まで
日蓮大聖人の言葉『南条殿御返事』 なんじょうどのごへんじ 22
在世の月は今も月、在世の花は今も花、むかしの功徳は今の功徳なり。その上、上一人より下万民までににくまれて、山中にうえし(飢死)にゆべき法華経の行者なり。これをふびんとをぼして山河をこえわたり、をくりたびて候ふ御心ざしは、麦にはあらず金なり、金にはあらず法華経の文字なり。我等が眼にはむぎなり。十らせつ(羅刹)には、このむぎをば仏のたねとこそ御らん候ふらめ。
建治元年(1275)2月25日執筆(建治
日蓮大聖人の言葉『重須殿女房御返事』おもんすどのにょうぼうごへんじ 21
月は山よりいでて山をてらす。わざわいは口より出でて身をやぶる。さいわいは心よりいでて我をかざる。今正月の始めに法華経をくやうしまいらせんとをぼしめす御心は、木より花のさき、池より蓮のつぼみ、雪山のせんだんのひらけ、月の始めて出づるなるべし。
弘安4年(1281)正月5日執筆
『昭和定本日蓮聖人遺文』1857頁
(訳)
月は山から出て、その山を照らします。悪しき言葉は口から出て、その身を破滅させ
日蓮大聖人の言葉『四条金吾殿御返事』しじょうきんごどのごへんじ 20
在世の法華経は釈迦如来の御志を書き顕はして、此の音声を文字と成し給ふ。仏の御心はこの文字に備はれり。たとへば種子と苗と草と稲とはかはれども、心はたがはず。釈迦仏と法華経の文字とはかはれども、心は一つなり。然れば法華経の文字を拝見せさせ給ふは、生身の釈迦如来にあひ進らせたりとおぼしめすべし。
文永9年(1272)執筆
『昭和定本日蓮聖人遺文』666頁
(訳)
法華経は、お釈迦さまの御志が書き顕さ
日蓮大聖人の言葉『上野殿御返事』うえのどのごへんじ 18
(訳)
そもそも現今においては、法華経を信じる人もありますが、ある人は“火のように”信じ、ある人は“水のように”信じているのです。 “火のように”信じる人とは、説法を聞いた時に燃え立つように熱心になり夢中になって信仰しますが、時間がたつにつれて熱心さが消えてしまい、やがて捨て去る心のことをいうのです。それに対して、 “水のように”というのは、いつも退くことなく常に信じ続けることであります。
(解
日蓮大聖人の言葉『諸経与法華経難易事』しょきょうとほけきょうとなんいのこと 14
仏法ようやく顛倒しければ、世間もまた濁乱せり。仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり。
弘安3年(1280)執筆
『昭和定本日蓮聖人遺文』1752頁
(訳)
仏法の真実が次第に損なわれてしまえば、人の心も乱れ、世の中も濁って乱れてしまうのであります。仏法は、本体のよう