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小説 桜ノ宮

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大人の「探偵」物語。 時々マガジンに入れ忘れていたため、順番がおかしくなっています。
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#探偵

小説 桜ノ宮 ㉛ 終

小説 桜ノ宮 ㉛ 終

夕方が近づいて風が強くなってきた。
横なぐりの桜吹雪を春子は空虚な気持ちで眺めていた。
ふいに、肩回りが温かく感じられた。
背後に誰かがいる。
そう思った途端に後ろから抱きしめられた。
「春子さん。何考えてるの」
「“願わくは 花の下にて 春死なん”」
「西行だね」
腕の中にいながら、春子は振り返った。
スリムは春子の前髪を整えた。
「春子さん、僕と行こうか。おなかの赤ちゃんと幸せに暮らせるところ

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小説 桜ノ宮 ㉘

紗雪は広季が滞在する部屋に美里を無事送り届けると、ゆっくりと廊下を歩きだした。
鼓動がいまさらになって早くなる。右耳の後ろから汗が流れた。
エレベーターを待っている間に肩を上下させて体をほぐすことを意識する。
間で大きく深呼吸をしてみた。
肩甲骨をぐるぐると回したあと、広季と美里のいる部屋を遠目に伺う。
ドアは閉じられたまま。
何の異変も感じられなかった。
エレベーターが到着し、ドアが開く。
なだ

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小説 桜ノ宮 ㉖

小説 桜ノ宮 ㉖

しばらくすると、広季だけがエレベーターホールへと消えていった。
紗雪がフロントへと歩いてくる。
「ごめんな。いきなり」
「ええよ。どうせ暇やし」
パソコンの画面から目を離さずに修は答えた。
「探偵稼業も楽やないわ」
紗雪は大きく息をつきながらフロントに背を向け、カウンターに両手を伸ばした。
「ハニワ誠実教って、いろいろやらかしてんの?今回みたいに」
振り向くことなく紗雪は修に訊ねた。
「そうやなあ

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小説 桜ノ宮 ㉕

小説 桜ノ宮 ㉕

修はフロントで書類整理をしながら、紗雪を待っていた。
最初に届いたメールを見た時には度肝を抜かれた。
―私、芦田さんとホテルに行くから。-
読むなり修の顔が真っ赤になったのは言うまでもない。
嫉妬はもちろん、この間自分と関係を持ったばかりだというのに相手がほかにいるのか、しかもこのホテルへ一緒に来るのかと、紗雪の神経を疑った。
―あ、今、変なこと書いたかも。誤解せんといて。これには事情があってやな

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小説 桜ノ宮 ㉔

小説 桜ノ宮 ㉔

タクシーは5分もしない間にやってきた。
スマホをいじっていた紗雪を先に乗せ、広季はあとに続いた。
「桜ノ宮のホテルブルームまで」
「はい」
金髪をひっつめにした初老の女性運転手は、紗雪の注文に甲高い声で答えた。
少し無邪気で幼女のような明るい声だった。
車は静かに動き出した。
「お客さん、ちょっと寒いかもしれませんけど、コロナ対策でちょっと窓開けさしてもらってますんで」
広季は車内の窓を一つ一つ見

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小説 桜ノ宮 ㉓

小説 桜ノ宮 ㉓

広季は公園でブランコを漕いでいた。
マスクをした親子づれがジャングルジムや滑り台で遊んでいる。
ひとりブランコを漕ぐ広季の姿を時折見ては目をそらしていた。
「たぶん、お前、変質者やと思われてるで」
隣のブランコに腰掛けたスリムが冷やかした。
「どう思われたってええわ」
「さて、うまくやってくれたでしょうかねえ、おばさん探偵は」
「さあ。でも、頼れる人がほかにおらんしなあ」
「秘書の福井さんは」

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小説 桜ノ宮 ⑰

小説 桜ノ宮 ⑰

可南からの電話を切った後、広季は唸った。
「ああ。腹立つわー」
タンクトップとトランクス姿で地団駄を踏むごとに腹と胸が揺れている。
「どないしたんや」
ソファ越しにスリムが訊いた。
「あのなあ、あ、せや、あの人に連絡しよう」

広季は紗雪に電話した。

「あ、市川さん。芦田ですー。どうもお世話になります」
「ああ、お世話になりますー」

「市川さん、早速探偵の仕事やってほしいんですわ」
さっきまで

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小説 桜ノ宮 ㉒

小説 桜ノ宮 ㉒

紗雪はおもむろにマスクを下げ、意を決して紫色の飲み物を口に入れた。
甘くてやたら舌や歯にまとわりついた。
紗雪の推理が確かならば、この飲み物は、かき氷のブルーハワイといちごのシロップを掛け合わせたものではないだろうか。
コップを盆に戻すと、マスクの位置を上げた。
これをどうしてお茶と思えるのだろう。
教祖がお茶だといえば、それはお茶だということなのだろうか。
お茶への疑問はまだあったが、紗雪はひと

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小説 桜ノ宮 ⑳

小説 桜ノ宮 ⑳

ドアの隙間から顔を出した美里は、ビアホールで見かけた時より、しぼんで見えた。
「こんにちは」
紗雪は無表情を意識してあいさつした。
とはいえ、顔のほとんどが眼鏡とマスクで覆われているのだが。
「こんにちは。あの。明日じゃなかったでしたっけ?」
肩にかかった髪を整えながら、美里は訊いた。
「お友達が日にちを間違えたみたいですね」
「あ、そうなんですか。ちょっと友達に連絡して来てもらいます」
「私がも

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小説 桜ノ宮 ⑲

可南の誘導により、紗雪は美里の実家へと向かった。
広季は公園で待機している。
いきなり会ったばかりの子どもとふたりきりになって不安だったが、可南が明るい子だったので紗雪はほっとしていた。
「探偵さんは、友達おる?」
「あー、いるっちゃあいるけど、最近会ってないなあ」
「じゃあ、彼氏は?」
「うーん」
修とよりを戻したわけではなかったので、紗雪は考え込んでしまった。
「おるんや!」
可南は黒目を輝か

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小説 桜ノ宮⑫

小説 桜ノ宮⑫

インターホンが紗雪の部屋にお気楽な音色を奏でたのは、夜11時を回ったころだった。
紗雪はちょうど風呂からあがったところで、タンクトップとパジャマのズボン姿で濡れた髪をタオルで拭き取っていた。
胸の奥にいきなり落ちてきた不安の塊を抱き、警戒しながら画面を見ると、修の顔があった。
僅かに肩が揺れ、貧乏ゆすりをしている。
久しぶりに会ったあとでこのような行動をとられると非常に気持ちが悪い。しかも、こちら

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小説 桜ノ宮⑩

広季がビジネスホテルから出ると、スリムが待ち構えていた。
「泣きそうな顔して」
スリムは慈愛に満ちた表情で広季に近づいてきた。
ビアホールを出てビジネスホテルへ来るまで、スリムはずっと広季の横に並んで歩いていた。時折、広季に話しかけ、顔を歪めながら反応する姿を笑っていた。
その間、どれだけうっとうしかったことか。
それが嘘のように今は目の前に立つスリムにすがりつきたいほど、広季の心はグラグラと揺れ

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