日蓮大聖人の言葉『上野殿御返事』うえのどのごへんじ 18


そもそも今の時、法華経を信ずる人あり。あるいは火のごとく信ずる人もあり。あるいは水のごとく信ずる人もあり。聴聞する時はもへたつ(燃立)ばかりをもへども、とをざかりぬればすつる心あり。水のごとくと申すはいつもたいせず信ずるなり。
       
建治4年(1278)2月25日執筆
『昭和定本日蓮聖人遺文』1451頁

(訳)
そもそも現今においては、法華経を信じる人もありますが、ある人は“火のように”信じ、ある人は“水のように”信じているのです。 “火のように”信じる人とは、説法を聞いた時に燃え立つように熱心になり夢中になって信仰しますが、時間がたつにつれて熱心さが消えてしまい、やがて捨て去る心のことをいうのです。それに対して、 “水のように”というのは、いつも退くことなく常に信じ続けることであります。

(解説)

このお手紙は、信者であった南条時光から芋・串柿・栗などの食糧品がご供養されたことに対する礼状であります。短い文章ではありますが、法華経を供養することの功徳が偉大であること、諸天善神から厚い御守護がいただけることなどについて説示されています。そのなかで、「信仰心のあり方」についての教示があり、それが冒頭に挙げました一節として示されているのです。

(思うところ)

信仰には二種類があって、「火の信」と「水の信」とを挙げています。ありがたい教えに出会いますと、その時は熱心になって、燃え上がる火のように信仰活動に励むのです。しかし、火というのは時間が経つにつれて消えてしまうものであり、「火の信」とはそのようなものであるといいます。ですから、教えから退くこと無く、常に信仰活動に励み続けるという「水の信」を心がけなければなりません。「水の信」こそ、まことの信仰であると指南されています。
 法華経信仰とは、一時的なものではなく、継続的に励んでいかなければならないのです。今日も、明日も、いつまでも、御題目をお唱えしましょう。 ~南無妙法蓮華経~

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