日蓮大聖人の言葉『南条殿御返事』 なんじょうどのごへんじ 22

在世の月は今も月、在世の花は今も花、むかしの功徳は今の功徳なり。その上、上一人より下万民までににくまれて、山中にうえし(飢死)にゆべき法華経の行者なり。これをふびんとをぼして山河をこえわたり、をくりたびて候ふ御心ざしは、麦にはあらず金なり、金にはあらず法華経の文字なり。我等が眼にはむぎなり。十らせつ(羅刹)には、このむぎをば仏のたねとこそ御らん候ふらめ。


建治元年(1275)2月25日執筆(建治3年とも)
『昭和定本日蓮聖人遺文』1079頁



(訳)
お釈迦さまがいらっしゃる時代(釈尊在世)の月は、今の月と同じでしょう。その当時の花は、今も花なのです。そのように、昔の功徳と現在の功徳は相違が無く、同じなのであります。そのうえ、現在の私(日蓮)は、上一人から下万民に至るまでの日本中の人々に憎まれて、身延山に隠棲しましたが、このままでは餓死をしてしまいそうな「法華経の行者」です。そのような私を不憫に思い、お気遣いをしてくださり、山を越え、川を渡って、お届けいただいた御志の品々は、麦というよりも黄金でありますが、その黄金よりも尊い法華経の文字でありましょう。私たちの目には麦に見えますが、法華経の守護神である十羅刹女(藍婆・毘藍婆・曲歯・華歯・黒歯・多髪・無厭足・持瓔珞・皐諦・奪一切衆生精気)は、あなたがお供えくださった麦を仏に成るための種とご覧になられるでありましょう。

(解説)
このお手紙は、日蓮聖人が身延山に住まわれていた時に、信者である南条時光が麦や河苔を供養されたことに対する返書です。
供養された麦は、法華経の文字へと変じたことが説示されていますが、これを受け取った南条氏はどんなに嬉しかったことでありましょうか。

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